飽食

私は週に4,5日は早朝6時半には自宅を出て工房に向かう。暮れも押し迫ったまだ薄暗い住宅街の道は人通りも少ない。「カアー、カー!」するとゴミ集積場には、もう2,3匹のカラスがゴミ袋を口ばしで探り仕事開始!一生懸命ゴミ袋を破こうとしている。私が立ち止まり一瞥するとカラスも首をかしげ睨み返すが、とりあえず身を翻し高い所に退避する。「この野郎、全くしょうがねえなあ!」とつぶやきゴミ置き場を通り過ぎ後方を振り向くと、素早く降りてきて直ぐに仕事を再開。旨そうな残飯を引きずり出す・・・。今の家庭からは大量の食べ残しの生ゴミが出る。そのうえ食品を扱うコンビニやスーパーからは、賞味期限の切れた食品も大半が処分されるというが、真にもったいない話でもある。

ここで昭和20年代の頃を少し振り返ってみると、当時は生ゴミなどの問題はほとんど存在しなかった!食糧難で食べを残す程の食材が簡単に手に入らない。そこで必然的に食料は全て余すとこなく食べつくす。蒸かしたサツマイモの皮まで拾って食べていた子もいたくらいで、生ゴミとして出るのは卵の殻、茶ガラ、みかんの皮や種、などごく少量だった。行政もゴミの収集車などあるわけないので収集は行わない。わずかな生ゴミは自宅の庭のすみに穴を掘って埋めていた。するとこれが庭木の飼料にもなる。再生できない汚れた紙類などは庭で燃やすが、プラスチック製品などはまだ世の中に存在しなかったので環境問題もない。

「クズーい、お払い!」と言いながら、リヤカーを引き時々クズ屋がやって来る。これは今で言う資源ごみの民間回収業者だ。物資の乏しい時代、金になりそうな鉄や銅などの金属、新聞や本などの紙類、ビンなどのガラス等とりあえず再生できるものは何でも買っていく。値段は重さで決め、今では全く見なくなった分銅のついた天秤量りで物を吊るして量った。20、30円単位の売値だがこれが結構子供の小遣い稼ぎになる。だから当時は舗装されていない道を裸足で歩いても怪我の心配も無い!鉄くずなどは釘一本落ちてなかった。それから時代も過ぎ昭和30年ぐらいになると、各戸にゴミ箱が供えられるようになり、行政がゴミを収集を始める。でもビニールゴミ袋の登場にはそれからまだ暫くの時間がかかった。

今年も明日は大晦日、これが本年最後のブログとなります。今年もご愛読ありがとうございました。では皆さん来年も宜しく、良いお年を!写真は自宅にある1世紀位前のノリタケ(日本陶器株式会社)輸出用の絵皿です。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・富岡伸一)

 

 

コーヒー牛乳

「そういえば、自分が始めてコーヒーを飲んだのはいくつの時だったけ!」と急に思い立ち記憶をたどることにしてみた。歳を重ねてくるとだんだん朝起きるのがはやくなる。早朝2時半にもなると自然と目覚める。布団の中でグズグズしていても時間が貴重なので着替えをし、階下の居間に降りていく。そしてテーブルの前に置かれた椅子に腰かけとりあえずテレビスイッチをつける。そしてここでお湯を沸かしまずはブレークタイム、必ず熱いコーヒーをコップに注ぐ。さてと当然戦後暫くはコーヒーなどの嗜好品は、外貨の無い日本では通常輸入されるはずも無く、戦前を知らない我々子供達はその存在すら知らなかったはずだ。

昭和30年前半まではどこの家庭でも内風呂などはほとんど無く、多くの人が銭湯に通っていた。そして小学生の3,4年生にもなると銭湯へは親とは別に行く事が多くなる。夕方遊び疲れて帰宅すると「体が汚れているから先に風呂に行って来い!」との指示がでる。そこで親から貰った小銭を握り締め、手ぬぐいを肩にかけ近所の友達を誘い銭湯に繰り出す。ところが当時の銭湯は湯船のお湯の温度が非常に熱い、たぶん45度位あったと思う。でも年寄りは皆熱い風呂が好きで、子供が水を出し温度を下げると必ず怒られる。仕方が無いので我慢をして入るのだが、お尻がビリビリして直ぐに飛び出す。何回か繰り返すと慣れてきてどうにか湯船に浸かることができた。

