おのろけ豆

今朝いつものように早く起きて居間でくつろぐと、正面のテーブルに置かれた菓子籠には、オノロケ豆と書かれたの袋が一つ混じっていた。袋を手に取り眺めると「これ、オノロケ豆って言うのか?」正直子供の頃からいつも身近にあったこの豆菓子の名称を、始めて知った気がした。そこで今日はノロケについて書いてみたい。オノロケ豆は落花生を原料とする菓子の一種で豆の外側を米粉で包み、焼き上げた一口菓子である。日本橋栄太郎ではこの菓子を江戸時代から作っており、奇妙な名称の由来は製作時に豆と外側の殻とがくっ付きやすいので、男女の仲に例えてこの名をつけたと言う。栄太郎の豆は濃い醤油味が特徴であるが、この袋のオノロケ豆はいろいろな味が楽しめる。

「くっついて離れない」といえば小学生の頃に、理科で使った馬蹄形の磁石を思い出す。この磁石では鉄釘などをくっ付けて遊んだが、とくに記憶に残るのは公園の砂場で集めた砂鉄だ!これを紙の上に撒き下から磁石を当てると、砂鉄が起き上がって磁石を動かす方向に砂鉄が着いて来る。まるでマジックのようで不思議に感じた。それとセルロイドの下敷きが一般的になると、当時流行っていたナイロンジャンパーの脇の下に、下敷きを挟んで強くこすると静電気が起きた。これを前に座る生徒の頭に近づけると、髪の毛がくっついてモワーと逆立った。子供が多い戦後世代は教室の数が足らず、ひとクラス54人で常に鮨詰め状態!当然教室の後方では先生の目が届かない。そのために授業中もイタズラの応酬で、勉強に集中できずに過ごした。

「まったく、ノロけっちゃって、ご馳走さま!」とはむかし若奥さんが亭主の自慢話などを何気にすると、相手から返される言葉である。まだ新婚のうちはノロケ話もたびたび出るが、時が経つとお互いに愚痴の方が多くなるのが世の常でもある。年をとっても夫婦仲が良いのにこしたことはないが、先日若い頃から腕を組んで歩くのが好きだった近所に住む先輩夫婦に久しぶりに出くわした。「今だに腕を組んで歩いているのか?相変わらず仲がよろしですね」と眺めたが、どうも奥さんの歩行がしっかりしないので、腕を貸している様子であった。「俺は池袋三越の店員で一番良い女を選んだ」と自慢していたあのオノロケ先輩も50年経過するとこうなるのか!「光陰矢のごとし」この年になると実感・・・。

その池袋三越は12年前に閉店、地元船橋西部、松戸伊勢丹、柏そごう、千葉三越も相次いで撤退!コロナ騒動とネットショッピングで百貨店の存在が危うい。でも子供の頃からの遊び場であった、日本橋三越だけは消えないで欲しい。

(器の中には様々な宇宙がある。勝田陶人舎・冨岡伸一)

キリタンポ

毎年正月になると、北国の便りとして届くのが秋田県男鹿半島に残る伝統行事としての「ナマハゲ」である。この風習は昔は小正月に行なわれていたそうで、新年を迎えるにあたり、無病息災を願う民の災いを祓うために、神の使いとして各戸を訪れてお清めをするという。もともとはナマハゲは来訪神であり、鬼ではなかったというが、近年では鬼の面を被り太鼓を打ち鳴らすなど、新たな芸能としての変化もみられる。私は東北の日本海側に突き出た男鹿半島にこの風習が根付いたのは、実際にむかし対岸のロシアから、漂流し流れ着いた赤ら顔の白人系の大男がいたのではないかと思っている。彼らと初めて出会えばどう見ても鬼か神にしか見えない。

「神様がやってきた!」の声に村人達は騒然とする。15世紀にコロンブスが大航海のすえ西インド諸島に上陸すると、住民は始めてみる金髪碧眼のヨーロッパ人に驚き!神様が来たと勝手に思い込んでしまう。そして村をあげて手厚くもてなすが実際には彼らは野蛮な鬼で、そのご行なった彼らの蛮行により、インカなどの新大陸の文明文化はことごとく根絶やしにされてしまう。新大陸の原住民の多くが現在では征服された白人との混血である。そこで「秋田美人」と称され、色白の美女が多い秋田も、ロシア人の血が混ざっているのでは?と勝手に妄想している・・・。話は飛んだが、ウィルスなどの眼に見えない災いは現在でも神仏にすがるしかない部分もある。たった一瞬の気の緩みが命取りになる現在である!ナマハゲを呼んで、お払いでもしてもらいたい。

