コロッケ

[コロッケ2個、ソースかけてね!」自転車を降りたち寄った肉屋で一個10円のコロッケを買う。あたりは暗くなってきたがこれは夕食前のオヤツだ!中学生のころ通っていた中山法華経寺近くの塾からの帰り道、食べ盛りだった私はコロッケを揚げる臭いのする肉屋の前を素通りできない。家に帰ればじきに夕食だというのに、その時はすきっ腹が我慢できなかった。当時は乾物屋と同様に肉屋もあちこちにあった。そしてその店頭ではどこもコロッケやハムカツなどの揚げ物をあげている。ハムカツはほとんどがパン粉のついたコロモで中のほうにウッスペラなソーセージハムが申し訳程度に挟まっていた。噛むと揚げた硬いコロモで上顎が傷つきそうになる。でもその匂いに吸い寄せられて、つい自転車のブレーキをかけることになるのだ。

受け取った揚げたてのコロッケをその場で食べると実に旨い。しかし中身はほとんどがただの潰したジャガイモだけで、他には何も入っていない。肉かな?と思ったらジャガイモの皮だった。ジャガイモだけの真っ白い中身では格好が付かないので、意図的に小さいジャガイモの皮を色添えに混入させていた。「この野郎、ダマシやがって」とつぶやく。ごく少量の挽肉も入っていたようだが、(砂山で探す、宝探しのようなもの)ほとんど見つけることは不可能である。イモだけなので子供達はコロッケと言わずに「イモッケ」と呼んでいた・・・。今はマックなどのポテトフライが大人気だが、(ポテトフライは世界中の人々が食べている)コロッケもポテトフライも材料はほとんど同じ、揚げたジャガイモを人類は好むということかなあ。

工房に通う帰り道、バス通りの手作りパン屋では度々特売日が開催される。店頭では臨時に唐揚げ、メンチカツ、コロッケなどの揚げ物をイベントで安く売る。通りすがりに好きだったコロッケが目に入ると「50円か、安いなあ」でも他にパンなどは買う気もないし、いい年したジジイが「百円でコロッケ2個とは、とてもカッコわるくて言えねえよ」心の中でつぶやき、通り過ぎるが未練がましく立ち止まり後ろを振り返る。「やっぱ、だめだ!」やめとこう。後ろ髪を引かれる気分だが足早に去った。でもいくつになったら「沽券に関わる」などの思いを棄て、お姉さん[コロッケ二つ!」とかわいらしく言える、素直なジジイになれるのであろうか?

子供の頃に好んで食べたタベモノは年をとっても余り変わらないようである。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

鯨のベーコン

 

「へーえ、こんなに薄っぺらいのが、この枚数で千円もするのか!」思わずつぶやくが迷ったあげく、それを手に持つ籠に放り込む。今夜はこれをツマミに冷酒でも飲むか?鯨のベーコンは最近スーパーでもあまり見かけない。それにしても凄く高い、千円で紙のように薄く小さなベーコンが4,5切れだ。「今では全く高級品になってしまったよなあ」我々が子供の頃、鯨のベーコンは安価で乾物屋で30円も払うと、一人では食べ切れない量たった。黄色く半透明で脂分のあるベーコンはベッコウ色で、真っ赤な食紅で色付けされた淵との色のバランスも良く、美しくさえもあったのだが。姉達や両親も気持ち悪いと食べないので、私はわざわざお金を貰い自分で買いに行っていた。

「なんでそんな物、旨いの?あんたの味覚どうかしてるよ」家に帰り包みを開けると姉達に言われたが、横から取られることもないのでゆっくりと食べた・・・。捕鯨が禁止されて久しい。鯨の取りすぎで個体数が減り絶滅が心配された鯨も、シロナガスクジラ以外は近年、むしろ増えすぎて困る状況でもある。適当に間引かないと子魚を食いつくし漁業にも影響が出るはずだ。しかし捕鯨の解禁とはならず、逆に調査捕鯨すら禁止される状況になっている。鯨はウオッチイングなど、優雅に泳いでいる姿を船で見る観光資源で、食料ではない!との認識も強まり食卓から完全に消えてしまう日も近いのか。

