キセル

喫煙者が減り続ける昨今キセルでたばこを吸う人はさらに見かけない。戦後しばらくは私の父親もキセルでタバコ吸っていたが、いつのまにか紙巻タバコに変わっていた。当時紙巻タバコは値段も高く贅沢品だったようである。そこで庶民はタバコはキセルで吸っていたがキセルは掃除が大変だ。何回か吸っているとすぐ管にヤニが詰まる。すると紙でコヨリを作り口元から管に通して掃除をするが、これが以外に難しい。そのころに街中でたまに見かけたのがキセル管の掃除屋である。手押し車に蒸気の窯を積みこみ、機関車のようなポーという音と蒸気を出しながらやってくる。子供には用がないので作業手順など詳しくは分からないが、なにか不思議な感じがして遠くから眺めていた記憶がある。

その後しばらくして紙巻タバコの普及と共に消えていったが、たぶん60歳以下の人は全く知らないと思う。紙巻タバコも今ほど種類は多く無いが、いくつかの銘柄があった。フィルタータバコがまだ無い時代で紙巻タバコは全部両切り(ゴールデンバット、ひかり、いこい、ピース、あさひ)など全部は知らぬが、幼児の頃から時々近所のタバコ屋に使いに出されたのでよく憶えている。今では想像もできないが、小さな子供が煙草屋に行き、下から見上げて「おばさん、いこい1つ」、といってタバコを買って来るのである。「落とさないでちゃんと持って帰るんだよ」というおばさんの声を背中に、駆けて帰ってた時代が懐かしくもある。

今は喫煙にはいろいろ規制がある。二十歳にならないとタバコ1箱も買うことが出来ない。二十歳前後の人は身分証明が必要だそうだ。若い頃は飲酒や喫煙にも社会は甘かった。とろあえず法律はあったが、しっかりと遵守されることはほとんど無いと言っていい。中学を卒業し社会人ともなれば、とりあえず大人としてあつかわれ宴会の席でも酒を飲みタバコを吸っていた。「今晩お得意さんの接待でマージャンをやるんだけど面子が足りない、負けた金は俺が払うからつきあってくれ」などと先日まで中学で不良だった、知り合いに誘われたことがあった。半年後のその大人びた言動にびっくりしたことがある。

写真は父の作った刺繍の煙草入れであるが、両切り用なので丈は短い。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

寿司屋の隠語

接客業には通常従業員同士で使う隠語があるところが多い。客には知られたくない言葉や従業員同士にしか分からない商売上の言葉などいろいろだ。その中でも一番身近に感じるのは「寿司屋」である。寿司屋では生姜(ガリ)ご飯(シャリ)胡瓜(カッパ)イカの足(ゲソ)などいろいろあるが、特に客が使ってはいけない言葉にお茶の(アガリ)お会計の(オアイソウ)などがある。まだ食事中の客が、お茶のお代わりを従業員に「お姉さん、上がり持ってきて」などと頼んでいることもあるが、アガリとはこれでお終いという意味である。同様にオアイソウという言葉も店側が「愛想が無くてすいません」という意味で客が使うと、おかしなことになる。だだお勘定といえばいいのではないか。

ときどき、知ったかぶりをして寿司屋の隠語を連発している人を見かけるが、「普通に言えば良いのに」と思うこともある。寿司屋の隠語を通なふりをしてなんでも真似すると、逆に無粋になることもある。寿司屋に隠語が多いのは寿司を手で握るため、いつも手を清潔に保つ必要がある。手が汚れるので雑用が出来ない。そのために他の従業員に、言葉で指示することが多いからではないのかと想像する。私は寿司屋に行っても隠語はあまり使わない。でもカッパやゲソなど普段使いの言葉になったものある。こちらが「お茶ください」と言うと、板さんが奥に「上がり一丁」と声をかける。「ご飯少なめね」「はいシャリ少なめ」とこの言葉の掛けあいが良い。

そのために店側がわざわざ隠語を使い、客の言葉と区別しているのだから、その中に割って入ることもないのではないか。客が「シャリ少なめにしてね」「はいシャリ少な目」ではなんか粋じゃないと思うがいかがでしょうか。さいきん回転寿司に入るとどんどんデジタル化が進んでいる。オーダーのほとんどがタッチパネルである。タッチパネルの使用法が分からないと寿司も食えないのかと思うが、時代だからと割り切るしかない。近い将来寿司職人も減り寿司屋の隠語も不要になり、握りも魚ではなく肉が主体になるかもしれない。和食が世界に浸透すると魚の奪い合いになり、日本人の食卓からなくなって行くのではと心配になる。

写真は自作のお皿、寿司は陶器の皿でも合うと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

トンノ

「ここでは絶対に手荷物から目を放すな」かって列車に乗り、イタリア半島からメッシ―ナ海峡を渡りシチリア島に一人旅すると、車内で同席したシチリア人にきつく注意されたことがある。そしてそのあと覚えたてのイタリヤ語で話しを続けると彼から「日本人はトンノ・クルード(マグロの生)を食べると聞いたが本当なのか?」と真顔で言われたことがある。「そうだ」と答えたら信じられないという顔をして何度か首を横に振った。地中海でもマグロはたくさん捕れるが、当時からその水揚げの多くは高値でマグロを買い取る、日本に輸出されていた。シチリア島の海岸沿いにある古都パレルモでも、マグロがたくさん水揚げされる。漁港では漁船が漁から帰り桟橋に接岸すると、捕獲したマグロを岸壁に並べておくという。