でも時には年寄りが風呂場から上がり消えることがある。するとそこからが我々の出番だ。水をどんどん出し温度を下げて泳ぎ回る。当時の銭湯の浴槽は熱く湯船が深い大人専用と、浅い一般用の二つあり、その仕切りの部分には下に穴が開いていた。そこでこの穴を潜って通過するのを競い合う!または木の桶を逆さにして湯船に浮かべ浮き輪代わりにする・・・。盛り上がってきた頃にガラス戸を開ける音、大人が入ってきて怒られて終了した。体を洗い脱衣場に上がると、いつも飲み物を売っているガラスケースに目を移す。すると今日は見慣れない茶色の牛乳が棚に置かれている。「何だこれ!」番台のおばさんに聞くと新発売のコーヒー牛乳だという。そこで興味津々一本15円のコーヒー牛乳を買ってみた。紙のふたをキリで開け、ゴックンと一口飲んだ瞬間ほろ苦く甘い味が口の中に広がった!

これが私とコーヒーとの最初の出会いだと記憶する。しかしインスタントコーヒーのない時代本格的にコーヒーを飲むようになったのは、忍んで喫茶店に出入りするようになった高校時代からである。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

キンメダイ

まだ幼児のころの頃、私が住む市川市菅野の一部住宅地では隣近所との家の垣根がなく、どこの家の庭も自由に素通り出来た。これは戦時中空襲時に垣根があると直ぐに逃げられず危険だということで取り払われたという。そのためクーラーなどない時代夏場は暑いので風通し良く、どこの家もガラス戸や玄関を開けっ放していた・・・。そこで隣近所の子供が断りもなくズカズカ家に上がりこんでくる。でもお互いさまなので別に注意をされることもなかった。私も同世代の女の子のいる左隣の家には私もよくおじゃました。そして昼食時などには、ちゃぶ台を囲んだ隣の料理メニューを観察するのだ!

最近テレビ番組では「お宅の昼食見せてください!」という番組が頻繁に放映されているが、こんなの私は幼児の頃からやっていた。隣の家では父親と母子達ののオカズが違う。(我が家では父親だけ別のオカズということはなかったが)おじさんだけが黄色い眼のデカイ赤い煮魚を食べている。始めて見るその異様な魚の目にびっくりだ!そして魚の身をを全部食べ終わると、次に残った骨を丼に移し、お湯をかけおじさんがそれを旨そうに啜る。「なんであんなことするんだろう気持ち悪い!」と思いさっそく家に帰り母親にそれを報告する。

母親は「へー、骨にお湯をかけて飲むの?それは多分キンメダイという魚の煮つけで油こく、お父さんが嫌いだから家では食べないの!」との返答だった。「そうなのか?キンメダイだから眼がデカイのか・・・?」そしてまたある時は赤く染まった大粒の魚卵がたくさんくっ付いた変な物を食べている。これもなんだか分からないので母親に聞いた。「それは多分スジコよ?」そして(鯨のベーコン、切りイカ、ピンク色のデンブ)と続く。我が家では父親が洋食や中華好きなので、煮魚などは唯一父親が好きだった「鯖の味噌煮」以外はほとんど作らない。それで北海道出身だった隣家の昼食拝見は各家の食文化の違いが垣間見られて、非常に参考になったのだ。今では高級魚のキンメダイもそのころは人気もなく大衆魚であったとか。

戦後は鮭や鰊もたくさん取れてスジコやタラコも安かった。ところがソビエトがオホーツクで操業する日本漁船を締め出すと、魚卵の価格は急騰する。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

タニシ

「うひょー、タニシがたくさんいる!」むかし子供の頃、田んぼの水を覗くとタニシがたくさんいた。でもあのタニシ今でも田んぼにいるのか?最近では田んぼをまじまじ見る機会もないので全く分からない。水苔の付着した汚いタニシが食用になるという話を聞いたことがある。以前私が尊敬する北大路魯山人は子供の頃、生活が非常に貧しく食べるものがないので、田んぼで簡単に取れるタニシを捕食してたという。その結果ジストマ肝吸虫に犯され、晩年肝硬変で死亡したと聞く。彼のタニシに対するこだわりは非常に強い!美食倶楽部の星が丘茶寮を開設した時にも、一流の食通を相手にタニシの料理を提供した。「いくらなんでもタニシかよ!」一部の客はこの食材に腹を立てたとか?

