玉手箱

「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・」人の世の50年間は天界の時間とくらべれば、夢幻のようにはかないもにである。誰でも知るこの句は幸若舞(こうわかまい・室町時代に流行った、語りを伴う舞曲の一種)「敦盛」の一節で信長の発言ではないらしい。歴史ドラマの「太閤記」などを見ると「本能寺の変」で、落城する前に信長が最後この歌で舞う姿が印象深いので、事実とは違うシーンが私にはインプットされているようだ。

医学の進歩、栄養バランス、重労働からの開放により、最近では日本人の平均寿命が80歳ぐらいまで延びている・・・。もう二年前になるか?「紀州のドンファン」こと金持ちの70代の男性が殺されたが、その犯人は若い妻であったことが最近判明し、彼女は先月逮捕された。「全く気の毒なことだ!」金がなければこの爺さんも、若い女と結婚できるはずもなく、ひとり老後を静かに楽しめば殺されることもなかったはずだ。

「全く人生の楽しみ方が下手だと、このようになる」いくら金をかけ、皺になった肌にアイロンをかけても元には戻らない。アンチエージングなど、むりして若さを取り戻すこともない。なぜならテレビをつければ小池都知事が、年寄りは家から出るな、出るなとしきりに警告するのだ!閉じこもれば衣服や見てくれに気を使う必要がないので、どんどん無頓着になる。

先日ある人がズーム会議では、下半身が見えないので下はパジャマです。と言っていたが、アニメキャラクターを自分のアバターとして使うか、顔や声の修正アプリやを使えば(現在あるかどうかは知らない)歳など名乗らなければ関係が無い。ネット上で結ばれた歳の差婚なら何の問題もないので、若い妻に殺されることもなかったはず。でも会話を楽しむだけで決して会わない事、浦島太郎の玉手箱「出会った瞬間、おきて破りの白い煙で、爺さんに戻る」。でも若いと思っていた相手も、実はおばあちゃんだったりして・・・。

若い妻に覚醒剤をもられて、眠るように亡くなった脳梗塞を患うヨレヨレの紀州のドンファン。羨むわけではないが、これって男としては大往生ではないのか。(手のひらサイズの小さな楽しみ!炎が作り出した好きなグイノミが、窯から一個出てきた。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

引きこもり

感染症の流行も1年以上続くと、いい加減に飽きてくる。しかしワクチン接種も思うように進まず、収束がいつになるか予測できずにいる。日々かよう工房横、森の木々の芽吹きも完了し陽光を浴びて、眩しいくらいに緑の反射光が目に刺さる。でも再び発令された東京の緊急事態宣言により、このゴールデンウィークは旅行も出来ず、自宅待機を強いられる人が多そうである。これではサービス業の殆んどが赤字で、雇用カットによる失業者がまた増大する。

すぐには次の仕事が見つからず、しかたなくステイホームを強いられると待っているのは退屈しのぎに始める、各種ネットやテレビゲームなどのバーチャル・リアリティの世界である。若年層の引きこもりが問題となっていた昨今であるが、最近では働き盛りの引きこもりも増大しているという。解雇された一部の人々がステイホームのすえ、現実逃避として向かう先が仮想空間である。一度この領域に足を踏み入れると、もう現実社会になかなか戻れないこともある。怪しく光る映像の光を浴び続け、無意識のうちにその罠にはまると「もう仕事などどうでもよい。この世界こそ俺のリアルだ」と錯覚する。

「バーチャル・リアリティーの彼女」最近ではパソコンなど利用し、仮想空間に彼女を作るアプリなども色々あるらしい。自室にこもれば理想の彼女「未来ちゃん」もいるし、現実世界に彼女などを作ることもばからしい。という若者もいるのでは・・・。「未来ちゃんなら、俺の言うこと何でも聞いてくれるし、独身のほうが気楽で良い」。確かに今の女性は昔と違って自己主張も強いし面倒かも。でもその面倒を生きるのが「人生」なんだけどね。「人生など、面倒意外は何もありはしない」とは20歳の頃、冷めていた私の実感だった。

しかし考えてみると「仮想空間の彼女」など年をとり、誰にも相手にされなくなったら最高かも?確かに「未来ちゃん」にはパソコンなど映像に向かう相手が若者か、年寄りなのかに認識はない。すると体があまり動かなくなった老人でも、ピッカ、ピッカのヤングとして対応してくれる。ステイホームのすえ、歳を重ね自宅に引きこもったらピッチ、ピッチのギャルの未来ちゃんとラッブ・ラブ?

でもこの程度の事。もう数年もしたらあたりまえになると思う。仮想空間でもう一度理想の人生をやり直せる。これからは老人こそデジタルを過激に利用すべきだ。デジタル依存症になれば認知症にならないと確信。(アマリリスが大きな花をつけたので床の間に飾る。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

投資

「2022、投資を高校で学ぶ時代が到来!」というニュースを読んだ。なんでも学習指導要綱の改定により、高校生に株式投資などの重要性を認識させる教育を、遅らばせながら日本でも始めるらしい。アメリカでは庶民が株式投資を行い、その収益でゆとりある年金生活を送っており、日本もそれに習うべきだ!とう声に押されたらしい。

でも日本人の庶民が株式投資などを避けるようになったのは、最近の2、30年間だと思う。その前の高度成長期には庶民も不動産や株式に投資し、利益を上げていた人も多くいたのだ。しかしあのバブル崩壊により、多くの庶民が損失をだし「投資は怖い」という考えが定着し、二度と株式投資などしないという人が増えていった。

