抹茶碗
「抹茶碗の姿は人格の反映です!」と陶芸を始めた40才の頃、弟子入りした先生に私が抹茶碗を作ってみたいと軽く言い放った時に、返された言葉だった。その時は別段その言葉の意味するところを、深く考えることもなかったが、最近になってはっきりと理解することが出来るようになってきてた。抹茶碗の難しさはその形が真円などの定型でないところと、釉薬のかかりも一定でなくあえて斑などを引き出すところにあると思う。しかし作為的に形を変形させたり、奇をてらって釉掛けすると、はなはだ陳腐なものとなる。
長く作陶をしていれば形などをある程度真似するのはできる。でも作為の手を感じた器は自然体でないので眺めているとじきに飽きてくる。それには無念無想、自然と一体になってそれに溶け込む自分を感じることが重要である。貪欲に手当たりしだい喰らいつき、エネルギーを発散し続け前進している若いうちは、抹茶碗などに手を染めないほうが良い。陶芸でもエネルギーが必要なテーマはいくらでもある。「抹茶碗は人生のたそがれ時こそお似合いだ!」発散し続けたエネルギーが枯渇し、浄化された頃合いが抹茶碗の作り時だと私は理解する。
グイノミは抹茶碗のミニサイズだと理解すればよい。この製作にも故意による作為は禁物である。自然を眺め天空に広がる宇宙と一体になったと感じた時。粘土を触る自分の手はもはや自身ものではない。インスピレーションによる物作りとはそのようなものだと感じている。こう考えると自身が死を向かえ、土に帰る最後の作品がベストになると仮定する。いや、あえてそう考えるべきだ。歳を重ねることは全てがマイナスの要素ばかりではない。勢いのある若い時には出せない奥深い感性や積み上げた技もある。
写真は普通に釉薬をかけたが、焼成中に自然にはじけてマダラ模様となる。自分の意思とは離れたところで、抹茶碗が仕上がる。それを愛でる心が日本人の美意識だと思う。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
芭蕉
芭蕉
月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて向かうる物は、日々旅にして、旅を住み家とす・・・。これは松尾芭蕉の「奥の細道」の序文であるが、人生を旅にたとえて生きてきた私自身も歳を重ね、そろそろその終着点が望める道程までたどりついた。残り時間をいかに有意義に過ごすかは、すべてのシルバー世代同様の課題であるが、人それぞれにその解釈の方法は異なると思う・・・。
私は朝起きるのが早い。通常午前二時には起床する。そして居間のテーブルの椅子に腰をおろし一息つくと、その日の気分で食器棚から気の向くままに選んだ自作の茶碗で抹茶をたてている。でも茶道を習ったわけではないので流儀は特にない。また夕方には同じく自作のグイノミを手に取り、好きな日本酒をそそぎ飲む時間が今の私の生きがいになっている。
しからば残りの人生はこの課題に取り組むことにしたい。抹茶碗とグイノミを自身のために日々気の向くまま作り続ける!すると10年、いや20年後にいったいどんな器を作っているのか想像するだけでも興味が沸く!この歳になると過度な物欲、金銭欲や名誉欲などは過去のどこかにおいて来た。あるのはたっぷりな自由時間と少々の創作意欲に向上心である。もう大きな作品などを作る必然も感じないので、これからはすべてが手の平サイズで十分だ。
このブログも早いものでもう3年半が経過した。そろそろ過去の記述もネタ切れになってきたので、4月からは新しく製作する抹茶碗やグイノミの写真と、世の中の出来事に対して私がどのように感じるのか?などを老いを迎える団塊世代の視点で記述したいと思っているので、引き続きのフォロー宜しくお願いします。
写真は抹茶碗とグイノミをセットで作ってみた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
人形焼
人形焼
浅草浅草寺の雷門をくぐり正面の仲見世通りを宝蔵門手前まで進むと、左手に木村屋本店と言う昔ながらの人形焼屋がある。ここの人形焼きは浅草育ちの父親が好きで、浅草寺にお参りに行くと必ず買って帰った。この人形焼はアンコと皮のバランスが程よくしっとりとして旨い。かつてはこの店に人形焼を焼くベテランの職人がおり、ガラス越しにその作業を望むことができた。彼の機械と一体になったリズミカルな手の動きに参拝者は視線をむける。父親が支払いを終える間、私は人形焼を焼くその姿をいつも凝視していた。しかし最近ではその光景を見かけないので職人もすでに引退し、後継者もなく工場での機械製造に代わったようだ。
私は浅草寺のこのあたりの場所にはあまり良い印象が無い。昔この店の向かい側、幼稚園を背にした参道に戦争で手足を失った何人かの傷痍軍人がいつも立っていた。白装束に兵隊帽を被り、アコーデオンなどを奏でて寄付を呼びかける。失った足には木の義足をつけ痛々しい!子供心にこの人達を見るのが怖くて早足に通り過ぎた記憶がある。戦後しばらくあちこちで見かけた傷痍軍人も時代と共にその人数減り、平成になると全く見かけなくなった。それと共に戦争の記憶が遠のき、その悲惨さが忘れられている。でも最近では好戦的な独裁国家に囲まれたわが国の安全が、再び脅かされ始めた。尖閣諸島の緊張など一触即発の場所もある。でも多くの犠牲者を出す戦争だけは避けたいものである。
