むかし我が家では野菜の天ぷらのことを精進揚げと呼んでいた!(僧侶が仏道を極めることに精進するために食べる揚げ物で、精進料理の一部であるという)でも私はこの母親が作る精進揚げが子供の頃は大嫌いであった。衣が多くベッチャリとしていて、まるでうどん粉で揚げたをお好み焼を食べているようなモチモチ食感は、とてもいただけなかった。しかし今の野菜の天ぷらは実に旨い!衣が少なくカリッと揚っている。聞けば昔とは粉が違うからだと女房は言うが、同じ素材なのに粉だけで、何故こんなに違いができるのか不思議で、粉の量やかき回す方法、タマゴの投入などにも問題があったのだと思っている。私は野菜の天ぷらの中では特にハスが好みだ、シャキシャキ感のある歯ごたえはたまらない。それに今はハスのチップスもよい。ポテトよりずっとヘルシーな感じがする。

「やばい!また白バイのお巡りさんの視線を感じた」信号待ちで停止していた私の車に白バイが近づいて来て、横から顔を覗き込む。「子供が車なんか運転しやがって!」という顔をして、「こんなガキが免許書持ってるはずがない。無免許運転の子供一人ゲット!」とほくそ笑み。「免許証見せて」とぶっきらぼうに言う。ポケットを探り提示すると、顔としばし見比べる。すると納得したのか免許書をつき返し無言のまま立ち去った。「いつもこれか」とこの頃の警察官は非常に高圧的で、へた逆らうと男の子などはドヤされ殴られることもあった。「ほら、お巡りさんが来るよ」と悪いことをすると、よく親にもよく脅された。それほどお巡りさんは庶民にとっては怖い存在だった。

当時は中学を卒業して働きに出る子も多く、軽自動車の免許は16歳で収得できた。自宅にあった軽四のスバルに乗り、学校から帰ると家業の納品の手伝いを時々する。オクテだった私は体が小さくて中学生にしか見られない!そのころ市川から日本橋へは、まだ蔵前通りはなく、旧千葉街道を通って行くが、小岩を過ぎると小松川へ至る道の両側にはまだ蓮田が所々残っていて、夏にはピンクの美しいハスの花々を楽しむこともできた。ハスの大きな花は開くとき一気に咲くので「パン!」と音をたてると聞いたことがあったが、どうもこれは本当の話ではなさそうだ?江戸川区から市川市にかけての湾岸地域はむかし蓮田ばかりで、泥深い湿地は稲作には向かなかったらしい。しかし今はこの沿線には全くその面影は残っていない。ハス田を見ると当時の情景が頭に浮かぶ!

たまに作るハスの天ぷらはこの絵皿のプレートなどいかかでしょう。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

蒲焼き

いよいよウナギのシーズン到来である。皆さんはガマの穂というのをご存知だろうか?葦のように水辺に生える葉の細く長い草で、その茎は先端に細長い10センチ位の円筒の茶色い穂をつける、生け花でもよく使うあれである!蒲焼は最初このガマの穂のようのに、ウナギをブツ切りにして縦に串を刺して焼いていた。形がガマの穂とそっくりなのでガマヤキと呼んでいたらしい。後に変化してカバヤキと呼ばれるようになったという。ウナギは縄文時代から日本人に食べられていて、五千年以上の歴史があるそうだ。今の蒲焼のようにウナギを開いて串に刺し、タレをつけて焼くようになったのは、江戸時代の後期、18世紀ごろからだと文献には書いてある。

そして東京では明治以降ウナギを裂いて串に刺し、白焼きにしてから蒸し器で蒸して、タレを付けて再度焼くようになった。ところが関西ではウナギの蒲焼は、江戸時代の作り方を継承し、蒸さないで直接タレを付けて焼くので、関東の蒲焼より少し固めである。私は関西でもウナギはずいぶん食べたが、どちらが旨いかは好き好きであるが、硬めで香ばしい関西の焼き方のほうがどちらかと言うと好みである。以前テレビで、このウナギの料理法の違いの境目は東海道のどこなのか?調べ歩くという番組があったが、名古屋の手前の焼き蛤で有名な桑名あたりで東西に別れるといっていた。するとあの最高に美味い名古屋のヒツマブシも当然、関西風の焼き方であるのか?

