
タマゴサンド

器を作ってみませんか
最近ではスーパーマーケットもコンビニに押され余り精彩が無い。そこで一度スーパーマーケットが日本にアメリカから導入された当時を振り返ってみよう。スパーマーケットという小売店の業態が新しく登場したのが、1956年というので私が小学生の頃である。それまで食材は酒屋、米屋、肉屋、魚屋、乾物屋などの専門店として細分化されていて、夕食の買い物には数軒の店に立ち寄る必要があったのだ。そのため主婦は離れた場所にある専門店を巡り時間がかかる。自転車は今ほど普及しておらず、それに自転車に乗る女性は稀だった。もちろん私の母親も自転車には乗れなかった。でもスーパーではそれらの買い物が一箇所で済んだために、瞬く間に全国に広まっていった。
「商品を自由に籠に入れて買い物できると、万引きされないか心配だよね!」最初スーパーができたころ、こんな話も家族の間で話題になっていたが、たいしたトラブルも無くこの制度は日本に根付いていった。すると時の経過と共にドラえもんでお馴染みのジャイアンの八百屋、サザエさんの酒屋三河屋、などの個人商店が徐々に店仕舞いするところが増えていった。ところが拡大を続けたそのスーパーも、ダイエーが福岡ドーム球場を作った1993年頃にはすでに下り坂で、代わりに登場したコンビニにシェアーを奪われる。ところがいま絶頂期にあるコンビニも出店競争により飽和状態で、新しく急拡大しているアマゾンなどの宅配サービスに押され、安穏とはしていられない。
今世界では、アマゾンやアリババなど巨大化したプラットホームによる既存の商品流通チャネルの侵食が問題となっている。「こんなことでは後十年もしたら、うちの商売立ち行かなくなる」と心配する人も多い。確かに直接自宅に食材などの商品を届けてくれるシステムは高齢者にとってもありがたい。でも買い物にも行かなくなると運動不足や近隣とのコミュニケーションもなくなる。昔は主婦が一旦買い物に出ると中々帰宅しない。途中で出会った顔見知りと長なが立場話を始める、買い物籠を手にした主婦の塊をあちこちで見かけた。「早く帰ろうよ!」連れの子供が袖を引くと「あなた先に帰っていなさい」と無視する。「腹減った、早くかえって飯作れ」との思い。でも私の母親は「江戸っ子」長話はしませんでした。
最近コンビニのタマゴサンドはよく食べる。でも昔のサンドイッチは食パンのミミは切らずに付いていたと記憶する。何時頃から耳を切って販売するようになったのかは定かではない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
「やだーこれ牛肉?気持ちが悪いから早く捨ててらっしゃい!」これは父親に聞いた話だが、明治末期に私の父は両親、兄弟、祖母の8人で浅草寺雷門前のしもた屋で暮らしていたという。その浅草では当時牛鍋を食べることが庶民の間でも流行り始めていて、時々出入り職人から牛肉の差し入れがあったという。しかし祖母は安政の生まれだ。四足など牛肉は人間の食べ物ではないと思ってる。「ありがとう御座います」と笑顔でその土産を受け取るが、客が帰ると母親を呼びつけ直ぐに処分するよう命じたという。しかしもったいないと感じた母親は捨てたふりをし、密かに醤油と砂糖で煮付けた牛肉を甕に入れ床下に隠したという。
「竹ちゃん、ちょとおいで!」小声で母親から手招きされる。「なんだろう?」といぶかしげに台所に入っていくと、「おばあちゃんには絶対に言っちゃだめだよ!」とくぎを刺された。すると母親は床下貯蔵庫の板をはずし、隠していた甕をゆっくり取り出したという。そして「ほーら、手を出してごらん」と牛肉一切れが手のひらに乗せた。促されるままに恐る恐る口に運ぶと、「がーん、何だこれ!」芳醇なその香りと味に仰天だ。「これが牛肉か?」初めての牛肉の味にとりこになり、それは一生忘れられない瞬間となったという。それいらい父親は牛鍋の虜になり、老齢までつづくのである。
牛鍋好きの父親はわが家でも良くすき焼きをした。すると鍋奉行はいつも食通だった父親の仕事だ!醤油と砂糖の分量などにも何かとうるさい。牛肉はわざわざ浅草まで誰かが買いに出向き、チンヤやマツキの牛肉専門店でないと気に入らなかった。私も浅草に仕事場があり通勤していたので、たのまれてマツキで牛肉の買って帰ったこともある。当時でも地元の肉屋では旨い牛肉がないと父親は言っていたが、その地元肉屋も今ではほとんどが店を閉じ、最近ではスーパーの肉売り場でのラベル表示の判断や見た目で牛肉を買う!現在全ての分野で専門店が消えて行き、人々のこだわりも希薄になる。「適当でいいや」とあまりコダワリもなくなり食文化の平準化が進すむと、日本人の味覚も退化する!
