冷や麦
昭和20年代までは大体どこの家でも内風呂がないので銭湯に行っていた。しかし夏場に毎日銭湯に行くと子沢山の家庭では金がかかる。そこで大きい洗濯桶に水を張り日中ヒナタに置いておくと夕方には水がお湯になり、行水するにはちょうど良い湯加減になった。子供たちはこのタライで遊びながら体を洗う。このころの下着は男の子は白いパンツ(パンツという言葉はなくサルマタとよんでいた)にランニングシャツ、女の子はズロース(フランス語の女性下着のドロワーズが訛ってズロース)に白いシミーズ(シュミーズとはこれもフランス語、女性の下着で今のスリップにようなもの)一枚だけ、湯から上がった体に粉噴き飴のように全身にアセモ対策用のシッカロールの粉をパタパタとはたかれる。
「きゃー、どうなってるのこれ」いきなり次女の姉が大慌てで下着に燃え移った火を手でたたき消す。でも一瞬だったのでどうにか火傷をせずにすんだ。その日夕方暗くなると駄菓子屋で買って来た花火を庭でした。すると次女の持っていた線香花火の玉がシミーズに落ちた瞬間、あっという間に燃え移った。「あの下着の素材はいったいなんの繊維だったのか?」綿素材ならあんな燃え方はしない。戦前日本からシルクを輸入していたアメリカは、戦争でシルクの供給が途絶えると、化学繊維の開発に力を入れる。そして登場したのがナイロンやレーヨンなどの多くの化学繊維だった。戦後これらの安い繊維が日本にも一斉に入ってきて市場を席巻!養蚕農家は壊滅的な打撃を受けることになった。
当時はどの家もほとんどが平屋で、部屋数も少ない。我が家でも三部屋しかなく子供たちは夏場蚊帳を張り、6畳の部屋に兄弟4人で寝ていた。暑くて寝られない夜は部屋の中央に座り、父親や長女がお化けの話をする。この頃は小学校の高学年にもなると、お化話の2,3は誰でも諳んじていて、これを適当にアレンジして話す。クーラーや扇風機もない時代、ウチワ片手に怪談話で涼んだ・・・。夏場の夕食は水に浮かべた冷や麦をよく食べた。そうめんより太めで、ピンクや緑の色の麺も混ざっていた。(冷や麦と素麺の違いは太さの違いだけで、冷や麦に色麺が入っているのは素麺と区別するためとか)でもいま色麺は素麺にも入っていることがある。
冷や麦は涼しげなガラス鉢か、白い陶磁器の鉢などがよいとは思うのだが。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)