茶飲み話・専業子供
いま中国では専業子供という素晴らしい制度が出来上がりつつあるらしい。基本的に教育熱心である中国は長い間続いた一人っ子政策の結果、多くの家庭が子供に多額の教育費を払い、大学に進学させることが普通になった。そのため新たに設立された大学や大学生が激増し、ホワイトカラー予備軍が多く誕生することになる。しかし一方で不動産バブル崩壊や米中対立による景気低迷で、未曽有の就職難をもたらしている。
「中国の子供たちは本当に気の毒だ!」過度な学歴社会である中国は幼い頃より子供たちを塾に通わせ、良い成績をとり一流大学を目指すのが一般的である。そのため学校以外でもほとんどの時間を学力向上の勉強に費やし、寝る時間も惜しむほどの努力を強いられる。もちろん日本の子供のように、クラブ活動や趣味に費やす余裕などあるわけない。そしてやっとのことで一流大学に入学し卒業すると、待っていたのは就職先がない厳しい現実であった。
そして希望を失った若者達は公園などでただ寝そべって時を過ごす「寝そべり族」になり下がる。こんなことなら受験勉強などせずとも、中学を卒業してすぐに工場で働けば、失業することもなかったと悔やむことしきりだ。しかし学歴とプライドが邪魔して今では雑用もできない。仕方がないので再び親元に帰り「専業子供」として自室にこもり、学生時代にできなかったゲームなどにはまる道を選ぶという。
でもこれでは子供達の両親もたまったものではない。苦労して金を稼ぎ大学まで出したのに、子供が舞い戻ってきてパラサイトとは泣くに泣けない。いっそうのこと子供に仕事を譲ればよいのだが、年金制度など殆ど機能してない中国ではそれも出来ない。ホームレスは存在しないのが社会主義国の理念だが、実際には多くの若者ホームレス予備軍が隠れている。
一方日本では専業主婦と呼ばれた家事専門の奥さんがどんどん減少し、今や余程リッチな家庭でないと専業主婦など許される状況にない。パートで家計を助ける程度では足りず、フルタイムでの雇用を求めるようになってきた。すると主婦の負担は増すので、男性も家事や育児を分担する。これでは子育ても大変なので当然少子化に拍車がかかる・・・。(昔は良かったと言うつもりまいが、どこの国も庶民は生きずらいようだ。勝田陶人舎・冨岡伸一)
海外旅行
茶飲み話・海外旅行
最近日本人が海外旅行に出かける頻度が少なくなっているという。原因は円安による旅費の高騰、地政学リスクによる治安の悪化、貯蓄率の高いシニア層の国内旅行回帰など様々だ。それに今の若い世代は相対的に保守的で冒険を好まない傾向にある。危険を伴う海外へ行くより地方の温泉宿に泊まり、のんびりと過ごしたほうがストレス解消にもなり気が楽だとか。年寄りじみた発言も目立つ。
でも海外旅行などは若い頃に限る。スーツケースひとつで日本を飛び出せば、後は気の向くまま行き当たりばったりで、新たな出会いを楽しめる。私が旅行した半世紀以上前は日本を始め東洋はまだ貧しく、欧州などで東洋人を見かけることはあまりなかった。特に中国人や韓国人は皆無で何処へ行っても日本人は奇異な視線をあびた。そして当時のヨーロッパは豊かで、貧しそうなジーンズ姿の日本人を見ても、持ち物を狙う人などいない。
特に北欧などは今の日本のように安全で、泥棒やホームレスなどは皆無で夢のような国だった。税金は高いが社会制度は充実し、ユリカゴから墓場まで全て国家が生活保証する福祉大国である。しかしそれから徐々にアフリカ大陸から、黒人やアラブ人が大量に流入してくると状況が変わる。近年では北欧も夜一人での外出は危険であると聞く。