新年の豊洲の初せりでは、大間産の巨大なマグロに3億3千万の値段が付き話題となった。でもこの光景が海外のテレビでもニュースとして放映されていたので、確かに宣伝費とみれば安いのかもしれない!
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
「ぷーんと香りが漂う!」授業も4時間目になると腹が減る。私がまだ小学校にかよっていた当時、寒い冬には教室の暖房は鉄の鋳物のダルマストーブが使われていた。今では全く見ないダルマストーブとは、その名のとうり丸い形をした石炭やコークスをくべる旧式のストーブだ。子供が近寄ると危険なので回りには金網の張られたフェンスが置かれていた。そしてこのフェンスにはお弁当を温める棚がついていて、希望者は弁当をそこに乗せ暖めることができた。しかし昼が近づくと温まった弁当から臭いが漂ってくる。私の嫌いだったタクワンや魚の臭いもして、なんとく弁当の中身が想像できた。でも腹も減ってきて正午のベルが待ちどうしく、気も散って授業などは聞いていなかった。
そして当時弁当の定番はやはり海苔弁だ!弁当のご飯の上に醤油をつけた海苔がベッタリと乗っかる。でもこの海苔弁には欠点がある。逆さまになると蓋のほうに海苔が付いてしまい剥がすのに往生した。そのために二段に飯をつめ真ん中に海苔を挟むなど、いろいろ各自が工夫をしていた。いずれにしても今の子の綺麗で可愛いキャラ弁当などはない。ご飯の上に鮭の切り身や鰺の干物がベッタリと載ってたり、美的センスのないユニークな弁当も多かった。私も小学生の低学年の頃は、ドカベン型の小さな金色のアルマイトの弁当箱であったが、高学年にもなると新しい弁当箱も登場する。ブック弁当という名の弁当箱は本のように幅広で薄め!おかずとご飯の間に仕切りもあってカッコイイので、あっという間にクラスに広まった。
われわれが小学校卒業間際になると急激に世の中が変わり始める。都内に遅れて八幡小でもやっと完全給食となり、お弁当を持参せずによくなった。このとき初めてのメニューをなんとなく憶えている。確か?丸いパンが2個、鯨肉の竜田揚げ、炒めた野菜、みかん一個に、八千代牛乳一本。「へー、脱脂粉乳でなく、給食に牛乳一本つくのか!」これには驚いた。テレビや電気冷蔵庫、洗濯機なども各家庭に普及し始め、日本もだんだん豊かになってきらしい。これでやっとあの脱脂粉乳から開放されるのか?どの顔も笑顔だった。そして校庭の隅にはプールの工事も始まり横目で見ながら帰宅するも、完成は卒業の翌年であった。
たまにテレビなどで今の小学校の給食をみると豪華なので驚く!今日本の給食は栄養バランスなどもよく考えられており、海外でも非常に注目されているという。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
毎年新年になると築地の市場では初競りが行われ、いつもあのスリムでハンサムな回転寿司の大将がマグロを高額で競り落とすのが恒例になっている。去年築地市場は色々課題を抱えながらもやっと豊洲に移っていった。新市場での初競は特に御祝儀相場となり、一本の大マグロに数千万から憶の値段がつくことがある。バカらしいと思うが、マスメディアのニュースに乗るので宣伝費と考えれば安いともおもう。でも従業員からすれば「その金ボーナスに回してよ」などと言いたくもなる。マグロといえば先日、居酒屋で久しぶりにネギマを食べた。ところがこれが全く旨くない!子供の頃、母親が作ってくれたあのネギマとは全く別物で、油分が無くパサパサだ。どうせ安いキハダマグロのブツなどを使っているのであろうか?
