
茶飲み話・景色
私が抹茶碗を作るにあたって最初に考えるのが景色である。景色とはランドスケープすなわち遠く望む雪をかぶった山々の連なり、海辺に立ち夕焼けに染まる水平線、行く手を阻む険しくそびえる岩肌、芽吹き始めた木々が重なる穏やかな里山などだ。それらを断片的に目に浮かぶまま手の平サイズの茶碗に映していく。何も具象の風景画でもないので筆使いなどとは無縁だ。ただ何となく景色を感じ取れれば良い。
抹茶碗も様々である。白い磁器の繊細な染付茶碗から、黒楽茶碗や厚手の土物まで飲む人の好みで選択される。でも私が土物に興味を抱いたのは日本人の精神文化から生まれたワビサビの概念やイトオカシなどの感性が表現できると感じるからである。これらは西欧の合理性から考えれば理解しがたい美意識であるが、最近は外国人でも日本文化の精神性を理解する人も増えてきている。
人は喜寿を過ぎればおおよそ人生の義務や責任からは解放される。毎日が日曜日で「ひねもすのたりのたりかな」である。あえて自身で課題を見つけて精進しない限り、誰にも強制されることはない。でもこの時間こそが人生最後の黄金期である。誰にはばかるわけでもなく好きな事ができる。そしてあたえられたこの貴重な時間をいかに過ごすかで人生は決まる。かといって長時間コンを詰める必要などない。のたりのたりと歩を進めればよい。
抹茶碗の景色などは抽象絵画を見る目に似ている。作り手の意志などとは別に使い手が勝手に情景を浮かべればよい。出来の悪い重い器と脇に置くのも、何かをイメージしゆっくりと飲み干すのもよしだ。陶芸を始めて40年になるが初期の頃、私の先生から抹茶碗は作り手の人格の反映であると言われたことがあった。確かに抹茶碗作りは、その人の長い人生の生き様を写す。
とりあえずこの年になって健康で日々試行錯誤の課題のあることに感謝している。生活の糧を稼ぐ仕事はつらい。しかし年金生活での仕事は趣味の延長線にあるので、好きな時に始め飽きたら終了する。文化とは基本経済的な余裕から生まれる。あと10年続ければ何とかなるかも・・・。(でもその頃の世の中と作品の景色はいかようであろうか?勝田陶人舎・冨岡伸一)
感性

茶飲み話・感性
最近AI技術の劇的な進化により、今後消える職業と生き残る職業と言う話題が人々の関心を集めている。すでに始まっている一般事務職やスーパーなどのレジ打ち業務からの人員削減はおろか、将来有望な職業とされていたプロミラミングや一部オペレーターの仕事までAIに代替されてきている。そのため特に若い人たちは、これから何の職業に就くかは人生を左右する大問題である。今人気のある職種でも10年後には存在してないかもしれないのだ。
すると残る職種はAIに指令を出すほど頭脳明晰な一部のデジタルエリートか、昔からある特殊なスキルを伴うアナログ職業になる。アメリカなどでは既にブルーワーカーである配管工の給料が、一流大卒のAI職種を上回る事例すら報告されている。これからの職業選択の基準はロボットやAIに代替されるかどうかが、重要なカギになっていく。なにしろテクノロジーの進化は指数関数的に加速しているので、数年後の未来さえ予測不可能になってきた。
ひるがえって私の現在の職業である陶芸を考えてみると、磁器のような白く整った焼き物はロボットで代替できると思う。しかし日本の伝統的な焼き物である抹茶碗などはどうだろう。一つ一つ時間をかけて手で削り、ユガミや凹凸を意識的に作っていく、しかしそこに作為など感じればアウト。あくまでいかに自然の風景が投影されているかが肝になる。そのため人間でもこの感性はなかなか理解できるものではない。
そしてもっと難しいのが釉薬の表情である。いかに自分で思いを巡らし釉薬をかけてもその通りになる事はない。特に還元焼成では毎回色が微妙に変わる。そのため同じものが出来上がることなど決してないのだ。だからこのカオス複雑系が面白い、もしこれで生計を立てれば焼成窯にオミキ徳利を置き、神頼みをする気持ちもよくわかる。でも私は現在ではその境地には至っていない。まだその手前でいろいろ改善余地もある。
人類はいよいよAIロボットとの知恵比べが始まる。私が「詫び寂び」の概念で作る抹茶碗に魅かれたのは彼らには、決して到達できない世界であると考えているからだ。人間にとって最後に残された領域は「感性」の世界であると私は思っている。彼らは計算は得意だが感性はまだ当分表現出来ないと思う・・・?(感性を軸に漠とした捉えどころない美意識に基づいた抹茶碗作り、げにもイトオカシの世界である。勝田陶人舎・冨岡伸一)
買い物

