水割り

高校二年生の夏休みが終わる頃、それまでバンやジュンのアイビールックでお洒落し、銀座をうろついていた私は急にそれら全てが馬鹿らしく思えてきた。「自分はいったい何のために、生まれてきたのだろう?」という漠然とした焦燥感に襲われ始める。最初はなんとなくの自我の目覚めが、徐々にはっきりと現れてきた。するとだんだん一人で考え込むことが多くなり、文学書などにその答えを求めるようになった。そして大学に入る頃からは哲学の本に代わり、「人が生きる価値とは何ぞや?」の観念的意味の追求へと進んでいく。こうなると観念の亡霊が自分に付きまとい、楽しいはずの青春時代が何をしても夢中になれず、他人事のように冷めた目で自分を傍観し続けた。

「自分は何のために生きているのだ?」いつしか完全に思索の迷路に迷い込んでしまって、出口を探っては本を読み漁る日々を過ごしていた。この悶々とした青春時代は四年ほど続いたが、徐々に思索の中には解決策など無いことが分かってきた。そして出口が見つからなければ入り口に戻ることを考えてみた。すると何も考えずに遊んでいた高校時代以前の楽しかった記憶がよみがえる。「やばい!自分は間違っていた、「人生とは観念的には生きる意味などはない。行動しつづけることにより、自分の思いどうりの人生を構築すことにが出来るのだ」。「俺は自由だ、好き勝手に生きるぞ」と心の中で宣言した。人間なにも考えない単純と思える仕事の中にこそ、生きる価値を見つけるべきではないか?よし明日から働くぞ!思い立ったら行動はいつも早い。

夕刊の求人広告欄を眺めていると、銀座のクラブでボーイ募集のバナー広告が目に入った。「いっちょボーイでもやってみるか?」と翌日面接に出かけ即採用となり、客に水割りを運ぶ仕事を選んだ。この時の仕事の条件は、なるたけ単純作業であること。土方でも良かったが54キロの貧相な身体では出来るわけがない。でもわれわれの青春時代は私のように、内省的に人生を考えるユトリがあった。しかし今の若者では人生を観念的に悩む子などあまり聞いたことがない。学校教育でも大量な情報と知識の詰め込みだけで、自然を眺めながら自分の人生を見つめ思索する時間など与えられない。近年知識の詰め込み教育から開放するためにユトリ教育が推進されたがうまくいかず、また詰め込み教育に戻っていった。

今の時代、若い人の青春時代の過ごし方は難しい。時代についていくために立ち止まって自分の人生を熟考する時間などない。常に新しいテクを学び続け疲労困憊している。時代はますます便利になるが「自由と幸福感」からは遠ざかっていく気がする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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