茶飲み話・父親

「人それぞれに父親に対する思いは異なる」。私は父親から受けた影響がかなり大きい。我が家は自営業であったため常に父親が自宅にいた。そこでサラリーマン世帯と違い、当然父親とのコミュニケーションが密になる。この明治生まれの父親は今考えると、かなり個性的であった。社会通念などは無視をし、良い意味で常識から離れていた。

通常サラリーマン世帯でありがちな勉強を頑張り良い大学に入って、一流会社に勤める理想など我が家には存在しなかった。むしろそれらは「宮使い」もっと言うと「滅私奉公」と称し自分を失う避けるべき道だったのである。なにしろ父親は「独立独歩」人生など一度きり、好きなように生きればよいと語っていた。

「一万円小遣いちょうだい」と父親にいう。すると財布からニ万円をとりだし手渡す。「一万でよいのだけど」と返すと「まあ良いからもってけ」だった。当然大学生になれば我が家の経済状態など把握できる。別にたいして金持ちでもないので小遣いはいつも少なめに請求した。この父親の罠にはまると大変だ!高校時代も学業など落第しなければどうでも良いとの言葉を真に受けたら、本当に落第しそうになった。それからは勉強もして、どうにかそこそこの成績に戻す。

われわれの学生時代は学生運動で大学は荒れていて、会社勤めにも希望が持てずにいた。卒業間近なあるとき現実逃避で「画家になりたい!」と愚痴る。すると父親は「いいねえ、応援するよ」という。そして金を出してもらい、目黒にあった鷹美術学院にデッサンに通ったが、すぐにこれも父親の罠だと気づき数ヶ月でやめた。そして現実路線へと舵を切る。

「伸ちゃんはこんな素晴らしいお父さんに育てられたわりには大したことないね。俺ならもっと伸びた!」と三人の義兄達にはよくいわれた。妻も同感なので確かにそのようである。父親の教育方針は人生は他の人に規定されることではなく、自身で導き出すものであるとの暗示をくれたのだ。お前の好きにすすればよい!でも自由に生き妻子や両親を養うのはかなりの難題であった。(写真・戦前自ら製作した刺繍の自宅襖絵の前に立つ父親。この頃はすでに日展の工藝作家です。勝田陶人舎・冨岡伸一)

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