アメリカにはバークシャー・ハザウェーという投資会社を運営するウォーレン・バフェットという著名な投資家がいる。彼は小学生の頃からお小遣いやアルバトでためた貯金で、株式を買い幾度かの失敗もあったが、その後に大きな財をなしていった。今では10兆円以上の個人資産を持ち、世界でも10指に入る大金持ちである。でも彼は毎年慈善事業に多額の寄付をし、人々の尊敬を集めている。また彼のその生活ぶりは常に質素であまり広くない古い家に住み、食事はマックとコーラでも充分だともいう。

これから若い人の人生設計は難しい。テクノロジーの進歩は旧来型の職業を淘汰し、デジタル化の波はコロナでより加速している。今は良いと思う職業も5年先は分からない。常に新たな情報を取り入れ、自分自身も変化し続ける努力をしないと、直ぐにオワコンになり失職する。そこで自ら時代についていけない落ちこぼれた若者は、自分があこがれる先端産業の会社の株式を買い、株主になるという選択肢もあるよ!と国が暗示しているようにも思える。

あと10年もすると世の中から単純作業のルーティンワークが消えていく。すると大半の凡庸な人たちは失業することになる。でも贅沢を望まなければ政府からの最低限の補助金で遊んで暮らせる時代が来るはずだ。でも金のない年金生活と同様に「活かさず殺さず」その生活は面白くも、おかしくもない。(上手く投資すればグイノミが抹茶碗になることも?勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留まることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

川の流れは常に絶えることがなく、しかも流れ行く川の水は移り変わって絶え間がない。本流に現れる飛沫は一瞬も留まることがなく、現れてはすぐに消えてしまって、また新しく現れるのである。世の中の人々の運命や人々の住みかの移り変わりの激しいことなどは、ちょうど川の流れにもたとえられ、また本流に現れては消え去る飛沫のように、きわめてはかないものである・・・。

これは鎌倉時代に鴨長明が記した「方丈記」冒頭文の抜粋であるが、この意味するところは現代を生きる我々の人生観となんら変わることがない。一言で言えば、鎌倉時代のような飢謹や災害に見舞われた時代であっても、繫栄を極めた今日であっても、人の一生など儚いもので現れては消える泡沫のようであり、そのような短い時間軸の中で、もがき苦しんだりするのが人の世の常であるらしい。でもしょせん泡だ!人の一生にさしたる意味があるわけではなく、何事もあまり真剣に捕らえずに、日々坦々と流れにまかせて暮らせたらよい思う、この頃である。

はかなく消えて行く泡を見ているのが私は好きである。早朝には抹茶碗の中の泡の出来ぐあいを覗き込み、夕暮れにはビールの泡立ちをグラスごしに見つめる。でもその両方の泡立ちを比較すると、ビールの泡のほうがはじけるスピードがじゃっかん早いようだ。ビールは短命で、抹茶は多少長生きであるらしい。ビールは中原中也で抹茶は川端康成か?でもその文学的な功績は泡のごとく簡単に消えることはない。

ステイホームでたいした楽しみもないので、とりあえず泡の立ち方など些細なことに、こだわってみたりしている。でも世の中を見渡せば、世界各国がコロナ支援による紙幣の刷りすぎで、泡と膨れ上がった経済バブルはやがて弾けて、ペチャンコになる日がやって来るかも。(コーヒーを茶筅でたてると写真のようにエスプレッソ。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

沙羅

先日JR幕張本郷駅の改札を出て、バス停に向かう階段を降り立つと一人の青年がギターを抱え歌を歌っていた。いわゆるストリート・ミュージシャンである。でも聞いたことがない歌だったので、立ち止まらずにそのまま通り過ぎた。彼がもしシンガーソング・ライターで自身で歌を作曲し、世の移り変わりなどをメッセージ発信しているとしたら、それは今日における琵琶法師であり、尊いパフォーマンスであるかもしれないと思った。

鎌倉時代を生きた琵琶法師は「平家物語」などの美しい叙事詩を残している。辻に立ち琵琶を抱えて、平家の栄枯盛衰を歌い、道行く人に人生の諸行無常を説いて回る。それは求道者の立場とはいえ、なにか刹那的でロマンがある・・・。私は感覚だけで仕事にあこがれる傾向があった。学生時代のある夜、飲み屋でたまたま隣に座った若者と話をするうちに、「なりたい職業は漁師である!魚を捕って飯が喰えるなら楽しそうで良い」と口走った。すると彼の口調が突然厳しくなった。「あんたなんかに出来るわけがないよ。俺は辛い漁師の仕事がいやで鴨川の実家から、中卒で東京に出てきた・・・」

「祇園精舎の鐘の音には、諸行無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、栄枯必衰の道理を表す。おごれる人も長くは続かず、春の世の夢のように勢いの盛んな人も亡びてしまう。それは全く風の前のちりと同じだ・・・」これは平家物語の書き出しの口語訳であるが、韻を踏む原文の響きには感銘をおぼえる。

この文章で気になるのはお釈迦様が入滅した場所に生えていたという、沙羅双樹という名の木である。一度見てみたいとずっと思っているが、本当の紗羅の木は熱帯地方原産で日本の風土では育たないそうだ。そのかわり夏場にツバキのような白い花をつけるナツツバキが、日本では沙羅と呼ばれている。最近ではこのナツツバキを庭に植えるのが流行っているようで、以前より見かける機会も多くなった。

ストリートミュージシャンも悪くない。でもどうせなら昔の琵琶法師や西洋の吟遊詩人を目指して欲しい。流行歌などをまねて歌うだけなら、バイトに行ったほうが稼げるよ。(盆栽仕立ての山吹が白い花をつけた。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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