このコロナ禍でも政府はあくまでもオリンピックの開催には前向きである。オリンピックを開催しないと多額の赤字がでるらしく、中止も難しいらしい・・・。先日パラリンピックの競技種目である車椅子バスケを見ていたが、その激しいバトルには圧倒された。ハンデキャップを持つ選手達が上半身を鍛え、一生懸命なプレーは素晴らしい!パラリンピックの種目では、選手達のハンデを補うスポーツ用具もいろいろ開発されている。現在パラリンピックで活躍する選手達をみていると、むかしの傷痍軍人のようなネガティブな身障者の悲壮感はない。彼らの強い意思とそれをサポートする世の中の仕組みに時代を感じる。
自分意思とは関係なく戦争にかり出され、身障者となった若者が多くいた時代もあった、パラリンピックを見ると傷痍軍人とかぶる世代も減る一方である。
(昨日彼岸で墓参りに行ったら、寺の庭にサクラが。勝田陶人舎・冨岡伸一)
白桃
白桃
私が子どもの頃、果物の缶詰と言えばパチンコ景品を思い出す。テレビもまだない当時、自宅で仕事をしていた父親は夕食がすむと、時々パチンコ屋に出かけた。そして運よく玉がでると土産として持ち帰ったのが私の好物、「白桃の缶詰」である。缶を開けタマゴのように色白で滑らかな姿を目にすると、思わず笑みがこぼれた。その感動は今でも忘れることはない。戦後すぐ物不足の頃は、今のようにパチンコの出玉はお金に換えることなく、缶詰などの食料やタバコなどと交換していた。なので夕方父親がパチンコ屋に出かけると、景品を持ち帰るのが楽しみであった。でも当時のパチンコ台は凄く単純で、まだチューリップさえなく、大当たりすることは稀であった。
パチンコ屋があった当時の本八幡駅周辺の風景を思い浮かべると、まだ国鉄と呼んでいたJR総武線は高架でなく地上走行をしていた。そのため随所に踏切があったが、街を南北に分断する南側はまだ人家も少なく、殆んどが田畑であった。でもホームに隣接する通称新道と呼ばれた行徳街道には幅の広い踏み切りがあり、手動の遮断機で職員が電車の通過に合わせて開閉作業をしていた。この踏み切りの手前で遮断機が開くのを待っていると、どうしても遮断機の丸いハンドルで開閉操作する小柄なおじさんに注目する。子供心にこの人、一生遮断機の開け閉めで生きていくのか?「これなら勉強しなくても俺にも出来そうだ」と憧れていたが、そのご総武線が高架になるとこのおじさんの仕事も消えた。
冷房もない当時のパチンコ屋は夏は入り口のドアも開けっぱなし、中の様子も丸見えで子供でも簡単に入店できた。とうぜん知り合いでもいれば直ぐに見つけられる。パチンコ台のジャラジャラ音は街路まで響き渡り、いやでも人々を招き入れた。そのような環境なので私も高校生になると、友達とパチンコ屋に通いはじめる。ところがだ「坊やお巡りさんが来るから、ちょっと外に出ててくれないかな!」と子どもっぽくみえたオクテの私だけが店員につまみ出される。でも紺色のブレザーを着こんだ友人は、大人に見えるので注意されずにいる・・・。チクショウ!俺もブレザーが欲しい。そこで洋裁学校に通っていた直ぐ上の姉に頼んで、ブレザーを作ってもらうことした。
ブレザーは作るのは難しいらしくパチンコに飽きた頃に何度かの仮縫いの末、やっと一着のベージュ色のブレザーが仕上がった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
クレープ
クレープ
私は株式投資などを趣味にしていた父親の進めもあり、大学は経済学部を選んだ。個人的にはさほど経済に興味はなかったが、大学に入学すると友達との出会いもあり、徐々に資本主義に対峙する社会主義思想にのめりこんで行く。同じ人間として生まれ、貧富の差が生じるのはおかしい。全ての人間は本来平等であるべきだ。資本家と労働者という格差が生じるのは日本の社会制度に問題がある!などと真剣に考えていた。当時はアメリカとソビエトが覇権を争い、対立していたが学生達の多くはソ連や中国などの社会主義を支持していたと思う。そのころ中国は毛沢東の文化大革命只中で、紅衛兵と称する若者集団が人民服を着て、赤い表紙の毛沢東語録を掲げ、多くの保守的な人々を粛清していった。
「石を投げれば、カメラマンかデザイナーにあたる」私たち団塊世代が大学を卒業する頃の人気職種が社会に縛られない、自由業と呼ばれた2つの職業である。髪の毛を肩まで垂らしてカメラを抱えた大勢の若者が新宿駅周辺にたむろし、一つの社会現象にもなっていた。世相を映像で切り取り、人気カメラマンとなった篠山紀信や立木義浩らがメディアに頻繁に登場し、彼らの言動が人々に注目された。この頃になるとそれまで人気のあった、大手アパレルメーカーでの既製服を嫌い、より自由で個性的なファション表現を目指す若者が増え、マンションの一室で服作りを始める。これらの若者の中にその後ファッション業界をリードしていく、川久保玲や山本耀司さんらがいた。
いわゆる全共闘世代の我々は、資本主義社会で働くことに疑問を抱きつつも、しかたなく押し出されるようにそれぞれが社会に巣立っていった。同様に何の希望もなく社会に出た私だが、いくつかの職業を変えたあとに運よくシューズデザイナーの仕事をする機会を得た。しかし会社に縛られることを嫌っていた私は3年でその会社を辞めてしまう。でもその頃は婦人靴デザイナーはまだ新しい職種であったので、独立して直ぐに仕事の依頼が来て、なんとか自立することが出来た・・・。一方我々の世代では特に嫌われていた職業が公務員である。当時公務員は給料も民間より安く、仕事の内容も変化がないので希望者が少なかった。だれでも公務員になれたので「デモ、シカ職業」などと呼ばれていたのだ。
1960年代までは単なる住宅地であった原宿に、マンションメーカーができ始めると、表参道や竹下通りはファッションの集積地に変貌していく。そのころ私がクレープという焼き菓子を見たのはここが最初であったと思う。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)