茶飲み話・買い物
最近スーパーの買い物には同行することにしている。男がスーパーの買い物カゴぶら下げて商品を物色するなどカッコ悪いと避けていたが、そんなの過去の話だ。人手不足からスーパーのレジはドンドン自動化している。今はまだレジ係がいて会計をしてくれるが、早晩完全無人化になるであろう。その時になって卵ワンパック買うのにレジでまごまごではもっとカッコ悪い。
それにスーパーの買い物は色々とノーハウがあるようだ。野菜の見方から肉や魚の鮮度や値段、それに商品も日々値段が違うらしい。買い物にも思考力が必要で買い物上手になるためには日々の積み重ねが重要であるという。スーパーの買い物を通して世の中の消費動向なども読めるので、これからは積極的に買い物には参加することにする。結構複雑なのでゲーム感覚で楽しめば面白い。
なにしろAIどころか医療の進歩も激しいので今後様々な病も克服される。すると人生100歳は当たり前になるので、時代について行く努力をし続ける必要がある。長寿を楽しむためには好奇心を失わない事である。老後は孤高に生きるべきだと考えていた時期もあるが、実際に老後を生きてみると人々とのコミュニケーションの大切さが良くわかる。スーパーの買い物も社会と結びつく接点の一分であると思うようになった。
たかが買い物、されど買い物である。買い物難民という言葉もあるが田舎暮らしでもあるまいし、近くのスーパーに一人で出かけるのを臆するようでは話にならない。生協のように自宅に食材を届けるシステムもあるが、体の不自由な身でもあるまいし、元気なうちは見て選んで買うべきだと思った。初老の男性がトング片手にアジを数匹つかみ袋に入れ、調理室のカウンターに差し出すと三枚におろす。「へー、こんなサービスもあるんだ」この人凄いと感心。
始めての買い物という幼児が一人買い物をするテレビ番組があった。今は買い物に同行しない初老な男性に20品目の食材を買って、自動レジで精算するという番組を企画したら面白いかもね?金額のめんでもベテラン主婦との格差がかなり出ると思う。これからは人手不足でスーパーの形態もどんどん変わる・・・・。(簡素化のためのAI導入が逆に複雑怪奇になっていると感じた。勝田陶人舎・冨岡伸一)
人生論

茶飲み話・人生論
「人生とは何か?」「人はいかに生きるべきか?」この問いは私が青春時代に脳裏から離さずにいた課題である。でも最近このフレーズを再び考える事が多くなった。なにしろ三年後にはシンギュラリティと言われるAIが人類の知能を追い越す時代に突入するのだ。そして新たに登場するAGIすなわち汎用AIは。今までのような人間の一部の能力を代替するだけではなく、全ての思考力を持つ人間同等のAIが登場する。
彼らは人間以上の速度で考え、24時間働き、賃金も要求しないし間違えもない。そうなれば経営者であれば、だれが好き好んで人間など雇うのであろうか?最近日本ではタクシー運転手不足でタクシー会社が倒産していると聞く。でもすでにアメリカや中国では無人タクシーが公道を走り回っている。日本では道も狭く安全が確保できないので導入が遅れている。しかし早晩日本でもロボタクシーが登場することになる。
このようにして人々が雇用市場から撤退すると多くの人たちが職を失っていく。でも一部の人は産業革命当時のように新しい職種が登場するので失業者が増えることはないというが、わたしはロボットがロボットを作る現代には当てはまらないと思っている。すでにアメリカではAI革命により、失業者が増加しており国で賃金を給付するベーシックインカムの制度が検討され始めた。
私はこれから数年間はあらゆる分野で大混乱の時代が来ると思っている。2030年代になると未来の輪郭がはっきり見えてくると思う。徐々に人類は労働から解放され、好きな事をして生きられるようになる。ギリシャ時代には労働は奴隷が行ったので市民は自由に生きていた。そのため文化は花開き、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの偉大な哲学者が誕生した。
われわれの青春時代は哲学を語る若者も少なくなかったが、今では哲学など流行らない。生きるのが忙しすぎて自身の人生など俯瞰する暇がないのだ。でも人間は労働から解放されると「生きる意味」を見い出しにくくなる。社会に何も貢献しないで人生の充足感を得には百年以上は長すぎる。(来るべきAI時代こそ人生とは何か?を自問自答すべきだと思う..。勝田陶人舎・冨岡伸一)
イトオカシ

茶飲み話・イトオカシ
イトオカシとは清少納言の枕草子で多用された言葉で一言でいうと「とても趣深い」という意味である。でも趣深いとはいったいどのような状態であるのかの説明も非常に難しい。なんとなく感覚では分かるが個々人の感性も異なるので、受け取る側によって答えは一律ではない。でもこのような曖昧模糊とした感性こそが日本人の美意識の根底に潜む、他国にはない価値観ではないのかと思う。
日本人は欧米人と違い論理的でないと言われてきた。「イエス、ノウ」もはっきり言わずに、何を考えているのか分かりにくいとされた。ディベートも嫌いで「白黒つけない」でなるたけ摩擦を避ける文化だ。これは古来から続く日本の宗教である神道が、聖書や仏典のような明確な教義を持たないことに起因している。八百万の神はあらゆるところに存在し、神ともインスピレーションや感性で対話する。イスラム教のようにコーランで強く日常を縛られることもない。
私はこれからのAI時代にはこのような日本人のあいまいさが注目されると思う。AIはデーターの集積で機能しているので、計算は得意だが人間の持つ感性のような指数化されない曖昧さは苦手だと思う。そのためこれからのテクノロジーの時代に最後まで残る職種は個々人の持つ感性や創造性にゆだねる仕事だと思う。いくらAIの計算速度が増しても人の思考のヒラメキの世界までは、当分入り込めないのではないかと思っている。
人は何のために生きるのか?あるいは人生と何か?などという哲学的な問いに、これからは全ての人が向き合う時代になると思う。今までのように学校を卒業し、何となく企業に就職するというような単純な路線は消えるので、自分の人生の意味や目的を明確に持つ必要が出てくる。もし仕事がしたくなければ一日中テレビでも別に問題はないので、人は好きに生きればよいのだ!政府がユニバーサルベーシックインカムという新たな生活保護で生活は保障される。
青春時代の私は人が生きる意味を常に考えていた!読書をし悶々とした日々を送った。そして出した結論が人は元来自由で社会通念などによって縛られる必要など全くないという思考だ!AIロボットにより使役労働から解放される人間は、やっと手に入れた自由を楽しめるどうかだ、定年退職をし毎日やることがないと愚痴を漏らすようでは人生は既に終焉している。(人は考える葦であると!パスカルは言った。認知症予防に時代について行く努力が必要だと思う。勝田陶人舎・冨岡伸一)
