アオヤギ

今年は梅雨明けが早く7月は連日35度を超える猛暑日で、熱中症になる人も多い。私も子供のころ何度か熱中症を罹った経験がある。習志野市にあった谷津遊園で泳いだ帰り道に、電車の中で急に目まいがしてフラフラと床にヘタリこんだ。水分補給もまめに取らず炎天下のプールで一日遊ぶと疲れで脱水症状になる。しかし10分も経つと徐々に回復した。当時は熱中症と言わずに日射病、あるいは熱射病と呼んでいた。私の小学校にはプールは無く、泳ぎたければ船橋のヘルスセンターか谷津遊園のプールまで、京成電車に乗り遠征するしかない。でも谷津遊園のプールは汚かった。プールは大きいがコンクリ作りでなく、ただ掘った穴に木枠で土止めをして、その中に目の前の海から引いた海水を、流し込んだ池のような粗末なものであった。

「塩辛い海水のプールなんか、ありかよー!」と不満を感じたをが、これには理由があったのではなか?正面には広大な東京湾が広がるが、遠浅で潮が引くと水が無くなる。そこで潮が満ちるまで時間、この粗末な簡易海水プールで我慢する。千葉県の湾岸地域の海辺は、水泳好きにはどこも役立たずだった!泳げるほど水のある満潮は一日数時間だけ。しかたなく海で本格的に泳ぐには千葉駅から汽車に乗り遠路、鋸山を超えて行くしかなっかった・・・。また当時谷津遊園の入口から駅まで両側には貝を売る店が並んでいて、アサリ、ハマグリ、赤貝など貝類であふれていた。きつい潮の香りと人混みで暑い真夏はむせ返る。

「ブー、ブーと口から変な音を出す子供たち!」この海ホオズキもまた貝と一緒に小さい籠に入り店頭で売られていた。海ホウズキは口に含み、上あごと舌で押しつぶすと音が出る。しかし慣れないとなかなか上手く音が出ない!この海ホオズキこそ、今の若い人は見たことも聞いたことも無い超レア物だと思う。(巻貝の卵嚢でゴムの様な感触の小さな平たい袋状の物で、これを口に含んで変な音を出して遊ぶ子供の玩具)また谷津遊園は潮干狩りでも人気スポットだった。アサリに似たバカ貝はそれこそバカのようにたくさん採れた。バカ貝は食べられないと父親から聞いたので全部置いてきたが、この貝はアオヤギといい剥き身も食べられるらしい。特に柱や舌の部分は旨い。

バカ貝を網の袋に詰め持ち帰る海水浴客を見て「バカだなあ、あんなに食べられない貝を詰めて」と思っていた私がバカだった。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

小玉スイカ

真夏の炎天下むせ返る暑さで喉が渇いた。「何か飲み物ないのか?」と促がす私に「なら、畑に行くか」と友人が誘う。「えー、畑で飲み物か」と疑問に思ったがついて行くと、彼の家の門を出た眼前にはスイカ畑が広がるがっている「どれにするかな?」畑に分け入ると所々にスイカが転がっていた。今まで見たことのない大きさのスイカに「こんな小さなスイカ食べられるのか」と問いかけた。「最近は小さなスイカも作っているんだ」と彼は答えた。(このスイカとうじ新しく開発された小玉スイカといいメロン位の大きさだった)その一つを蔓からはずし開け放たれた窓から通る風もまったく感じられない暑い部屋に持ち帰ると、彼が台所から用意した包丁で半分に切る。

「へー、黄色いスイカじゃないか」初めて見るその色に驚く。さっそく六等分しパクついた。「けっこう甘いじゃん、これ!」ただ真夏の陽光をたっぷり浴びたスイカは十分に暖かい。「ホットスイカってやつか、初めて食べたよ」冗談を言いながら笑った。この高校時代の友人の自宅は市川と松戸の境目付近にある農家で、当時は交通の便も非常にわるく林と田畑に囲まれた全くの田舎。バスも一時間に一本あるかないかだった。これでは市川高校への通学も大変であろうにと思った。スイカを食べ一息つくとギターを持ち出し、そのころ流行っていたピーター、ポール&マリーのフォークソングの練習を始めた。彼はギターがとても上手く、私に出来ない難しいテクもこなしていた。

