
貝


器を作ってみませんか

「あさりー、しじみー、えー」とアサリやシジミを商う声。昭和もまだ20年代の後半、私の住む市川市菅野には早朝よく貝売りがやって来て、その声で起こされることもあった。しかしその口上はどう聞いても「あっさりー、死んじめー」と聞こえるのだ。そのため子供たちは親に怒られたりすると「あっさりー、死んじめー」などと言って悪たれをついたりする。その当時市川市の海岸など、東京湾の奥は遠浅の干潟が続きハマグリやアサリなどの貝がたくさん採れた。とくに千葉県側の浦安から木更津までの沿岸は小さな漁港が点在し、海苔の養殖や貝類の採取などで生計を立てる漁師も多く住んでいた。そこで貝類などは男が直接自転車に積み住宅地に売りに来る。
貝い売りを呼びとめ鍋を差し出すと、四角い一升マスを取り出しそこに満たす。アサリなど安かったので多分一杯2,30円位だったと思う。そのため今よりも貝の吸い物を飲む機会はずっと多かった。貝は主婦がまだ味噌汁を作る前の早朝に良く売れた。そこで貝売りは明け方にやってきて、朝食時間を過ぎるころに帰って行った。市川市周辺の台地には貝塚が多く、少し掘るだけで貝の欠けらがいくらでも出てくる。縄文よりこの地に住む人々は、それだけ多くの貝を常食してきたのであろう。しかし半世紀前に、この貝の沢山採れる東京湾の干潟はほとんどが埋め立てられ、工場や宅地になっていく。漁港も消え漁師も転業して、昔の面影など全くない!
かっては総武線船橋駅は本八幡駅よりもずっと海に近く磯の香りがして、駅前通りには沢山の貝を商う露天が連なっていた。人通りも多く大そう賑やかで船橋漁港から来るカスリのモンペに白手拭でホッカブリ、漁師のかみさん達の貝を売る掛け声が通りに響いた。近年では京成電車も高架になり高層ビルも建つと、今ではすっかり都会になっている。でも変貌する船橋のきっかけとなった西武百貨店も、時代の波に押されこの三月で閉店した。向かいにある東部百貨店も先日入店してみると、フロアーのいくつかが家電量販店に衣替えした。すこし寂しい気もするが時代はどんどん変わり、人々の記憶から遠のいていく。
アサリは最近では吸い物でなく、スパゲッティーボンゴレで食べることがほとんどだ、これも時代の変遷なのである。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ソーセージと聞くと魚肉ソーセージを思い浮かべる幼児期もあった。そのころ今の可愛らしい小さなウインナーソーセージなどは、まだ一般の肉屋などでは手に入らず、あったとしても高価だったと思う。その代わり庶民の食べるソーセージは肉の代用品として、蒲鉾と同じように魚肉を加工して作ったソーセージが販売されていた。マルハ、日水、ニチロなどの漁業関連会社の魚肉ソーセージは味に多少の差があって、私はどちらかと言うとニチロが好きだった。少し粗引きで1センチ位に切って油で炒めると、弁当に入れても魚臭さが消えて魚嫌いでもなんとか食べられた。母親には[ソーセージはニチロにしてね!」とお願いしていたが、いずれにしても旨くなく低レベルな味の差である。
先日、工房から自宅に帰る京成電車に乗車したら、あまり品のよくない親父が私の前の席に腰をおろした。すると直ぐに彼はスーパー袋から発泡酒の缶ビールを取り出し飲み始めたが、何口か飲むとビール缶をゆっくりと座席の上に置くので、私は揺れる電車で缶ビールが倒れないか気になって見ていた。すると袋を探り次に取り出したのが、あの懐かしい魚肉ソーセージである。「魚肉ソーセージってまだあったのか?」久しぶりに見るその「ピンクの色っぽい御姿」を拝見していると昔のことが頭をよぎった。彼はそれを両手にとり包装紙をやぶくと、左手でソーセージ握り右手でビール缶を持ち、「ビールをゴックン、ソーセージをパックン」旨そうに何度か繰り返す。