裸足でかまわず沼や田んぼに侵入していくと、稀にチスイヒルに足から血を吸われることがあった。でも痛くも痒くもないのに皮膚から血が流れ出て気づいた・・・。ところでこのヒルだが父親の話によると、昔は肩こりの治療に使われていたという。私は祖母を直接知らないが、祖母は体が大きく体重が20貫(80キロ)程もあったと聞く。そして祖母はそのとうじ肩こりがひどくなると、近所にいた今で言う整体士を呼んだが、この整体士の治療法が真に変わっていた。なんと肩こりのする部分にヒルを置き血をすわせるのだという。そして血を吸ったヒルは丸くなって肩から自然にポロッと落ちる。よどんだ血を抜くと肩は軽くなると言っていたとか。こんな不思議な治療法も昔はあったようだ。

子供の頃は自然ともっと隣りあわせで生活していので、身近な動植物を上手く利用していた。たとえば蜂にも頻繁に刺される。すると痛みをこらえながら直ぐに朝顔の葉を捜す。そして引きちぎった葉を手でもみ、出てきた汁を患部に塗ると痛みがじきにおさまる・・・。でもこんな知恵今の子供にはない。だいたい外で遊ばないので蜂に刺された経験もないのでは?良いのか悪いのかよくわからない。昔は遊んでいて打撲をしてもつける薬もないので「ちちん、ぷいぷい!痛いの痛いのとんで行けー!」などとおまじないを言ってごまかすだけで、暫くすると痛みも忘れてまた遊びだし、よほどのことがないと医者などに行かなかった。

工房近くの手打ち蕎麦屋には(春華、秋実)という魯山人の書いた額が、店の和室のカモイの上に掲げられている。「なるほどねー!」いかにも食にこだわった魯山人らしい言葉だ・・・。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

豚肉のソテー

「はっと気がついて目が覚めた、やばい誰もいない!」集合場所のソファーに腰掛け出発時間を待っていたら、うたた寝をしたらしい。「置いていかれたら大変だ日本に帰れない」大慌てで玄関に行ったが人影はない。でも出発の前には確かランチだったよなあ?と急いでレストランに駆け下りた。すると皆さんはすでにランチを食べ終わり「あれ、どうしたの!」という顔で私を見ている。「何で起こしてくれなかったのよう」という叱責の念!でも遅れてランチを食べるにも満席で自分の座る場所がない。立ってこちらを見ているイタリア人風のウエイターに声をかけるも言葉が通じない。「いったいここはどこなんだ!」と思ったところで目が覚めた。

「なあんだ、夢か!」昨夜寝るときに消し忘れたケーブルテレビが英語放送になっていて、潜在意識の中に入り込んできたらしい・・・?でもこの様な事が本当に起きる事もあるのだ。40年も前イタリアのミラノで、何人かと研修旅行で来ていた知り合いの山本さんを、空港まで送りに行った時のこと。彼がチェックインカウンターに並ぶと、「あれ、パスポートがない」と急に言い出し血相を変えて捜し始めたが、何処を捜しても見当たらない。「そうか、ホテルを出る前に確認したまま、テーブルの上に置いてきたらしい」と言い出した。「えー!」連れの皆さんも騒然としたが、ツアーなのでその飛行機に乗れなければ個人で帰る飛行機代は自腹だ。でもまだ2時間ある。一か八か取りに戻るしかない。

急いで山本さんと空港の出口でタクシーに飛び乗り、運転手に事情を説明して出来る限りスピードで、ホテルまで戻った。いそいでフロントでキーを借り部屋に入ると、まだパスポートがテーブルの上に残っていた。「あったよ!」でもこれで終わりじゃない。直ぐに階段を駆け下り待たせていたタクシーに再度飛び乗ると、また一目散に空港に向かった。そしてどうにか40分前に空港に到着したのだ。山本さんは終始顔面蒼白で登場手続きが済むと、やっと安堵の顔で礼を言い私に手を振りながら出国ロビーへと消えていった。ごじつ日本に帰って展示会で彼にバッタリ合うと、「あの時は本当に助かったよ」と再度礼を言われた。

今日は夢の中のランチだが。確か写真のような皿に赤いニンジン、緑のサヤインゲン、それに牛肉のソテーだったような気がした。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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