「それじゃあ、時間だからそろそろ行くか?」というと彼は軽トラックを納屋から持ち出した。私に横に乗れと促すので「お前、いつ免許取ったの?」と尋ねると「ないよ、だから今から教習所に行くんだろう」「え、車で行くのか」そうだよと平然と答える。私は横に乗り警官に見つからないか心配したが、なるたけ農道を選んで通り、国府台教習所に向かった。この間距離は2キロでおよそ5分で着いた。(当時は軽自動車の免許は16歳で収得出来た。私も自宅にスバルがあったので16歳で免許を取り、高校1年の夏にはすでに車に乗っていた)今と違ってあの頃は車も少なく交通法規はあるが、緩やかですべてが適当であった。飲酒運転違反もあったのだろうが、アルコール検査機も存在しなかったので多少の量では分からない。「ただ運転免許を取りに車で通った奴は珍しい!」

高校生の多くがタバコを吸っていたので喫煙率は3割を超えていたと思う。学校帰りに学ランを着て平気でタバコを咥え、通学路を闊歩する彼の姿を思い出す。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

鯉のアライ

小学6年生の夏休みに父親の仕事のお弟子さんで、埼玉県加須市にある田中家を訪ねたことがあった。一人で浅草から東武電車に乗り、途中幸手駅で乗り換え加須駅で下車。改札を出ると地図を頼りに10分程の道のりを歩いて、なんとか田中家に到着した。「しかしこの辺はどこまでもまっ平らで田んぼが続く、つまらない風景のだなあ」という印象を持ったが、すぐに田中家の子供達とも打ち解け、一緒に近くの小川に魚とりに行った。加須周辺は山も海もないので、半日も過ごすとすぐに飽きる。また叔父さんも「埼玉県は海が無いので魚はうまくない!」という。当時は冷凍設備の車もなく魚の輸送にも時間がかかったので、千葉と埼玉では食べ物の地域差もかなりあったようだった。

「これが鯉のアライか?」始めて見る鯉のアライは薄切りで、大きな皿のブッカキ氷の上に乗せられていた。冷たいひと切れを取り味噌ダレを付けて食べると、油がのっていて結構いける!魚嫌いだったがこの鯉のアライは正直うまいと思った。(海の遠いこの地域では鯉のアライなど川魚は、よく食べるらしい)私の住む市川の江戸川対岸には寅さんで有名な柴又の帝釈天がある。その周辺には何軒かの川魚料理屋があり、参道の左手にある一軒の川魚料理屋には何回か立ち寄ったが、ここではウナギの蒲焼のほか鯉のアライも看板メニューにしている。でも生の川魚にはジストマがいるのでは?と心配をして食べずにいた。

最近テレビを見ていると、温泉宿で岩魚や鱒などを刺身で提供している店があるが、川魚にはジストマ肝吸虫の幼虫がいることが多い!生や加熱が不十分だと川魚からジストマの幼虫が体内に進入し、小腸から肝臓に入り込み肝硬変をひきおこすという。川魚を生で食べるのはかなりのリスクが伴うと思うが、対策はしているのか不安を感じる。鮭も生だと川にすむ幼魚時代にジストマが寄生するするそうで、以前はサーモンは生で食べなかった。(最近はノルウェーやチリのサーモンは、回転寿司の看板メニューのひとつ)でもこれは養殖イケスで、薬を大量に餌に混ぜて殺菌しているということだが、薬漬けのサーモンも怖い!だいたいあんなに薄いピンクのトロサーモンなど、自然界にいるわけがない。食品も良く吟味しないと何を食わさせられるか分からない。

むかし生きたドジョウをそのまま飲み込むという人がいた。彼によるとドジョウが胃の中で暴れ胃壁を突くので老廃物がはがれ胃が清潔に保てると言っていたが、胃カメラを飲んでみるとそんな訳ないと思った。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

湯豆腐

一年は本当に早いものでもうお盆の季節である。我が家の菩提寺は東京本郷の向が丘にあるので、お盆は通常新盆の7月に行う。最近東京でも盆を8月に行う家も以前より多くなってきたような気がするが、確かにこの時季お寺に行くと多くの人が墓参に訪れている。ところで新盆の歴史は以外に新しい。明治時代に開国にともない暦を国際基準に合わせるために改暦が行われ、旧暦の7月15日がそのまま新暦の同じ日に移行したので一ヶ月早まった。ところが農村部では7月は農繁期で忙しく、変更されずに旧暦のお盆が継続され、今だに8月15日を中心に行われている。でも確かにお盆は8月中旬の方がよい思う。この時期は暑くて疲れも出る頃で、ゆっくり休みたい。