「通勤電車の中で一人宴会ですか」酒と魚の臭いがこちらまで漂ってくる。でも宴は10分程で終わり、缶ビールの空き缶を座席の下に置いたまま、船橋駅で降りていった。さいきん日本人の全体としてのマナーは向上したと思うが、現代人は忙しくてゆっくり食事をとる時間がないのか、むかしとは逆に電車の中での飲食は増えているような気がする。私としてはペットボトルのお水以外、通勤電車での飲食は原則禁止にして欲しい。携帯電話の使用に関しては今だに注意放送がアナウンスされるが、飲食についての放送はほとんど聞いたことがない。通勤電車の中での化粧と飲食は原則禁止にしてほしいものだ。
写真ですが魚肉ソーセージも、このお皿に乗せれば少しは旨そうに見えますかね?はし置きはイカです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

むかし日本橋三越の6階には大食堂があった。(家業が三越の仕事をしていたので毎週にように通った)当時その食堂には白い円卓がたくさん置かれていて、食事をする多くの人で賑わっていた。和食、中華、洋食、デザートと多くの料理のメニューがあり、何を食べても美味しかった記憶がある。この中でもよく食べたのが、幼児の頃はお子様ランチ、成長するにつれて五目そば、チョコレートパフェ、それに果物好きだった私の大好物フルーツポンチである。透明なガラスのゴブレットに入った各種の果物は彩りもよく、甘い蜜に浸かり輝いていた。それを紺の半そでワンピースに、レースの付いた真白いエプロンをかけた綺麗なお姉さんが、笑顔で運んでくれる。少年時代にしてはちょっと優雅な気分にさせてくれる、お気に入りのひと時であった。
それから地元の市川中学、高校に進むと、体育先生で石川という名の先生がいた。この先生は大の三越びいきだった。自分の着る物は全て三越で買うといっていたが、大きな事をいうので大風呂敷、またの名を三越と生徒達は影でアダ名していた。クラスの体育の担当ではなかったが、科目の先生が休んで休講になると、自習の監視役としてこの先生が代理でやってくる。別に授業をするわけではないので雑談になるが、この先生は身に着けているものを褒めると喜ぶ。今日は何を褒めるか皆で考えるが、褒めてもらいたい物は仕草を見ていると大体分かる。真っ赤なネクタイしてきて、先ほどから何回か結びの部分に手を当てている。
「先生、そのネクタイいいですねー!また三越で買ったんですか?」と目ざとい生徒がいうと、わが意を得たりと「そうだよ、分かるか」もうニコニコして急に機嫌がよくなる。単純でちょう可愛い!ついでに靴も褒めたりしてあげる。ところがある時、この先生がとんでもない行動に出た・・・。なんと色の濃く着いたアランドロンが「太陽がいっぱい」でかけたようなサングラスをかけて、突然教室の戸をガラリと開け入ってきたのだ!これには生徒達もびっくりで開いた口が塞がらない(巷ではサングラスが流行り始めていた頃で先生も買ったのか?)すかさず生徒が「先生、それも三越ですか?かっこいいですね!」と褒めると、先生は「うん」とうなずきそのサングラスをかけたりはずしたり、日にかざしたりしていた。
写真は工房の佐竹豊さんの作品のゴブレット、これを陶器で作るのは非常に難しいが、焼くのは変形するのでもっと難しいです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ハンバーグステーキのことを我が家ではむかし父親が、ジャーマンビーフとよんでいた。しかしハンブルグステーキとジャーマンビーフは厳密に言うと違うらしい。ハンバーグは牛と豚の合い挽きで、ジャーマンビーフは100パーセント牛肉であるという。いずれにしてもドイツ人は質実剛健、牛一頭血の一滴まで無駄にしない。そのためドイツのソーセージも個性的で旨いものがたくさんある。内臓や骨にこびりついた肉なども丁寧にかき落とし腸に詰めてたり、丸めたりしてハンバーグやソーセージを作ってきた長い歴史がある。むかしテレビでドイツの田舎農家を取材したとき、農夫との会話でこいつで来年は旨い肉が食えそうだと、牛をなでながら語っていたのにはカルチャーショックをおぼえた。