子供の頃は正月になると各戸に「獅子舞」がやってきた。真っ赤な獅子頭に緑と白の唐草模様の布を被り、家々の玄関先でパクパクくちを開けて舞い、災いを祓って歩く。料金は30円程度でも、たった数十秒のパフォーマンスなので稼ぎは悪くないと思っていた。当時の民家の玄関は殆んどが引き戸で、ガラガラと戸を開け家主に断りも無く勝手に進入してくる。金を渡さないと退散しない半ば押し売りまがいの人もいて、次第に相手にされなくなる。家の立替も進み防犯上簡単に玄関に入れなくなると、いつしか見かけなくなった。呼び鈴を押し「獅子舞です」と名乗れば、施錠を解く人もあまりいないと思う。現代は凄い!ウィルスの存在どころかその変異や抗体まで分かると、見えない災いを神頼みする人も減っていくのか?

あけましておめでとう御座います。本年も宜しくお願いします。厄払いをかねてナマハゲの写真を載せました。オセチに飽きたのでセリをいっぱいの秋田郷土料理キリタンポ鍋でもいただきたい。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

葛湯

いよいよ今年もあと二日で終わる。でも大多数の人はコロナという、流行り病に振り回された1年であったと思う。しかしこのような年も歴史を振り返れば周期的にやってくる。前回パンデミックのスペイン風邪はただの偶然なのか?ちょうど百年前の1918から1920年にかけて流行し、当時世界人口の半数弱が感染して5千万人もの方々が亡くなったと言う。ちょうどその時、第一次世界大戦と重なったが大戦の戦死者は1千万人で、それより約5倍もの人々の命を奪ったというので、真に恐ろしいかぎりである。わが国でも内地だけで45万人位の犠牲者を出したので、当然大正時代を生きた私の両親もこのスペイン風邪に罹った。父親は高熱で1週間ほど寝込み、母親は脳炎を発症し3日間意識が無く生死をさまよったという。

「何で、来るんだよう。休めばよいのに!」小学校の授業開始のベルが鳴り終わると同時に、慌てて教室に滑り込んだ私に、周囲からブーイングが起こった。状況が分からずにいると、「お前が休めば15人欠席で、学級閉鎖になったのによう」とヒロシ君が呟いた。我々が子供の頃もとうぜんインフルエンザは冬になると流行する。でも当時はインフルエンザとは呼ばずに、流行性感冒あるいは流感などと呼んでいた。でも今のようにワクチンや抗生物質があるわけでない。通常の風邪ならば医者にも行かず売薬『改源」を飲んで氷枕で頭を冷やし、布団を被って寝て直した。この時に母親が枕元に持ってきてくれたのが、カップに入った暖かいトロトロの甘い葛湯(クズユ)である。片栗粉と砂糖を熱湯でといた単純な飲み物であったが、これを飲むと何か元気がでるきがした。

「私は脳膜炎を患ったから、頭が悪いの!」とは母親が何かあると口癖のように、この言葉を自己弁護に使っていたので、その病の重篤さが感じられた。しかしスペイン風邪はコロナウィルスと違い、子供達も多く感染して重篤化したのでより深刻であったと思う。我が家では毎年正月には浅草観音の初詣と、墓参りは欠かしたことが無い。しかし今回は親の代から継続してきたこの行事を、保留することも考えている。スペイン風邪も足掛け3年続いたので、コロナも完全収束には3年を要するかもしれないと思う。

私もこのブログ掲載を続けて4年目に入った。なんのテーマも設定せずに始めたブログであるが、最近やっと自分が何を発信したいのかが明確になりつつある。それは両手のひらに入る小さな抹茶碗の中に炎が作り出した宇宙を見たい!という欲求と、過去に自分が通過してきた日常の記述とを重ねるという計らいである。

ご購読の皆様、1年間お付き合いいただき真にありがとう御座います。同時代を生きた方々と歴史を共有したいという思いで、綴っていますので御感想などありましたらお寄せください。では良いお年をお迎えください!

(写真は抹茶碗の中に覗く宇宙。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

柿の種

「柿の種」と呼ばれるオカキがあるが、日本人なら知らない人はまずいない。私が子供の頃、当時はまだ乾燥剤もなかったので柿の種は湿気から守るために、蓋がしっかりと閉まるブリキ缶の中で保存されていた。この小さなオカキは、新潟にある浪速屋という米菓製造所で大正時代に作られたのが最初で、すでに百年の歴史があるらしい。しかしこの柿の種の形はある日偶然生まれたという。工場の作業員が丸い小さな抜き型を落とし、そのへこんだ金型で原料のシートを抜くと、形が柿の種そっくりだったという。なのでこのオカキを柿の種と名付けて販売したところ評判をよんで、その後も作り続けることになった。柿の種は私もよく食べるが以前より、唐辛子の量が少なく中の色も赤くない。かつては20粒も口に投げ込むと、「ヒー・ヒー」と辛くビールを飲んで一息ついていた。