私の子供の頃のネギマはとても旨かった!当時マグロはたくさん水揚げされ値段も安く、我が家のネギマには本マグロのオオトロが使われていたのだ!その頃オオトロは刺身のネタでなく、主に煮物用として売られていたようである。冷凍技術の良くない時代オオトロは赤身よりも傷みが早く、刺身に向かなかったのかも?でも脂肪分の多い大トロは油っこく、当時の人には好まれなかったのも確かだ!マグロは赤身が上等で腹にいくほど味が下品だと親からも聞いたことがある。でも大トロをネギと煮るネギマは実に旨い!身が柔らかで油分が多く口の中でとろける。しかし子供の頃あんなに旨かったネギマだが、その後歳を重ねる程にだんだんまずくなる。
時代が進むと日本人の味覚が変わり始め、肉食の頻度の増加などから徐々に脂肪分の多い食品を好むようになる。するとマグロも赤身よりトロのほうが人気が出てきて、赤身との価値が逆転する。それとともにオオトロの安い煮物用ブツなどは魚屋の店頭から消えてていった。母親に「最近作るネギマ旨くない」と文句を言ったら、「そうね、昔みたいな脂の乗ったブツが売ってないのよ!」との返答だ。最近あの頃のオオトロで作ったネギマを食べたいと思うこともある。でも本マグロのオオトロなど高額だ。するとオオトロで作るネギマは今後も食べる機会は無いかも?戦後食糧難の頃わが国の漁船は太平洋のいたる所へ、マグロを捕獲に出かけた。するとあの第5福竜丸がビキニ島近海でフランスの核実験に巻き込まれ、放射能を浴びたマグロは原子マグロと呼ばれ話題となった。
わが家では床の間の花活けも私の仕事。後ろの地味な掛け軸は矢野橋村作です。今年は喪中なので新年の挨拶は省略します。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)
私は週に4,5日は早朝6時半には自宅を出て工房に向かう。暮れも押し迫ったまだ薄暗い住宅街の道は人通りも少ない。「カアー、カー!」するとゴミ集積場には、もう2,3匹のカラスがゴミ袋を口ばしで探り仕事開始!一生懸命ゴミ袋を破こうとしている。私が立ち止まり一瞥するとカラスも首をかしげ睨み返すが、とりあえず身を翻し高い所に退避する。「この野郎、全くしょうがねえなあ!」とつぶやきゴミ置き場を通り過ぎ後方を振り向くと、素早く降りてきて直ぐに仕事を再開。旨そうな残飯を引きずり出す・・・。今の家庭からは大量の食べ残しの生ゴミが出る。そのうえ食品を扱うコンビニやスーパーからは、賞味期限の切れた食品も大半が処分されるというが、真にもったいない話でもある。
ここで昭和20年代の頃を少し振り返ってみると、当時は生ゴミなどの問題はほとんど存在しなかった!食糧難で食べを残す程の食材が簡単に手に入らない。そこで必然的に食料は全て余すとこなく食べつくす。蒸かしたサツマイモの皮まで拾って食べていた子もいたくらいで、生ゴミとして出るのは卵の殻、茶ガラ、みかんの皮や種、などごく少量だった。行政もゴミの収集車などあるわけないので収集は行わない。わずかな生ゴミは自宅の庭のすみに穴を掘って埋めていた。するとこれが庭木の飼料にもなる。再生できない汚れた紙類などは庭で燃やすが、プラスチック製品などはまだ世の中に存在しなかったので環境問題もない。
「クズーい、お払い!」と言いながら、リヤカーを引き時々クズ屋がやって来る。これは今で言う資源ごみの民間回収業者だ。物資の乏しい時代、金になりそうな鉄や銅などの金属、新聞や本などの紙類、ビンなどのガラス等とりあえず再生できるものは何でも買っていく。値段は重さで決め、今では全く見なくなった分銅のついた天秤量りで物を吊るして量った。20、30円単位の売値だがこれが結構子供の小遣い稼ぎになる。だから当時は舗装されていない道を裸足で歩いても怪我の心配も無い!鉄くずなどは釘一本落ちてなかった。それから時代も過ぎ昭和30年ぐらいになると、各戸にゴミ箱が供えられるようになり、行政がゴミを収集を始める。でもビニールゴミ袋の登場にはそれからまだ暫くの時間がかかった。
今年も明日は大晦日、これが本年最後のブログとなります。今年もご愛読ありがとうございました。では皆さん来年も宜しく、良いお年を!写真は自宅にある1世紀位前のノリタケ(日本陶器株式会社)輸出用の絵皿です。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・富岡伸一)