夜鳴きソバ

「あのドンブリ、ちゃんと洗っているのかしら?」と母親が言う。「確かにそうだな、あの狭い屋台の中に充分な水などあるわけが無い」と父親が答えた。私が小学校低学年ころ、即席麺がまだ世の中に出回る前の話。夜8時を過ぎると「ピロリ、リリー・・・」チャルメラを吹く音が聞こえてくる。あの笛の音は、やけに食欲をさそう。「たまにはラーメン食べたいよね」の呟きに親がうなずいたので、姉と一緒に外に飛び出す。裸電球が遠くに光る街路はかなり暗いが、おじさんの引く屋台はカーバイトを焚く光で明るく輝いていた。「ラーメン3つ」とおじさんに告げ、ラーメンスープとカーバイトの臭いを嗅ぎながら、待つこと10分ラーメンが出来上がった。盆にのせ届けられたラーメンは夜食なので家族6人で分けあう。そして食べ終わったラーメンドンブリは直ぐに屋台に戻しに行く。

明星チャルメラという即席麺も好きで、たまには一人で作ることがある。するとこのラーメンを開封する時に出会うのが、今だにおっちゃんがチャルメラを吹くあのアニメキャラクターだ。「オッチャンまだ屋台引いているのか」頑張るねえと微笑みながら沸騰した湯に麺をぶち込む。即席麺が登場する以前は、ラーメンは自宅では簡単に作れなかった。まずスープを作るのが大変だった。八幡神社近くにあった鳥吉という名の鶏肉屋で鳥ガラを買い、ダシをとることから始める。でもそれから数年経つと、あの日清のチキンラーメンの劇的な登場となる。すると屋台のおっちゃんの仕事はじきになくなり、チャルメラの音が街から消えていった。そう考えてみると、この明星チャルメラのキャラクターもどことなく悲哀を感じる。

「俺明日から朝食は即席麺でいいよ」と母親に告げたのがまずかった。即席麺が好きだった私は高校時代の1年間、黙ってラーメンを食べ続けた。「あんたも好きだねえ、こんなもの」と言いながら母親は、野菜たっぷりラーメンをせっせと作る。まさかここまで徹底されるとは正直思わない。さすがに飽きてきたが「納豆ご飯が食べたい」などと言い出せずにずるずると継続したのだ・・・。今でも即席麺やカップヌードルは好きで、早朝出かける時は一人でカップヌードルを楽しむ。料理好き女房には作りがいがないと馬鹿にされるが「私の味覚もしょせんこの程度」と自覚し麺をすする。チャルメラの音色が聞こえてきた当時、ラーメンでさえ庶民にはご馳走であった。

今あたりまえだと思っている好きなものが常に食べられる豊食の時代もそろそろ終焉し、きっとあの時代がまたやって来る!そう思いつつ欠乏の時代の過去を綴る。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

ブルマン

今では殆ど見なくなった懐かしい戦後昭和を思い出させる憩いの場のひとつが、どこの駅前にもあった純喫茶である。子供の頃は遠巻きに眺めていたが、高校生にもなると時々ここに入店するようになる。赤い毯がひかれ、アールデコ調のランプが気だるく光る店内は薄暗く、どこか怪しげな雰囲気を放っていた。当然学校ではこのような純喫茶への入店は禁止で、時々見回りに来る先生に見つかるとまづいことになる。でもブルーやエンジのビロードが張られた柔らかいソファーに腰をおろすと、何か大人になった気分がして学校帰りにも時々たちよった。店内には当時流行っていた、モダンジャズやクラッシック曲などの音楽が流れ非常に心地よい。

「おまえこの曲知っているか?」と同席のタバコをくわえた友達から聞かれた。「この曲はなあ、アメリカのジャズバンド、ブリューベックのテイクファイブだ。今アメリカでは人気なんだぞ」という。当時モダンジャズはダンモと呼び一部のカッコ付けの高校生の間でもファンがいた。ダンモは私が好きだったベンチャーズからするとマニアックなので、この曲以外には殆んど印象がない・・・。俺は、ブルマン!」とやって来た若い女給さんに友達がオーダーする。「じゃあ俺も」とはいってみたが、「ちきしょう!ブルマンってなんだ?」ブルマンとはご存知のようにブルーマウンテンのストレートコーヒーのことで、当時コーヒーを飲みつけない高校生に分かるはずがない。なにかこの友達には非常に差をつけられた感じがした。