「ええ!七輪ってまだ使ってるの」久しぶりに見る七輪がなつかしい。本郷の寺がある向が丘二丁目の交差点の近くに、数年前まで(五右衛門)という名の豆腐料理屋があった。ビルの谷間の三間の通路を20メートル程奥に進むとパティオが開ける。その空間には池のある小さな日本庭園と古民家風の店舗がたたずむ。近くには侘びた茶室もあり、中に入ると東京のど真ん中いることを忘れられる造作になっていた。ここで出すのは豆腐料理は味噌田楽を初め数種類のコースの料理で、最後の締めが七輪で炊く湯豆腐である。墓参の帰りや法事などでもよく行ったが、残念なことに最近取り壊されてマンションに変わった。この界隈でも老舗の料理屋が取り壊されて高いビルになる(観光資源になるのにもったいないことをする)

私が小学生の低学年の頃までは、市川にはまだガスやプロパンが普及しておらず、目覚めるとまず七輪で火を起こす。母親の言いつけで私も姉と庭で七輪の火はよく起こした。最初はマッチで新聞紙などに火をつけ、徐々に細いマキ、から墨へと、火を移していく。途中消えそうになると渋ウチハで焚口から懸命に仰ぎ風を送る。そして「おかあちゃん、火起きたよ!」と声をかけると、母親がニコニコしながら勝手口から出て来た。この七輪一つで朝味噌汁など何でも作った。当時の主婦は大変だった!近所ではまだ共同井戸の家もあり、外に水を汲みにでる。アフリカでは子供達が外に薪を拾いに出かけ、また数キロも離れた水場まで水を汲みに向かうが、この日本でつい数十年前まで火や水の調達から主婦の一日が始まったのだ。

たった6、70年でこんなに世の中が変わる。そこで食べ物を通して庶民の日常の変遷などを書き留めておきたいと思う。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

清酒Ⅱ

近くに住む娘夫婦からお中元に清酒の詰め合わせが届いた。小さな一合ビンに各地の地酒が詰められ、味の比較が楽しめるようになったセットで、冷蔵庫で冷やして晩酌のビールの後に飲むには手ごろなサイズだ。私は日本酒もワインも辛口好きで、それに一晩に何種類かの酒を少しずつ飲む究極のチャンッポン派でもある。チャンポンで飲む酒は飽きが来ないビールのツマミにウイスキー、ウイスキーのツマミに清酒を飲む、少し飲みすぎたと感じるとまた最初のビールに戻るといった具合だ。こう書くと相当な酒豪だと思われるがそれぞれの酒量はすくない。そのため私は酒の肴には余りこだわらない。ところが女房も酒好きなので勝手にいろいろ吟味して作ってくる。

「清濁あわせ飲め!」人生は清もあれば濁もあると、子供の頃からこの言葉は父親には教訓としてよく言われた。人生の清酒ばかり飲んでいると、濁り酒の味が分からない。世の中など矛盾だらけだ、片方のみだと男は度量がなくなる。合わせて飲むことにより、人間としての深みが増すし人生のおもしろさも分かる。あえて濁ったところに身を置く必要も無いと思うが、来るもの拒まず目の前に置かれた濁酒も躊躇することなく飲み干し、飲んだ後その状況などを考えろ。リスクを避け無難に生きるのも悪くないでも「冒険のない人生はつまらないよ、人としての成長もないし挫折感も達成感も希薄になる」との仰せだった!

職人になることを前提に育てられた私は自慢じゃないが、小、中学生時代ほとんど勉強はしなかった。サラリーマン家庭と違って父親の価値観がかなり違う。会社に勤めるわけではないので学歴もあまり必要ない。親も成績にはほとんど無関心だった。頭が良くて成績優秀、そして一流会社に勤めることも悪くない。でも我が家の価値観は成績よりも腕にこだわる風土だ「腕の良い職人が理想形」それには創造力と技術力を身につけることが優先する。職人は腕がよければ飯は食える!そこで父親が将来の仕事の師匠、絵の描き方から発想力など色々なことを伝授された。学校の先生の言うことなど聞かなくてよろしい。彼らの言うことなど聞いているとどんどん普通になっていくと。

その後家業の衰退により、大学は経済学部に進んだが、何の経験もなくデザイナーになり陶芸家になってある程度やってこられたのは、父親の家庭での教育が大きいと思っている。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

© 2024 冨岡陶芸工房 勝田陶人舎