落花生

私の工房がある八千代市から、八街方面にかけての北総台地は言わずと知れた千葉の名産落花生の産地である。富士山の火山灰が堆積した赤土の台地は落花生の栽培には適しているという。しかしこの落花生畑は種を巻く春先に強い季節風が吹き荒れると砂埃が巻き上がり、目を開けていられない状態が続くこともある。もともとは南アメリカが原産だという落花生が、始めて日本に持ち込まれたのは江戸時代中期の中国からで、南京豆と呼ばれていた。しかし実際に栽培を始めたのは千葉県が最初で明治9年であるという・・・。昭和40年には全国での生産量が今の10倍もあったが、その後中国産に押されて減少しはじめ、現在では少ないその生産量の80パーセントあまりが千葉県産である。

「右か左、どちらがおじいさん?」南京豆の皮をむき当てるゲーム!記憶に残る人もいると思う。デジタルゲームなど想像もできない幼少期、オヤツで食べる落花生の皮をむき、退屈しのぎに姉とよく当てっこをした。豆の皮をむき二つに裂くと、片方だけに頭に出っ張りが付く。出っ張った方がおじいさん、へこんだ方がおばあさんと言う具合だ。当てた方がその豆を食べることができるので、けっこうマジに競った。昔のゲームはアナログなので遊び相手が常に必要となる。そのため兄弟が少ないと、遊び相手に困り寂しい思いをする。昔は幼児の面倒は年長の姉兄が見ていたが、少子化となった現代では代わりに保育園などで、先生がまとめて面倒を見ることになる。

私が子どもの頃は保育園などは殆んど存在しなかったと思う。幼稚園ですら少なっかったので、私も幼稚園には行っていない。そこで野山を駆けずり回っていた野生児が、いきなり小学校へ入学すると大変なことになる。じっと一時間座っていられない子や、先生の言うことを聞かない子供も多く、慣れるまで一ヶ月くらいはかかった。当時の私も同様で朝教室に着くと直ぐ取っ組み合いの喧嘩をして、お互いの腕力の強さ測って、序列を確認していた。でもそういう我々を横目で見る一団もいた。彼らは幼稚園卒業生でしらけた眼差しで我々を眺めていたのだ。擦り傷や切り傷が絶えず、いつも体のどこかにかさぶたが残り、赤チンやヨードチンキが必需品であった。

この秋オオマサリという巨大な実の落花生を頂いた。味もよくビールのツマミには最適でした。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

© 2024 冨岡陶芸工房 勝田陶人舎