そしてコーヒーが運ばれてくると、友達は何も入れずにいわゆるブラックでコーヒーを啜っていたが、私はミルクと砂糖を多めに入れる。「お前そんなに入れると、せっかくのブルマンの味が分からなくなるぞ」と咎められた・・・。でもそれから十数年も経過すると、その純喫茶にもインベーダーゲーム機が店内に入り込み始める。ビロードで張られたソファーの角はすっかり擦り切れ、音楽はほとんど聞こえずゲーム機のガチャガチャ音だけが響くようになり、落ち着いて話も出来ない空間に変わった。もちろん若い女性のウエイトレスの姿は消え、白髪の店主自らがぶっきらぼうにコーヒーを運ぶ。そしてお城のような外見の純喫茶もセルフサービスカフェに建てかえられていく。

当時はスタイリッシュな女性がコーヒーを運ぶ美人喫茶もあった。水道橋の学校近くの美人喫茶にはコーヒーの値段は少々高いが、授業の合い間に花を眺めに時々は出かけた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

茶巾寿司

わが国では個人の所有する自動車の約四割が軽自動車であるという。しかし今の軽自動車は室内空間も広く装備も充実していて、旧市街が残る市川市の狭い道路の通行などには非常に便利である。かつて私が軽自動車を乗り始めた1963年当時、軽自動車の免許収得は簡単であった。教習所で8時間ほどの運転講習と、交通法規の試験にさえ合格すれば16歳でも免許を取ることができた。しかしこの免許は軽自動車の限定免許で普通車の運転はできない。そこで18歳になると、再度普通免許に切り替える試験を受けことになる。当時は軽自動車には車検制度の適用がないので、タイヤ交換もしないで乗り続けた。タイヤがすり減るまで乗って丸坊主になると、突然大きな音を立てバーストすることもあった。

「まいったなあ、またエンジンがかからない!」こんな時は通常バッテリーか点火プラグの問題である。当時の軽自動車は混合ガソリンという、ガソリンとエンジンオイルを混ぜた特殊な燃料を使用していたので、点火プラグにすぐ油煙がこびりつきスパークしなくなる。その度に後方にあるエンジンルームを開け、プラグを工具で抜き取り取りブラッシングする。その頃の日本車はどの車種も性能が悪く、年数が経つと直ぐに故障する。道路の真ん中や交差点内での故障車も度々見かけた。動けずにいると後続の車が通行できないので、何人かのドライバーが降りていき、文句も言わずにその故障車を押して端にどかす。

そのころ自宅にあったスバルには、ガソリンメーターが運転席に無かった。メーター類はスピードメーターの1個だけ!それもマックス80キロで実際にはこのスピードさえも出ない。でも燃料残の確認はいったってシンプルである。燃料注入キャップを開けメモリの付いたメジャー棒を差し込と、濡れた位置で残量の確認が出来る。「これでは注意してないと直ぐにガス欠だ」でも奥の手が一つある。車の床にはコックがありこれを開くとガソリンの予備タンクに繋がり、ここに3リッター位のガソリンが眠る。これで近くのスタンドまでたどり着けるわけだ・・・。家業の手伝いで高校時代に車で日本橋三越まで納品に行く。すると母親の納品作業を待つ間、近くの人形町京樽の茶巾寿司が旨いと姉から聞いたので、車中で時々食べた。当時は旨く感じた「茶巾寿司!」だが京樽なら今では何処にもあるので普通の軽食になった。しかし軽自動車も食べ物もずいぶん贅沢になったものだ。

こんな状況なので当時JAF(故障車をレッカーする会社)の会員が飛躍的に増えた。でも今の車はほとんど故障などしないので長年会費を納め続けても、呼んだのは車の鍵をなくした一度だけである。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

ベッコウ飴

そう言えば最近ベッコウ飴を見る機会がほとんどない。むかし縁日の屋台ではよくこのベッコウ飴が、テーブルの上の段に直立して並び売られていた。自宅近くの八幡神社秋祭りの夜に、友達と一緒に出かけるとカーバイトの燃える光に照らされ、様々な形のベッコウ飴がキラキラと琥珀色に輝いていた。当時屋台を照らす明かりには発電機がまだないので、電球でなくカーバイト(カーバイト石に水を加え、発生したアセチレンガスを燃焼させたランプ)が使われていた。シューというかすかな吹き出し音と、油のようなあの独特の香りは、鮮明に私の脳裏に焼きついていて、今もしあの懐かしい香りを臭いを嗅いだら、戦後昭和の記憶がいっきにあふれ出てくると思う。