今でもハンバーグはカレーライスと共に私の好物でもある。ファミレスに入りメニューを見ると今日はカキフライにしようと思うが、気がついてみるとハンバーグを頼んでいる。長年食べても飽きることが無い。私が小学校高学年の頃、母親が仕事で忙しい時には、昼食は近所のスーパーで自分が好きなものを買うことがあった。いつもはウインナーソーセージを買うのだが、ふと見ると隣に新しく出たハンバーグのパテが売っていた。「これ初めてだなあ、今日はハンバーグでもたべるか?」買って帰りそのままパンにはさんで食べた。そのころから新しく開店し始めたスーパーマーケットには、赤いウインナーソーセージを初め肉の加工品などが出回り始め、食生活からも欧米化の波が押し寄せてきた。
しかしその3時間後になって急に腹が痛くなり七転八倒、すぐに医者に駆けつけたが大腸カタルとの診断!三日間苦しむことになる。原因はそのパテが生であったこと。ウインナーは生で食べられたが、このパテはフライパンで焼いて食べるパテであった。母親に「あんたもバカだねー、生のハンバーグなんて食べておいしくなかったでしょう!」と言われたが、自分ではそんなにまずい感じはしなっかたのである。私の味覚も大したことは無いと思った。でもこのこと以来包装紙の注意書きは多少読むようになった。我が家では食通の父親がハンブルグステーキをジャアマンビーフと呼び、挽肉を買ってきて自分で料理した。そしてジャーマンビーフの上には必ず半熟の目玉焼きを乗せてくれたのが印象的であった。
ハンバーグと目玉焼きの組み合わせ、これって本場ドイツでもこんな食べ方するのか?疑問であるが父親が作っていたのだから、大正時代からすでにあったと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

そろそろサクラの開花も近づき、春を感じる季節になって来た。桜と言えばお花見だ!桜の下に陣取り車座に酒と肴で宴会が始まる。どこにでもある日本の風物詩であるが、最近では以前より花見客の飲み方がおとなしい?あまりバカ騒ぎをしなくなってきているようだ。市川市にはサクラの名所が多い、市内を流れる真間川土手の両側には桜の古木が連なり観光スポットになっている。その他須和田公園や、国府台には江戸川べりに桜の名所里見公園がある。毎年サクラのシーズンになると沢山の花見客で賑わうこの公園は歴史も古く、昔から花見の宴などが多くおこなわれてきた。私が幼児の時に姉達に連れられてこの公園に花見にやって来た時の話で、今でも鮮明に記憶に残っている事がある。
「うちのお父ちゃん、お酒なんか飲まないよね!焼酎、ばっかりだよねー!」この突然の私の言葉を聴いた姉達が、あっけにとられて「あんた、なに言ってるのよ」私の手をグイグイ引いてその場から急いで立ち去ったのだ。私はその意味も分からずにいたが、帰宅すると長女が母にこう告げたのだ。「おかあさん、伸ちゃん恥ずかしくてやになっちゃう!」沢山の人のいる前で「お父ちゃん焼酎、ばっかりだよねーて、大きな声で言うのよ、恥ずかしくてさあ」それを聞いて一同大笑い。私にはなんのことかさっぱり分からずにいたが、良く説明を聞くとお酒も焼酎も同じオサケで、焼酎の方が値段が安く大衆的で、昭和も二十年代の頃は日本酒は高く親父は通常晩酌に焼酎を飲んでいたのだ。
焼酎がお酒だと知らなかった私はサクラの下で車座になって、酔っ払ってバカ騒ぎしている人達を見て非常に嫌悪感を感じていた。(父親は焼酎は飲んでいたが乱れた姿など見たことがなかった)それでお酒を飲むと大人があのように取り乱すのか?お酒を飲むのは人は最悪だ!うちのお父ちゃんは毎晩焼酎で、お酒を飲まずに良かったなあ、との思いがあってこの言葉が出た。また当時の酒は材料が悪いのか、作り方の問題かよく悪酔いした。私も日本酒は苦手で日本酒を煽ると翌朝大変な頭痛に襲われたが、最近では冷酒2合では別にすっきりと起きられる。酒が若いときよりも強くなったとも思えないので、原因はよく分からない。
写真はサクラの大皿で16年程前、千葉県展に初入選したものです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)