これは現地の商社マンから聞いた話だが、あるとき彼が遠くからそれらのマグロを見張っていると、一台のパトカーがやってきて彼の前を通過し、マグロの置かれた先で停まったという。すると車の中から二人の警官が現れて、並べられているマグロの一匹を何を思ったのか?突然二人で持ち上げ狭いトランクの中に運び入れようとしている。あわてて飛んで行き注意すると「あれ、捨ててあるんじゃないの」と悪びれもせずに言い放ち、肩をすくめ立ち去ったと言う。「まったく警官でさえこれだから全くシチリア人は信用できない、油断もすきも無い」と苦笑しながら話していた。

確かにイタリヤの警官は日本と違いかなりいいかげん。私もイタリアに留学する時に、車を運転する機会もあるかと、日本でわざわざ高い手数料を払い国際免許を申請し携帯していった。それなのに現地で知り合った長く住む日本人に聞くと「国際免許など全く必要ないよ。日本の免許証でも良いし顔写真の張ってある漢字の身分証明書を見せて、これが日本の免許証だと示せば簡単に納得する」のだという。大きな事故でも起こさない限り、めんどくさいので日本の警察のようにいちいち調べないらしい。私の若い頃は日本の警察もかなり適当で、かっては交通違反などしても、気分次第で許してくれることもあった。でも今はそんなことは全く無い。なにを言っても聞いてくれないので時間の無駄である。

トンノとはイタリア語でマグロのこと。マグロの獲りすぎで、世界中でまぐろの数が激減しているというが、マグロがいなくなる日が来ないことをねがう。写真の絵は父のデッサン。刺繍をするための下書きです。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

花瓶

床の間に花を生けるのも我が家では私の役目だ。お花を頂いたりすると、適当な花瓶を納戸から探し花を生けるのだが、先日「庭の植木」だけで生けてみた。家の庭は数年前に手入れが大変と、殆どの木を抜いてしまった。今は樹齢80年位の細い葉の紅葉だけしかない。それで塀越しに伸びたお隣さんの椿と南天の枝を拝借して、どうにか格好を付けてみた。

この花瓶は20年前に笠間の陶芸市で買いもとめたもので、高橋春夫さんの作品。高橋さんは当時は年も若くまだ無名であったが、現在はご活躍のようだ。鉄分の多い粘土を使用して、上部は轆轤成形の状態を残し、下に行くほど徐々に削りを深くし糸尻の部分は、8角にカットしている。濃い目の白化粧のかかりもよく、私の好きな花瓶の一つである。

最近は日本でも欧米のように花を飾るというと、綺麗な花の咲いた草花が多くなった。華道のように花木を生けて、全体のバランスをとるために花のない枯れ枝までアクセントに使うなどいう手法は欧米にはない。

やはりこれも自然観の違いか、日本人は昔から綺麗な花を見るのではなく、花瓶に生けてある木や花で表現された自然の投影を眺めていて、その状態が美しいかどうかを判断していた。

これはフラワーアレンジと華道との違い。フラワーアレンジはテーブルに置いて四方から見る。華道は三方仕切られた床の間の正面から眺める。見ると眺める日本語は難しい。

ところで最近の新築住宅は床の間を作らないという。だから掛け軸が売れない。華道も習う人が減っている。池坊保子さん相撲界の事などに口出しせず、旦那と共に華道の普及にもっと尽力してほしい。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

 

 

ドブロク

「ここはいったい何処なんだ・・・?」人の良さそうな数人の村人に取り囲まれてしまった。そして戸惑う私に口々にしゃべりかけてくる。「へえ、日本人なの、どこから来たの、東京?」。「ここは長野の山奥なのか」でも家並みは日本的だが、なんとなく風景が違う。立ち止まり躊躇していると、「冨岡さん、こっち、こっち!」という古(コー)さんの手招き。振り返り向かいの家へゆっくり歩くと、村人もゾロゾロと「そんなに日本人が珍しいのか」それにしても皆が流暢に日本語で答えて、日本人と大差ない。聞けばこの部落、日常会話は日本語だという。特に年配者はその傾向が強いらしい。終戦後日本人がこの部落を訪れたのは初めてで、日本人と話すのは久しぶりだという。

もう38年ほど前になるが、当時私は靴生産の依頼で台湾の台中によく通っていた。言葉が分からないので、いつも高砂族出身の古さんという人に通訳を頼んでいた。そんなあるとき彼から明日、実家に帰るので一緒に来ないかという誘いをうける。翌日は祝日なので快諾し、その朝タクシーで彼の故郷へむかった。台中から山間部の東の方角に登って行くと、景勝地として有名な日月潭という美しい湖に突き当たる。この湖畔を右手に見ながら通り過ぎ、曲がりくねった狭い山道をなおも進むと、突然視界が開け小さな部落が現れた。「へー、こんなとこ台湾にもあるのか、まるで日本の山奥の部落だ」民家の連なる広場で止まると、古さんに続きタクシーを降りる。

日本家屋のような古さんの自宅に入ると家族が歓待してくれた。特に彼の父親は日本人として従軍経験があり「俺は南方で米軍と戦った、日本には今だに戦友も沢山いるぞ」と笑顔で話す。そして奥の部屋に通されて驚いた、なんと床は畳で座卓が置かれている。嬉しくなり座卓の前にすわり窓越しに庭など眺めて待っていると、「こんな所までよく来たなあ、さあこれでも飲むか」彼の父親が大事そうに抱えてきたのが、甕に入ったドブロクである。それをドンブリに大胆に注いでくれたので、恐る恐るひとくち飲んでみた。お米の粒がまだそのまま残っているので薄い粥をすすっているようだが、甘酸っぱくて旨い。これが昔、日本の農家でも作っていた本物のどぶろくか?日本では酒税法で禁止されているが、台湾では山中の高砂族だけに許されている特権だと語っていた。

そして杯を重ねその後どうなったかは、ご想像におまかせする。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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