茶飲み話・アイホン
「バタバタという大きな音にビックリしてうたた寝からさめた」。見ると早朝の車内の床には5,6台のスマホが電源が入ったままで散乱している。あわてた30歳前後の男はそれらを拾い集め、ブックケースに挟み込む。そして何事もなかったように数台のスマホを再度いじり始めた。「こいつ、いったい何やってんだ」といぶかしげに眺めた。
まさか一台のスマホでは用がたりず、数台のスマホから情報を集めているとしたら、これはえらいことだなと率直に感じた。最近では常にスマホはおろかパソコンを携帯し、会議やミーティング、いや世間話の間でもパソコンを操作し続ける人も多く見かけるようになった。彼らは会話の補完に常にネットとリンクし情報を得ていている。
しかし向かい合って座っていてもお互いにほとんど目を合わせず、画面に注視しながらの会話では心も通じない。そういう私もすでに自らの思考はネットとリンクしていて、どこまでが自身の考えなのかあいまいである。現在ネットでは処理しきれない大量の情報が交錯し、とても一個人ではそれらの情報量に対応するすべは無く、立ちすくむばかりである。
「それではしばらく経過観察をしていきましょう」とは数年前大腸がんを手術し、お世話になった築地の癌センター医師からの発言である。最近病院に行って強く感じることは医師が患者と向き合わず、ほとんどPCの画面を見て判断を下す。横を向きながらの対応ではなんだか味気ない。医学の進歩により自分の身体など、単なるデーターの集積にすぎないのだ。
でも月に一回いく町医者では身体を観察したりの問診に、紙のカルテも健在でなんだか懐かしい。しかし早晩この光景も変わって行くことになる。すでに大病院では身体の細部まで完全にモニターされ、デジタル管理されている。いや身体ばかりでなく血液の微細なゲノム遺伝子情報までが、解明されようとしているのだ。(数年もすると免疫療法などガン治療も劇的に変わる。勝田陶人舎・冨岡伸一)
冬眠
茶飲み話・冬眠
「人類も冬眠できるかもしれない」という画期的な研究が進行中だそうだ。先日見たNHK「サイエンスゼロ」よると、人間も熊のように冬眠できる可能性があるそうで、もしこれができれば人類に多大な恩恵を与えそうである。例えば救急搬送時に一時的に冬眠状態を作れば、心臓が停止していても酸素不足による細胞の死滅を抑制できるらしい。
そのほか今現在では治る見込みの無い難病も、治療法が確立するまで冬眠させて医療の進歩を待ったり、長い時間のかかる宇宙旅行などに応用すれば遠くの惑星まで行くことができるようになる。むかし学生時代に見た「2001年宇宙の旅」という映画では確か人類が木星に到着するまで、カプセルの中で冬眠するシーンがあったような気がする。
冬眠すれば時間だけが経過するので必然的に未来に行くことも可能になるが、未来からは帰ってこれない。これでは浦島太郎と同じで、家族や友人のいない未来を生きるのも寂しい。いま医療をはじめサイエンスの世界は日進月歩、今さら昭和の時代がよかった!などと言っても手遅れです。
先日も製薬会社エーザイから認知症を治療する薬「レカネマブ」がアメリカで承認された。日本でも数年後に認証されるそうで、これが認知症を患う人たちにとっての救世主となる可能性がある。認知症は遺伝する確立が高いので、親が認知症で亡くなった人たちの老後の心配も少しは軽減するはずだ。
これから高齢者は未来のサイエンスに注目し、それらを積極的に生活にとりいれてこそ、健康で豊かな余生を送ることができると想う・・・。私のブログでは生活に役立ちそうな情報を、世間話程度で身近な人たちと共有し、熟年者目線で時代のトレンドを考えていきたい。(世の中これからどんどん面白くなる。勝田陶人舎・冨岡伸一)
将棋
茶飲み話・将棋
「何が悪かったか分からない」とは先日、王将戦で藤井聡太くんに敗れた羽生さんの対局後の感想である。私はこの言葉を聞いて将棋界に君臨し続けた名人羽生善治をしても理解しがたいと言わせる、この二十歳の青年の思考回路はどうなっているのか?非常に興味を感じた。彼はたぶん通常の人類でなくサイボーグ(電子機器などを埋め込んだ人造人間)かも。
でも彼は時代が生んだ寵児でもある。ことし52歳になる羽生さんの子供の頃はまだパソコンが普及しておらず、先輩などの人間と対局し腕を磨いていた。ところが藤井君はデジタルZ世代なので、生まれた時から身近なパソコンAI将棋と対局し、コンピューターに勝つ訓練を重ねていたらしい。結果人間では思いつかないようなトリッキーな戦法を編み出し、羽生さんをほんろうさせている。
そして藤井君の後輩にはAIを駆使した将棋の天才児達もいるそうで、藤井君すら安穏としていられない状況であるという。現在このような状況は将棋だけでなく全ての業種で見られ、AIを駆使できるかどうかで人の能力が判断される時代である。そのため記憶力に優れ、頭の柔らかい若者が世の中を牽引し、デジタルに乗れない熟年は社会の隅へと追いやられる。変化の乏しい時代には経験豊富な年寄りは尊敬されたが、今や旧来の知識などほとんど役立たずである。