「円安が進み160円台とは驚きだ!」こうなるとますます物価の高い海外旅行など高嶺の花となる。昼の簡単なランチセットが4,5千円では満足に食事もできない。最近一部の人がしているカップヌードル持参で旅行しても楽しくはない。それに海外ではお湯を手に入れるのも一苦労だ。ホテルなどでお湯を頼めばば、有料だしボーイにそこそこのチップを要求される。
でも昔からケチな人もいて海外に団体で出かけた時に、同室になったAさんは日本から水を入れたカップに差し込めばお湯が沸く、簡易な電熱器を持参していた。しかしコンセントの差し込み口が合わず、持参したカップヌードルは泣く泣食べずじまいであった。本人は洋食は口に合わないと言い訳していたのだが。(1ドル360円の大昔、バケットかじりながらヨーロッパを旅したあの時代に戻ったら悲しい。勝田陶人舎・冨岡伸一)
ダイバーシティ
茶飲み話・ダイバーシティ
最近流行り言葉の一つにダイバーシティがある。これは多様性という意味で、様々な人種や価値観を許容する標語で使われることが多い。特に日本では近年インバウンドで世界各国からたくさんの観光客がやって来る。すると様々人々が独自の文化や宗教などを持ち込んできて、中には長期滞在や永住権などを申請する人がいる。またイスラム教徒などは戒律が厳しく、料理の中に入っている豚の油やアルコール類までも拒否するので新たな問題も生じる。
「学校給食にもハラール料理の提供を!」と要求する外国人も出てくる。日本に住みつくイスラム圏の人々が家族を呼び寄せ、子供達を日本の学校に通わせると当然問題になるのが給食である。彼らのためにイスラム教の教義に応じた、豚肉などを使わないハラール料理を提供することになる。そこで手間がかかると拒否すれば宗教の自由を認めた憲法に抵触し、人権問題に発展することもある。
また私の工房がある勝田台駅にはいくつかの学校があり、毎朝多くの生徒が電車を降りていく。すると女子生徒の中には通常の制服であるスカートでなく、ズボンをはいている子も見かける。数年前に性同一性LGDP法案が国会で通過し、女子にスカート着用の強要は出来なくなった。でもさすがに男子のスカート着用はまだ見かけない。そこで誰かが勇気をだしてスカートはいて通学したら面白い。もちろんトイレは女子トイレを使用するのだ。
このようにダイバシティを尊重し許容すると既存のルールが崩壊し、世の中ドンドン煩雑になっていく。そして気が付けば日本の伝統文化や価値観は希薄になり、グローバル化という混乱の中で消滅する。いま欧米では行き過ぎたグローバル化とダイバシティにより移民を大量に入国させた結果、民族対立による社会崩壊が進行している。そこで怒った自国民は伝統文化を取り戻すため、保守政権樹立を目指す運動が活発になってきた。
そしてアメリカでも、もし自国第一主義者のトランプさんが11月の大統領選挙で当選すると移民排除に動き、保守的な白人中間層やキリスト教徒を優先する政策に変わる。するとバイデンの民主党主導で進められてきたグローバル化やダイバシティは衰退していく・・・。(グローバル化やダイバシティ、すなわち無国籍化や多様性とは聞こえが良いが、すべての民族を混乱に導く愚策でしかない。勝田陶人舎・冨岡伸一)
幸福
茶飲み話・幸福
「幸福に生きたい」とは全人類共通の願い事の一つであることは確かだ。なにも青春時代に読んだアラン「幸福論」のページをめくらずとも、人は幸福になりたいという願望を持っている。しかし幸福感は人それぞれで多種多様、これが幸福の絶対的定義というものも存在しない。「幸せだなあ、僕は君といる時が一番幸せなんだ!」とは雄三さんの「君といつまでも」。だがその実感も通常、暫くすると霧の中に霞んでいく。