アメリカでも以前は食料としてでなくランプの油に使用するためだけに、太平洋で多くの鯨を殺していた。しかし石油に取って代わると、近年では全面捕鯨禁止を主張する。「鯨を殺して食べるのは残酷で、野蛮だ!」オーストラリアなど鯨を食べる食文化の無い国や、海の無い多くの国々は叫ぶが、「だったら牛や豚は可愛そうじゃないのか?」ということになる。「牛や豚は食べてよいとちゃんと聖書に書いてある、でも鯨は書いてないのでだめだ」まことに勝手な理屈である。それでは仏教の経典には「牛や豚など四足は食べちゃだめだと書いてあるが、鯨は足がなく魚なので食べてもいいと書いてある」と主張してみたらどうか。日本の食をしっかりと支えてきた鯨食の文化、なくならないで欲しい。

最近日本は国際捕鯨委員会からの離脱も検討しているようである。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ソフトサラミ

列車がゆっくりと国境近くの操車場に入って行く・・・。もう二日間、モスクワからウィーンへ行く国際列車の寝台車の中で缶詰めだ!さすがに疲れてきたが、オーストリアのウイーンまでは、まだ丸一日の行程が残る。寝台車は四人部屋でモスクワから同行の山本君と、祭司服を着た二人のイタリア人神父さんである。食堂車のついてない車内での食事はそれぞれ別で、私はモスクワや途中駅で買ったパン等をかじる。一方神父さんの食事は豪華だ!持参した硬そうな丸パンとチーズやハムなどを切って食べている。なるべく見ないようにしていたが、貧乏そうな日本人の若者達が可哀そうだと思ったのか?その中のソーセージを切り分けてくれた。

「へー、これ最高に旨いねえ」山本君と顔を見合せてニッコリ。なんていう名のソーセージか分からないが、魚肉ソーセージくらいの太さで白っぽい色をしていて、味は柔らかいサラミのようだった。言葉が通じないのでとりあえずグッドだと礼を言った。「しかし何やってんだ、早く出発しようよ」列車の窓から下を覗くと、ソ連とヨーロッパでは軌道の幅が違うらしく、左右から伸びたアームで列車を持ち上げ車台を交換している。「なんでこんな大変なことをするんだろう?」隣にヨーロッパの軌道の列車を横付けして、乗り換えればすむことなのになあ。もう車台を変えるのに3時間もかかっている。

やっと作業は終了したらしく、列車が再び走り始めた。ヨーロッパに入ると徐々に風景が違ってくる。ソ連は平坦な白樺林が何処までも続き、家も少なく変化がまるでなかった。しかしヨーロッパに入ると山間部が多くなり、赤い瓦の家々が点在し、まるで絵葉書を見ているようで美しい・・・!いよいよもうじきウイーンに到着か。気持ちは高まるが、不安感も増してくる。スペインへ行く山本君ともそこでお別れだ。いよいよ見知らぬ土地で、異人種の中での一人旅が始まる!でもウイーンからパリまでは、また列車を乗り換えて丸一日もかかる。

半世紀近く前、ソ連経由でパリに向かった時の思い出。6年後イタリアで生活し、もう一度食べてみたいとあのソーセージ探してみたが、見つけられなかった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

焼きオニギリ

自宅から5、6キロほどの距離のところに中山競馬場がある。ここには小学校の歩き遠足や自転車でもよく遊びに行った。当時は開催日以外は自由に中に入れたので広い場内は格好の遊び場であった。トラックの内側は芝生が植えられ、手入れが届き綺麗だった。遊びつかれて青々とした芝生に寝転んでいると、気持ちが良い。遮るものが全くない五月の快晴の空をじっと見ていたが・・・。「やばい!」思わず手で草を握り締める。急に空の中へどこまでも落ちて行きそうな錯覚に襲われた。「飯食うか?」突然、友だちが視界に入る。ゆっくり起き上がるると、彼の母親が持たせてくれた醤油の浸みた焼きオニギリを一つ貰い食べたが、広々とした空間で食べるオニギリ味はとても旨く感じた。