「任天堂って、確か花札を売る会社だったよね」。私が子供の頃、正月になるとコタツに入って家族で花札で遊んが、花札はむかし賭博に使われていたので、いまいちイメージは健全ではなかった。そんな花札をあの任天堂はコツコツ販売し生業としていたのだ。ところが1970年代後半にテレビゲームに進出すると一世風靡し今日の礎を築いた。
近年デジタルゲームが進化すると、トランプ、花札、マージャン、囲碁、将棋といったアナログゲームは衰退する一方である。しかし将棋界ではデジタル棋士藤井君の出現により人気が復活した。あと5年もすると医学やサイエンスを初め、全ての分野で劇的に世の中の仕組みが変わる・・・。(有史以来もっとも激動の100年を生きているという認識が大事だと思う。勝田陶人舎・冨岡伸一)
正露丸
茶飲み話・正露丸
私の子供の頃に飲んだ薬の中で、いちばん印象に残る薬はなんといっても、あの強烈に苦い「正露丸」である。黒くて長丸だった正露丸はわが家の常備薬ではなく、たまたま訪れた友人宅で飲んだ記憶がある。その時は別に腹痛でもなく「これ噛んでみ」とふざけ半分に手渡された。まだ昭和も30年前後なのでクスリの多くが漢方などの生薬だった。
当時わが家では風邪をひくと「改元」という顆粒で同じくほろ苦い生薬を飲む。そして厚い布団を頭からかぶり、顔を真っ赤にして汗をかく。すると熱も下がり、2,3日で全快した。しかしこの方法は子供の体力が落ち、健康によくないとかで徐々にすたれていった。すると同時に改元もクスリ箱から消え、「ルル」や「パブロン」といった大手製薬会社などの西洋薬に代わった。
「パブロン・ゴールドがいま急激に売れている!」その原因はまた始まった中国人によるクスリの買占めであるという。ゼロコロナ政策での都市封鎖をいきなり解除したお隣では、いま感染爆発がすさまじい勢いだ!そのため患者であふれる病院はまともに機能せず、多くの人々は薬局で売る薬に殺到する。結果品薄になった風邪薬は5,6倍に跳ね上がった。
そしてこれを商機と考える中国人が、日本やアジア各国で風邪薬の買占めに走る。中には在庫全部、あるいはダンボールごと買う人もいて日本でも風邪薬が品薄になる可能性もある。特に中国人に人気の大正製薬のパブロン・ゴールドは、飲むとじきに症状が和らぐので特に人気があるらしい。数年前のマスクと同様に今回もマツキヨの棚から風邪薬が消えて、定価では買えない事態など起こらなければよい。
「良薬は口に苦し」という格言が昔あった。今のクスリはまわりがコーティングされているので、クスリの味を感ずることは殆ど無い。でもクスリが苦いとなんとなく効く感じもする。コロナの出始めでは正露丸が効くのでは?という冗談めいた話も聞いた。(もうすぐ中国の春節が近づく、でもコロナ禍での来日は控えて欲しい。勝田陶人舎・冨岡伸一)
年賀状
茶飲み話・年賀状
「あけまして、おめでとう御座います。今年もブログのフォローなどよろしくお願いします」。ところで新年といえば元旦に届く年賀状は楽しみの一つであるが、せんじつ旧友の一人から「そろそろ互いに年賀状のやりを取り終了しないか」との提案があった。実は私も同じことを考えていたので、「渡りに船」とばかりに快諾した。
わが家では年賀状は毎年下絵を私が考え、妻がそれを版画に掘ってもう40年以上続けた。でも歳を重ねるとその作業が徐々に負担になり、今年で終了することにする。定職を持つ身ではないので、師走といえどさして忙しいわけではないが、年賀状書きがなくなれば気分的にはだいぶ楽になる。しかし年賀状のやりとりは長年会ってない学生時代の友などもいるので、安否確認にはよい点もあった。
最近は「年賀状の代わりにラインで送ればよいよね」とすでに若い人からどんどん年賀状離れが進み、SNSでのやりとりに代わった。それが徐々に熟年世代と伝播し、もう数年すると年賀状という慣習も激減すると想う。かつては年賀状の枚数で交友関係の広さを競ったが、もうそれも過去の思い出となりつつある。
先日「ピンポン!」とラインメールの着信音でうたた寝からさめた。見ると親友からの動画だ。アイコンをスクロールし、現れた美しいクリスマスツリーの写真をタップする。すると私の好きな山下達郎の「クリスマス・イブ」のメロディと共に、素敵な映像とメッセージが流れる。その日はちょうどクリスマスイブだった。カードの代わりに動画とは時代の変化を痛感する。
いま世界の人口は80億人をこえる。日本は人口減少だが後進国では人口増が止まらない。そこで人類一部は宇宙に進出するか、メタバース仮想空間にこもるかの二択になる。2045年にコンピューターAIが人類の思考を超えるシンギュラリテーがくるといわれていたが、2025年に早まったという。いったい人類の未来は明るいのか?戸惑うばかりである。(今年もまた激動の一年が始まった。勝田陶人舎・冨岡伸一)