「もうーこのおばさん、いい加減にしてくれよ。客の前でさっきから一人でしゃべりっ放し、これじゃあ折角のウナギが台無しだ」以前神戸の三宮センター街の裏手にあるウナギ屋には、業者の人によく連れて行ってもらったが、ここはウナギの「樋まぶし」が有名であった!でも店主のオカミさんが真におしゃべり、こちらがウナギをじっくり味わっているのにサービスのつもりなのか?のべつしゃべりまくる・・・!お重の中はご飯と短冊に切られたウナギがニ段重ねで、ご飯には山椒の実がそのまま粒で混ざる。ゆっくりと嚙みしめるとプチュと山椒がつぶれ、ほど良い刺激が口に広がった。三分の一程残し、後は茶碗に取りダシをかけお茶付けに!

特にヒツマブシは関西の蒲焼に限る。関東の焼き方ではウナギが柔らかく、むかないのではと思った!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

アイスキャンディー

「チリチリーン、チリチリーン!」手持ちのベルを鳴らし、小さなキャンデーと書いた旗をなびかせアイスキャンディー屋が夏になるとやって来る。大きな麦わら帽子をかぶり、白いダボシャツにサンダル履きのオジサンの自転車の荷台には、ブルーの保冷庫の木箱が乗せられていた。箱の中にはピンクやブルーに色付けされたの甘い水を凍らせただけの、一本十円のアイスキャンディー入っている。このキャンディーの棒は割り箸を割っただけで、斜めについていることが多く、注意して食べないとまだ途中でポトット抜け落ちることがある。「食べると赤痢になるよ」と親からは忠告されていが、その日は特にカンカン照りで喉が異常に渇いていた。「まあいいか!」アイスキャンディーを買い、舐めながら木陰で涼んでいたのだ。

「あれー、遠くの方から尺八の音色が聞こえる・・・虚無僧かあ!」見るとこの暑いのに白装束に茶色い羽織の重ね、頭からはスッポリと顔が見えない編み笠を被っていた。「この炎天下、良く我慢できるなあ」俺は半ズボンにランニングシャツ一枚、それでも厚いのでこうしてアイスまで舐めれいる・・・。その虚無僧は家々の玄関先で尺八を吹き托鉢をすれど、だれもわざわざ玄関を開け小銭など提供する人などいないと見えて、徐々にこちら方にやって来た。すると虚無僧のおじさんも暑く疲れたのか私の涼む木陰に来て、正面の石段の上にゆっくりと腰をおろしたのだ。尺八をゆっくりと脇に置き、履いていた草鞋のヒモを結びなおしていた。

私はなにも話しかけず、ただぼんやりと編み笠のおじさんのしぐさを眺めていた。ところが「その時だ!」おじさんが手ぬぐいを取り出し顔の汗をぬぐうため、編み笠を一瞬上方に引き上げた。「ガーン、なにー」。なんとおじさんの顔には鼻が無い。鼻の部分には直接丸い穴があいているだけのすごく怖い顔!びっくり飛び上がらんばかりで急いで自宅に戻った。「あの虚無僧が家に来たらどうしよう」あいにく家には誰もいなかった。その後しばらく押入れに身を潜めていた。母親が帰ったのでそのことを告げると、「ライ病などで鼻を失い、仕事にも就けず虚無僧に身を転じて、托鉢しながら全国を行脚する人もいるのよ」と告げれれたが、社会保障制度なども充実して無い時代、障害者などが生きていくのも大変だった。

今日は工房の盆栽を掲載する。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

オリーブ油

今年の梅雨明けとても早かった!いよいよ暑い夏の始まりであるが、今の若い人達は余り海水浴には行かない。日光浴はお肌に悪いと極度に日焼けを嫌うようになった。むかし夏の炎天下で肌を焼き中高年になってから、シミだらけになっている女性達の後悔の言葉を教訓として聞き、なるたけ日に焼かないようにしているのだと思う。若い女性が海に行かなければ、水着姿を見るのが楽しみで海に行く男性もとうぜん少ない。それに極度に日焼けを嫌う女性が以前より多くなった。日傘やツバの大きな帽子、サングラスにマスク、暑いのに手袋までしている。肌の露出している部分がほとんど無い、完全武装の「お肌のミカタ」月光仮面である。