確かに好きな異性と一緒にいるの時間は幸せを感じるが、恋愛感情だけで日常が送れるわけがなく、結局は多くの時間を割く仕事や家庭の中で幸福感を見い出すことになる。私自身は学校や会社という組織に縛られることがストレスの源泉であったので、これを回避できれば幸せと考えてきた。しかし現在ではオンラインの普及で、自宅にいてもテレワークなど仕事も可能で、対人関係が苦手な人にとっては好い時代になったともいえる。
「幸福とはなにか?」と自身に問えば、私の場合好きな事をして自由に生きるという事に尽きる。「人生は短い!」そこで自分に与えられた時間を自身が納得できる形で使いたいという欲求が強かった。でも人は実に多くの時間が自身の意思とは関係なしに、乱雑に消化されていく。そして気が付けば老境の域に達し、鏡に映す自身に若かった頃を偲ぶ。
それでも若い頃はあまり感じなかった幸福感も最近は感じることが多い。それはこの年まで無難に生きてこられた事に「ありがとう、あろがとう」と感謝する気持ちから生じる。しょせん幸福感など頭で考えて論ずるものではない。「何となく幸せ!」がベストだと感じる。炊き立てのご飯に昆布の佃煮をのせ、ゆっくりと口に運ぶ。または好きな茶碗を選び茶筅をまわし一息つくなどだ。
アランによると人の気分というものはいつも悪いものらしい。これといって不幸な出来事に出会っているわけでもないのに、不幸な気分の人がる。それは人間本来が自然に任せてると不幸になってしまう存在だからだそうだ。そこで幸福になるには「幸福になるぞ!」という意思を持って自身をコントロールする必要があるという。幸福になるにも結構な努力が必要だとある・・・。(何となーく、何となーく、何となーく幸せ、という歌があったね。勝田陶人舎・冨岡伸一)
コロン
茶飲み話・コロン
私の青春時代、憧れの国ナンバーワンはフランスであった。当時のフランスは今と違って光り輝いていて、シャンソンなどの音楽、サルトルの実存哲学、シュール・レアリスムと呼ばれた超現実主義の絵画や思想、それにイブ・サンローラン、ディオール、シャネルのファッションやコロンからアランドロン主演映画まで、あらゆる文化的ジャンルで超絶な影響力を世界中に放っていた。
そして他には日本でも話題になっていたのが、超人気女優であったアメリカ人スーパースター、マリリンモンローの「何を身に着けて就寝するのですか?」と尋ねる記者に「シャネルの5番よ!」と答える名セリフだ。これにより御フランスのシャネルのコロン5番は爆発的にヒットし、裸でコロンをつけて寝ることがブームになった。
最近日本では香水をつけて外出する女性は少ない。コロンを付ける文化は風呂に入らない人達の習慣で、自らの体臭を隠すために発展した。外国人は体臭の強い人が多いが、日本人のように毎日風呂に浸かれば彼らとて体臭は和らぐ。また最近欧米でもジェンダーレスで、女性をアッピールする行為の一つでもあるコロンは嫌われる傾向にあると思う。
「あれ、勘弁してくれよ。今どきコロンかよ!」と電車に乗り気が付くと、必ず座っているのがフィリピン女性だ。別に差別をするわけではないが、彼女たちはキャバクラなどでホステスとして働いていることが多く、男性の気をひくためにコロンの匂いでさそう。でもこの武器は昔の三八銃と同じでもはや時代遅れ、現代では女性とて売りは知性と品格であり、無臭であることにこしたことはない。
最近都会の街路などを歩いていると騒音と異臭は極端減った。おかず横丁などもシャッター街になり、スーパーの店内に移動。それに好きなウナギ屋や焼き鳥屋なども、これ見よがしにウチワで煙をあおぎ出すことも少なくなった。そして清潔になったトイレや下水溝からも匂いが消えた・・・。(でもジジグサイとはよく言ったもので、年を重ねると加齢臭は増してくるので気を付けたい。勝田陶人舎・冨岡伸一)