ピラフ
青春時代にパープル・シャドウズという音楽バンドの奏でる「小さなスナック」という曲が流行ったことがある。スナックとは英語で軽食という意味だが、そのころ新しく街に登場したスナックは、従来の喫茶っ店とは少し異なり軽食や酒類も提供する飲食店で、カッコ良く呼んでスナックといった。どこも同様に店舗は小さく、カウンター席とテーブル2,3が狭い空間に並べられていた。そのため客同士の会話も弾み、そこで友だちになるケースもある。当時私が通う大学では学生運動が盛んで大学封鎖が続き、授業は一年以上も行われていない。家業の納品の手伝いと、読書に耽る日々ではつまらない!そこで夕方になると気分転換に、近くのスナックにビールを飲みにでかける。
「君は山内賢に似てるねえ!」近くのカウンターに腰掛けていた初めて見る男性に、突然声をかけられる。「そうですか」と答えたがよく言われたので別に気にも留めずにいた。話を聞いていると彼は現在小説家志望で、特に三島由紀夫に傾倒しているとのことだった。私も一般的な作家本ならとりあえず読んでいたので、直ぐに意気投合し彼との文学語りが始まる。すると何日かして店のママさんが、私を世間知らずのボンボンと思ったのか「ねえ冨岡さん、あんな変わった人とは付き合わないほうが良いわよ!」と有難い忠告してくれた。確かに7歳上の三藤という名の男性はとてもユニークだった。
「この本、読んでみなよ!」かなり読み込まれた感じの一冊の本は「アウトサイダー」コリン・ウイルソン著で社会からはみ出し、世の中に迎合せずに孤高に生きた人たちを綴る本であった。でもその内容は興味深くも、のめり込むとヤバイ!普通の社会生活が送れなくなる可能性のある本である。そのころ感受性豊かな若者のスタイルは毛沢東に憧れて共産主義に走るか、社会から外れてヒッピーになるかの二択で実に極端な世相であった・・・。そしてこのスナックでよく供されたのが、当時新しい呼び名で登場した洋風チャーハンのピラフである。これは元来はトルコ料理だそうで、バターで生米と具を炒めてから炊くそうだ。でも日本のピラフはチャーハンと同じで、炊いたご飯と具をバターで炒め、剥き身海老を入れた簡単料理である。
中原中也の詩が好きで、冷めた目で世の中をバイアスに見ていた学生時代が、今では懐かしい気もする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
街灯
街灯
私の家は明治以前から三代続く江戸刺繍の伝統工芸を営む家系で、戦前は仕事先の日本橋三越近くの神田材木町に居を構えていた。しかし敗戦も濃厚になると,いよいよ東京も空襲で危険という事になり、持ち家のあった大田区雪ヶ谷には行かず、反対方向の千葉県市川市に疎開する目的で引っ越してきたという。そして東京大空襲で住まいが焼けたので、そのまま市川の田舎に住み続けることになってしまった。昭和の20年代は市川も田舎だった。秋葉原から総武線に乗ると住宅密集地は平井駅まで、荒川放水路を越え新小岩に入ると駅の北側は大きな鉄工所の他は何もなく、田んぼや畑が広がっていた。でも江戸川を渡り千葉県に入ると線路の南側は田んぼだが、北側は国府台など緑の台地を背景に、松林の中に民家が点在する趣のある風景が広がっていた。
実は私の父親は先の大戦には従軍してない。我々の世代の父親の殆んどは従軍経験があるが、早くから家業を継いだ父は仕事だけでは飽き足らず、帝国美術展という日展の前進に日本刺繍の作品で数度の入選をはたし、特別技能保持者ということで兵役を免除されていたという。物資の供給が極端に規制され絹糸なども市場から消えた後も、父には例外的に支給されていたと聞く。突然赤紙が来て、多くの男性が戦場に駆り出される中、静かに座って布に針を刺す男が戦時中にもいたのだ。もっとも箸と針しか重たい物を持ったことがない父親が、従軍しても何の役にもたたなかったと思うが。
「おとうさん、ほらあの音いったい何かしら、気持ち悪い」京橋の下町育ちの母親は越してきた当時、夜フクロウのホー、ホーと不気味に鳴く声に怯えていたという。そして家の前の小川にはホタルが飛び交い「なんだかとんでもない田舎にきっちゃった!」これが70数年前戦時中に越してきた母親から聞いた、当時の自宅周辺市川市菅野の様子である。私の知る昭和20年代は、家の近所にも街灯はほとんどなく月のない夜は真っ暗、雨戸を閉めると家々の裸電球の木漏れ灯などもなく、新月にはそれこそ闇で鼻をつままれても分からないほどだった。でも天を仰ぎ見ると、東西に流れるの天の川がくっきりと庭からでも確認できた。そんな状況なので、夜も深まると皆さん家からはほとんど外出しなかった。
昭和26年頃に朝鮮戦争が激しくなると戦争特需で世の中徐々に変わってくる。市場には生活物資も出回りはじめ、飢えの心配もやわらいでいった。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)