「私一人で外に出たくない!」もう40年以上も前の話。まだ小さかった娘が不安そうに告げた。なんでも幼稚園の友だちの何人かが「口裂け女」の噂を聞いたらしい。道の向こうからやって来るスカーフで顔を隠した女性に遭遇すると、いきなり女は布をはずすし「わたしって綺麗」と迫ってくる。なんと耳まで裂けたその唇には真っ赤な口紅が塗られ、恐ろしく怖い顔だという。でも「口裂け女はベッコウ飴が大好き」口が裂けているので、平らで横に広いベッコウ飴を舐めるには好都合!だから口裂け女に遭遇したらベッコウ飴を差し出し、舐めている間に逃げるとよいそうだと不安げに言った。確かにベッコウ飴はおちょぼ口には舐めにくい・・・。でもこのような怖い噂話はいつの時代でも、子供達の間で話題になることがある。

私が子どものころ恐怖心を抱いたのは「人魂・ヒトダマ」との遭遇である。ヒトダマとは夜に飛ぶ青い火の玉で、死者の魂とされていた。人が亡くなった家やお墓の近くでヒトダマを見たという情報が多くあり、夜一人で寺の墓地などには怖くて殆んど近づけなかった。すると夏休みになると年長の子供に誘われるのが「肝試し・キモダメシ」である。真っ暗な近所の寺の墓地を、一人ずつ歩いて一周して度胸を試す。「俺はヒトダマを見たことがる。あれは小雨降る夜だった。墓地の横の通りを通ると、青白い光が幽かに輝き俺のほうに近づいてきた」など出発する前に年長者がもっともらしく語る。すると子供達の恐怖心はにわかに煽られ、だれも最初に行きたがらない。お化けなどはいないと思っていた私も、父親やすぐ上の姉も、ヒトダマは見たことがあると聞いていたので、しり込みするばかりであった。

今の時代で恐ろしいのはウィルスという化け物との遭遇である。眼に見えないので、怖くてマスクなしでは気軽に外にも出られない。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

浴衣

家業が和服などの柄を意匠する仕事を生業にしていた関係上、私もなんとなく自分が身にまとう衣服にも興味を持っていた。しかし幼児の頃は真夏になると蒸し暑いので、白いランニングシャツとパンツの下着で過ごすことが多かった。そのまま日中麦藁帽子をかぶり虫取りなどにも平気で出かけると、どうせ夕方には泥だらけになるので洗濯の手間も省ける。洗濯機も無い当時は子供が多いと母親も大変だった。大きな木のタライに水を張り、石鹸をぬった下着をゴシゴシと洗濯板にこすり付けて一枚一枚手洗いする。労力の必要な洗濯は、掃除、食事の支度と同様に主婦の重要な家事の一つであった。その頃は大人の男性でも下着で街を闊歩する人もいて、それを見ても何の違和感すら感じなかった。

「お呼びでない、お呼びでない!これまた失礼をいたしました」ともう亡くなった植木等さんが昭和30年代の中頃、シャボン玉ホリデーという番組で、この典型的な下着のおやじスタイルでテレビに登場した。薄いチジミの白いダボシャツにステテコ、それにベージュ色のニットの腹巻をし、パナマ帽を被り、下駄履きに扇子で扇ぐ姿。当時流行っていたロシア民謡を「エイコーラ、エイコーラ、それ漕げエイコーラ・・・」とコーラスが気取って合唱していると「おっ母さんのためなら、エーンヤコラ!」と下着姿の植木がヨイトマケの歌を歌いながら闖入してくる・・・。植木が場違いに気づき「お呼びでない!これまた失礼いたしました」と退場すると、皆さんズッコケテ番組が終了した。

しかしこのスタイル、奥さん方には非常に評判が悪いようであった。そこで徐々に皆さん開襟シャツやズボンなどで身支度するようになる。「洗濯機って、ほんと助かるわ!」このころ洗濯機が急速に一般家庭に普及し、増えた洗濯物を主婦が簡単に処理できるようになったことも、身だしなみに気をつける追い風になったと思う。私の両親は仕事がら普段でも着物を着ていることが多かった。高校生になると父親が私に浴衣を新調すると言い出した。「粋でイナセな江戸っ子の兄ちゃんの浴衣の柄は、やはり菊五郎格子だ」といって歌舞伎役者の三代目尾上菊五郎の「キ九五呂」文字がデザインされた、紺色の格子柄にきめた。しかし当時の私はVANのアイビールックに夢中!せっかく父親の作ってくれた浴衣に袖を通したのも数度であったと思う。

写真は10年前に陶器で製作した和服の女性。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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