「こんにちは!」と自転車に乗り通りすがりに挨拶されたが、誰だか全くわからない!なんてことが先日あった・・・。我々の若い頃はクーラーが家庭には普及しておらず、夏は涼を求めて海水浴に行くのが楽しみであった。今のように良い日焼け止めクリームもなく、ビンに入ったオリーブオイルを体に塗る。そうすると肌が赤くならずに綺麗に日焼けすることが出来る。夏休みが終わり、学校が始まる頃になると「黒んぼ大会」なるものも開催され、お互いに色の黒さを競いあった。夏場色が白いと女の子にもてない。海に行かない時は自宅のベランダで肌を焼いたりもしていた。今の時代この黒んぼ大会などと名ずけて、イベントを開催をすれば直ぐに人権団体から猛烈な抗議を受ける。

当時は輸入品のオリーブオイルは値段が高く頻繁には使用できない。当然オリーブ油を料理に使うという発想はまるで無く、オリーブ油は日焼けオイルなのだとずっと思っていた。オリーブ油が料理油として本格的に使われ始めたのは、イタリア料理が普及し始めた40年位前からで、わりと最近の事である。しかしこのオリーブオイル、まがい品が多くてとても危険なオイルもあるらしい!着色されたり、他のオイルを混ぜたりして合成されているという。値段の安いものは全て紛い品ということで、250ml二千円以上のものでないと、だいたい合成オイルだとか。オリーブオイルはスペインが主産地であるが量が余り取れない。そのため需要が増えると紛い品が多くなるという。

エクストラバージンオイルを小さい鉢に入れ、子切りのバケットを皿にのせ付けて食べる。これ最高・・・。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

カプッチーノ

[センタ(すいません)」遠くにいるボーイに手を挙げ合図する。彼は軽くうなずいて私の方にやってくる。そのとき別の方向から「センタ」美しい女性の声がした。するとボーイは身をひるがえし女性のほうへ向かう。「あの野郎ー」俺が先に呼んだのに、といちいち腹を立てるあなたはこの国イタリアには住めない。この国の優先順位は後先の時間差ではない。まず女性が男性よりも優先順位が先だ。それに若くて美人ならなおさらだ。男性は若い人より年寄りの方が先、親しい友だちや顔見知りも優先する。それに上から目線の高圧的な人、階級社会のイタリアでは遠慮深いと下層民だと思われなめられる。だから穏やかな口調の若い男の旅行者など一番後回しになる!

ボーイを呼んだのは若い女性の二人連れ!彼はニコニコしながらオーダーも聞かず話しかけいる。「美人だねえ!どこから来たの?観光?町でも案内しますか?」必ず口説く。でもこれはイタリア男の「こんにちわ」程度の挨拶で、断られるのを承知で声をかけいる。彼らの文化では若い女性を見たらとりあえず口説かないと無視したと失礼にあたる。いっぽう女性は興味ある男性でも、何度かは断らないと尻軽女に見られると相手にしない素振りをする。一度断ってもどうせ何度もやってくるし、適当なところで受ければよいとなかなかオーケーしない。イタリア女性は自分の方からは笑顔を見せないし、ほとんどアプローチすることはない!男性が声をかけ続けることがこの国のルールだ!(女性に恥はかかせない)

そんなところに日本の若い男性や女性が進入したらどうなるのか?ここでいろいろな誤解が生まれる。若い美人の女性を見ても直ぐに口説きもしない冨岡は、どこか体が悪いか、ホモなのではないか?一方女性は急に自分はもてるようになったと錯覚する。言い寄る男達に笑顔で接すると、自分のことが好きなのだとすぐに勘違いされ付きまとわれる!あげくの果てに誰にでもなびく、尻軽女だと思われて付き合ってもじきに捨てられる。(でも女性にとっては面白い国だと思うが、男性は余程自分を変えないと、シャイな日本人の情念では住みずらくストレスがたまる)先日テレビを見ていたら、若いイタリア女性が「日本に住むのも良いが、誰も口説きに来なくて面白くない!」と話していた。

日本式が良いのかイタリア式が良いのかはそれぞれ長短があるので分からない。しかしこの二国の恋愛表現はあまりにも極端な違いがあると思う。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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