「キ、キ、キー!」ブレーキ音の後。「バリー、ガチャン!」後から坂を下る友達の自転車が突っ込んだ・・・!その帰り道、中山は坂が多い。当時は車も少なく皆で自転車で坂を駆け下る競争をする。すると友達の一人がカーブを曲がりきれず古い割り竹の垣根を突き破り、その家の縁側の先まで突進した。「あれー、どうした?」心配して止まって振り返ると「すいません!」と詫び、友だちが自転車を引きずり急いで、2メートルくらいポッカリ開いた垣根の穴から、すぐに飛び出してきた。「まずい、逃げろ!」一目散に逃げ帰えったがまるで漫画だった。思い出すと今でもふきだしてしまう。

しかし友だちの自転車は塀にぶつかった衝撃で、ハンドルが硬くなってしまったが、塀がブロックなどだったら本人が大怪我をしていたに相違ない!塀を壊されびっくりする家主の顔を想像するとおかしいが、我々の世代の男の子はみな逃げ足が早かった。喧嘩、悪戯も日常茶飯事、いつも生傷が耐えない。そのたびに真っ赤な赤チンを塗られる。私もいつも赤チンを塗っていたので、私は赤チンしか効かない体になってしまったらしい?いまだに透明なマーキロでは効きが悪く、なかなか化膿が止まらない。でもあの赤チンなぜなくなったのか?水銀が入っているから製造禁止になったという噂だが、あれは本当なのであろうか?

赤チンすなわちマーキュロクロム液は有機水銀剤の水溶液であるという。2019年についに全面製造禁止となるそうだ。

(千葉県八千代市勝田台。勝田陶人舎)

サツマアゲ

大きな石臼の中で杵がゴロゴロ音を立てて回転している。先ほど丸ごと投げ込まれた魚がみるみる細かく潰れて、ペースト状になっていく・・・。じっと見つめていると「はーい、お待ちどうさま」おばさんの声に呼ばれた。新聞紙で作られた紙袋のサツマアゲを受け取ると、揚げたてはまだ熱い。袋に染み出てくる油を気にしながら、急いで自宅に帰る。私が子供の頃、家の近くに「網虎」というサツマアゲ屋があった。ここではサツマアゲを手作りしていて、昼食のおかずにとよくお使い行っていた。特に小さな丸いカレーボールが大好きで喜んで食べていた記憶がある。しかしこのサツマアゲ屋しばらくすると繁盛していたのに店をしめた。最近ではこのサツマアゲ、オデン種でしかお目にかからないがサツマアゲも揚げたてにまさるものはない。

「伸ちゃんー、落ちたぞ!」昼食中に突然のえー坊の声だ。「すぐ行くー!」急いで飯をかきこみ外に飛び出す。道に出て見ると遠くでオート三輪が泥にはまり動けないでいる!この頃、我が家の前の8メートル道路の中央にはドブ川が流れていて、左右の側道は2メートル位しかない。おまけに砂利道で梅雨時など雨がたくさん降るとぬかるむ。ここをオート三輪が通り、脱輪してドブ川に落ちそうになるのだ。するとここからが我々ガキどもの出番だ。「危ないから退いてろ!」のおじさんの声を制して、オート三輪に近づく。何度もこの光景を見ているので、脱出の方法はおじさんよりも熟知している。

「まず、滑り止めに後輪の下に砂利を敷かなくてはだめだよ」道から砂利をかき集める。再度エンジンかけ試してみるが、後輪が滑って状況は変わらない。「それでは道板を車輪下にかおう」シャベルで後輪の前のドロを除き、探してきた板をかう。またエンジンをかけると、なんとかなりそうだ「あとは、皆でふっちゃげよう!」(持ち上げる、知らないうちに土方言葉なっている)通る人を呼びとめ皆で後ろから押すと、ようやくオート三輪は泥穴から抜け出した。そしておじさんは笑顔で去って行くが、この救出劇が面白くてたまらなかった。オート三輪が通るとドロにはまるのを密かに期待して見ていた。

手作りサツマアゲ屋は船橋駅前に大きな繁盛店があって、何回かわざわざ買いに行ったこともあるが、京成の船橋駅高架工事と共に店を閉めた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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