柿の種といえばいろいろな童話を教訓にする私にとっては「サル・カニ合戦」が思い浮かぶ。ある日カニはオムスビ1個とサルが実を食べた後、捨てるつもりの柿の種とを交換する。そしてカニはその種を土に埋め水やりなどの世話をすると、十年後に柿木は大きく成長し沢山の実を結ぶ・・・。そのあとの物語の流れは皆さんよくご存知なので省略するが、要はいま食べている柿の実よりも種の方が、長い人生では大切であるということだ。しかしその種も土に埋めて育てなければ木に成長し、たくさんの実を付けることも無い。いま大多数の日本人を見ていると、皆さんセッセと貯蓄に励み金融資産を蓄えている。その金額は1800兆円もあるというので驚きだ。しかしこの大半が預貯金や債権では殆んど種の状態のままなので、大きく成長し実を結ぶこともない。

「残念なことに」というべきであるが、今我々が生活しているこの日本は資本主義社会である。しかし実際には、このことを正しく認識している日本人は意外と少ない。資本主義とは資本家や金持ちに有利な世の中である。豊かになりたいと思うなら、自らが会社を設立しオーナーになって金を稼ぐか!有望な会社に資金を投資し、その恩恵にあずかるかの二択しかない。ところが多くの日本人は、このことを意識せずなんとなく会社に勤め貯蓄に励む。一方アメリカでは創業ブームでアマゾンやアップルなどの巨大企業が誕生し、経済が活気付いている。人々は稼いだ金をどんどんと企業に投資し、その配当金や値上がり益などを手にする。お金は直ぐに食べられる「実」の要素と「種」の要素を持っている。日本人はお金は実だと思い貯金で蓄える。アメリカ人は種として投資に回し大きく育てる。

ベンチャーを嫌うようになった若者の多い、今の日本の風土で新たな創業なども少ない。すると庶民が豊かになる道はアメリカの成長企業に投資するしかないとしたら、日本の将来は暗い。

(写真は柿の葉を転写した皿。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

ホウレン草の胡麻和え

私には寒くなると、自宅でくつろぐ時に着る一枚の貴重なセーターがある。もう40年くらい前になるか?当時私がニットのデザインをしていた時に「冨岡さん、上質なカシミヤの毛糸があるから、希望ならセーターを編んであげるよ」と企画の打ち合わせに来ていたメーカーの担当者に声をかけられた。二つ返事でお願いすると、一ヵ月後にそのセーターが編みあがった。ベージュのセーターの色が少々気に入らなかったが、初めて体験する肌触りと感触の良さには正直驚いた。役得でオーダーのカシミヤのセーターが、たった1万5千円で私の愛用品となったのだ。それからはカシミヤのセーターが気に入り、何枚かデパートでも買い求めたが、着ごこちはこのセーターにまさるものはなっかった。何十年着ようがシットリして毛玉一つ出来ない。

「伸ちゃん、ちょっと手を貸してよ」と母親の呼ぶ声がした。戦後世の中が落ち着いてくると、毛糸でマフラーやセーターを手編みする女性が増えてくる。当時は街中に毛糸の専門店などもあり、ここで好きな毛糸の束を購入する。でも束のままだと糸が絡むので、丸い毛糸のボールに巻き直すが、この時に人手が必要となる。両腕に毛糸の束をかけ、糸を巻きとる母親の速度に合わせてユックリと腕を回していく。「早くしてよ。遊ぶ時間がなくなる」この作業には結構時間がかかったおぼえがある。その頃は寸暇を惜しんで、電車の中でも編み物をする女性を見かけたが、近年では全くその姿がない。今ではセーターなどの製品よりも、毛糸の方が値段が高い位で手編みするメリットも趣味以外では少ないようだ。

もともと羊のいなかった日本に編み物が持ち込まれたのは、明治二年にアメリカから北海道にメリノ種の羊8頭が輸入されてからだというので、わりと最近の事である。大正時代に女性の社会進出が盛んになると、動き易いニットのセーターなどが流行し始めて、手編みする人が増えていく。とくに戦後1950年代にブラザー工業がニットの編み機を発売すると、手編みの流行はピークに達したという。「我が家にもありましたよ、一度使われたきりの高価な編み機が押し入れの奥に!結局20年前に処分しましたが・・・」最近ではどんどん失われていく、縫い物や編み物など女性の手仕事。その波はヒタヒタと手料理にもせまっている。オフクロの味がスーパーの惣菜に変わると、食の均一化もより進み食べ物で母親を思い出すこともなくなる。

私のオフクロの味ナンバーワンは「ホウレン草の胡麻和え!」野菜嫌いだった私もこれは喜んで食べた。スリ鉢でゴマスリを手伝った思いでも残る。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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