クレープ
私は株式投資などを趣味にしていた父親の進めもあり、大学は経済学部を選んだ。個人的にはさほど経済に興味はなかったが、大学に入学すると友達との出会いもあり、徐々に資本主義に対峙する社会主義思想にのめりこんで行く。同じ人間として生まれ、貧富の差が生じるのはおかしい。全ての人間は本来平等であるべきだ。資本家と労働者という格差が生じるのは日本の社会制度に問題がある!などと真剣に考えていた。当時はアメリカとソビエトが覇権を争い、対立していたが学生達の多くはソ連や中国などの社会主義を支持していたと思う。そのころ中国は毛沢東の文化大革命只中で、紅衛兵と称する若者集団が人民服を着て、赤い表紙の毛沢東語録を掲げ、多くの保守的な人々を粛清していった。
「石を投げれば、カメラマンかデザイナーにあたる」私たち団塊世代が大学を卒業する頃の人気職種が社会に縛られない、自由業と呼ばれた2つの職業である。髪の毛を肩まで垂らしてカメラを抱えた大勢の若者が新宿駅周辺にたむろし、一つの社会現象にもなっていた。世相を映像で切り取り、人気カメラマンとなった篠山紀信や立木義浩らがメディアに頻繁に登場し、彼らの言動が人々に注目された。この頃になるとそれまで人気のあった、大手アパレルメーカーでの既製服を嫌い、より自由で個性的なファション表現を目指す若者が増え、マンションの一室で服作りを始める。これらの若者の中にその後ファッション業界をリードしていく、川久保玲や山本耀司さんらがいた。
いわゆる全共闘世代の我々は、資本主義社会で働くことに疑問を抱きつつも、しかたなく押し出されるようにそれぞれが社会に巣立っていった。同様に何の希望もなく社会に出た私だが、いくつかの職業を変えたあとに運よくシューズデザイナーの仕事をする機会を得た。しかし会社に縛られることを嫌っていた私は3年でその会社を辞めてしまう。でもその頃は婦人靴デザイナーはまだ新しい職種であったので、独立して直ぐに仕事の依頼が来て、なんとか自立することが出来た・・・。一方我々の世代では特に嫌われていた職業が公務員である。当時公務員は給料も民間より安く、仕事の内容も変化がないので希望者が少なかった。だれでも公務員になれたので「デモ、シカ職業」などと呼ばれていたのだ。
1960年代までは単なる住宅地であった原宿に、マンションメーカーができ始めると、表参道や竹下通りはファッションの集積地に変貌していく。そのころ私がクレープという焼き菓子を見たのはここが最初であったと思う。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)