ジャーマンポテト

私がビールを飲み始めたのは高校時代の頃からである。当時も飲酒や喫煙に対しての規制はとりあえず20歳という法律があったが、殆んど守られておらず高校生にもなると、たまには父親の晩酌のお余りを時々頂いたりしていた。その頃は16歳で中学を卒業し就職をしていた子も多くいたので、世間もとりあえず中学を卒業すれば、大人としてあつかっていた面もある。高校三年生にもなり就職や大学の進路も決まって、挨拶代わりに担任の先生の自宅に一本持ってお邪魔したりすると、お茶の代わりにビールを出してくれたと友達も話していたので、当時の規制のゆるさもわかる。当然飲酒運転の取り締まりもアナログでアルコール検査機も無い時代、警官に車を止められても鼻で息を嗅がれたり、車から出て直線に歩かされたりして、その千鳥足の様子で飲酒かどうかを見極めるという、真にいい加減な検査であった。そのため道端に警察官を見かけると、臭い消しに素早くミントを口に含んだりもした。

「ああ、俺もやっと大人になったのか!」地下に続く階段を友だちと足早に下り降りていった。扉をあけるとパッと明るい華やかな光景が眼前に広がる。奥行きのあるその空間には多くのテーブル席があり、大勢の人がジョッキを傾け楽しそうに雑談する。「いらっしゃいませ!」の言葉に案内され、空いている二人掛けのテーブル席についた。友達はすでにこの店には数度か来ているというので、注文は彼に任せることにした。銀座四丁目の三愛ビルの裏側あたりにあった「ミューヘン」という名の、本格的ドイツ風のこのビヤホールは人気があり、いつも大勢の人で賑わっていると友だちは話した。先に運ばれてきたジョッキビールを手にとり「乾杯!」と友だちとグラスをぶつけ合った。お互いに進路も決まり卒業間近のいっとき、「大学決まったら銀座に飲みに行こう」半年前からの約束が実現した日でもあった。

この時に私は生ビールというものを始めて飲んだが、苦かったキリンのビンビールとは違い、その飲み口の良さは新鮮に感じた。そのときにツマミとして一緒に頼んだのは確か、ジャーマンポテトとソーセージであったと思う。当時の銀座中央通りにはまだ柳が植わっていて、チンチン電車といわれた路面電車の都電も廃止される直前で、まだレトロな銀座の感じが色濃く残っていた。「銀ブラ」という言葉もあり、ウインドウショッピングしながら銀座を散歩することが流行っていた頃でもある。そのころベンチャーズが作曲し、和泉雅子と山内賢がデュエットで歌った「二人の銀座」という曲は今でも好きで、元気の出ないときにはユーチューブで時々聞くことにしている。

全く時の流れは早い。終戦直後の生まれで幼児の時の食事は一汁一菜であり、今で言う美味い食べ物など何も無かった。そのため自分や国の成長と共に、このブログのテーマである様々な飲食との出会いを、一つ一つ記憶することになる。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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