御焼き
もう40年位前になるか?当時婦人靴デザイナーであった私は、デザイン契約をしていた銀座かねまつ・プールサイドという婦人靴専門店の依頼で、長野駅ビルへ新規出店する店舗の視察へ行ったことがあった。オープンまで数日の間に、商売繁盛祈願のため、スタッフ数人と市内にある善光寺さんへ詣でることにした。駅から長野鉄道に乗り、すぐの善光寺下で降りて参道に向かう。すると途中の土産物屋などの店頭では「御焼き」と呼ばれる饅頭がやたら目に付く。東京近郊では殆んどお目にかからないので試食のため、一軒の茶店に立ち寄ってみた。見た目は普通のこの焼き饅頭。二つに割ると中身は切ったお新香の高菜などの具材が覗くが、とりたて旨いものではなかった。
「この暗黒の通路、いったい何処まで続くのか!」壁伝いに手で探り、少しずつ前方に進んでいくと、やっと薄明かりが見えてきた。善光寺さんの本堂地下には「お戒壇めぐり」という死と生を擬似体験できるという真っ暗な回廊がある。「良い経験になるから絶対に中に入ったほうが良いよ」との地元スタッフの勧めで、料金を払い階段を下っていく。すると何度か回廊を折れるたびに暗くなる。そして今まで経験したことのない、全くの暗黒の闇に我々を誘っていった。あまりにも暗いのであちこちで笑いさえ聞こえてくる。「仏教で言う(無明)とはこのような世界なのか?」やはり私は阿弥陀仏にすがり(光明)に導かれたいなどと、勝手に解釈しその場を後にした。
闇といえば、戦後暫くは私の住む住宅地でも夜は真っ暗だった。そこでこのような夜道を歩くには、まだ提灯もつかわれることもあった。電力不足の戦後は停電も多く、暗くなり各家庭での電力使用が増すとじきに停電する。そこでマッチとロウソクは必需品で、手に取れる場所に常備そなえられていた。このような時に光の消えた砂利道を歩けば足をとられて転倒する。まして当時の狭い道の両端には、恐ろしい蓋のない側溝が口を開けて連なる。ここに足を落とせば汚れるだけではすまない。そこで昭和も30年代になると、庶民の間にも乾電池式の懐中電灯が普及し始めてくる。すると夜、銭湯に向かう時などには、この懐中電灯が役に立つ。これで足元を照らすと転倒も減った。道行く人の多くが懐中電灯を使うので、夜道はユラユラと揺れる光があちこちに点在していた。
最近では防災グッズ以外に懐中電灯の需要も無くなった。数年前トラブルで地域停電になった時に、とりあえずスマホの明かりでもことが足りた。
今後ブログは5、10日に配信します。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
水割り
水割り
高校二年生の夏休みが終わる頃、それまでバンやジュンのアイビールックでお洒落し、銀座をうろついていた私は急にそれら全てが馬鹿らしく思えてきた。「自分はいったい何のために、生まれてきたのだろう?」という漠然とした焦燥感に襲われ始める。最初はなんとなくの自我の目覚めが、徐々にはっきりと現れてきた。するとだんだん一人で考え込むことが多くなり、文学書などにその答えを求めるようになった。そして大学に入る頃からは哲学の本に代わり、「人が生きる価値とは何ぞや?」の観念的意味の追求へと進んでいく。こうなると観念の亡霊が自分に付きまとい、楽しいはずの青春時代が何をしても夢中になれず、他人事のように冷めた目で自分を傍観し続けた。
「自分は何のために生きているのだ?」いつしか完全に思索の迷路に迷い込んでしまって、出口を探っては本を読み漁る日々を過ごしていた。この悶々とした青春時代は四年ほど続いたが、徐々に思索の中には解決策など無いことが分かってきた。そして出口が見つからなければ入り口に戻ることを考えてみた。すると何も考えずに遊んでいた高校時代以前の楽しかった記憶がよみがえる。「やばい!自分は間違っていた、「人生とは観念的には生きる意味などはない。行動しつづけることにより、自分の思いどうりの人生を構築すことにが出来るのだ」。「俺は自由だ、好き勝手に生きるぞ」と心の中で宣言した。人間なにも考えない単純と思える仕事の中にこそ、生きる価値を見つけるべきではないか?よし明日から働くぞ!思い立ったら行動はいつも早い。
夕刊の求人広告欄を眺めていると、銀座のクラブでボーイ募集のバナー広告が目に入った。「いっちょボーイでもやってみるか?」と翌日面接に出かけ即採用となり、客に水割りを運ぶ仕事を選んだ。この時の仕事の条件は、なるたけ単純作業であること。土方でも良かったが54キロの貧相な身体では出来るわけがない。でもわれわれの青春時代は私のように、内省的に人生を考えるユトリがあった。しかし今の若者では人生を観念的に悩む子などあまり聞いたことがない。学校教育でも大量な情報と知識の詰め込みだけで、自然を眺めながら自分の人生を見つめ思索する時間など与えられない。近年知識の詰め込み教育から開放するためにユトリ教育が推進されたがうまくいかず、また詰め込み教育に戻っていった。
今の時代、若い人の青春時代の過ごし方は難しい。時代についていくために立ち止まって自分の人生を熟考する時間などない。常に新しいテクを学び続け疲労困憊している。時代はますます便利になるが「自由と幸福感」からは遠ざかっていく気がする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
オリーブの実
オリーブの実
以前一年間、滞在していたイタリアの都市ペルージアのあるウンブリアは地方は、なだらかな丘陵地が続く。そのため低い場所の小麦畑の他は、殆んどがブドウ畑である。そしてその山すそには比較的乾燥に強いオリーブ畑も点在していて、典型的なイタリアの風光明媚な田園風景を映し出していた。イタリア半島の中南部ではいたる所にオリーブの木が植わっていて、オリーブの実はたくさんとれる。そのため当然オリーブの実は廉価で、例えばコーヒーやアルコールなどが飲めるバールのカウンターには、塩漬けの種付きオリーブの実が山盛りに入った器がカウンターに置いてあり、ビールのツマミに勝手に少量取ることができた。最近は我が家でもサラミや生ハムの添え物に、皿に乗った種無しオリーブが登場することが多くなった。
「次は俺の番だ!」シェーカーを振る姉の手さばきをじっと見ていた。そのころ二十歳を過ぎた長女はサントリーのカクテル教室に通っていたので、家に帰ると練習のためによくシェーカーを自宅で振っていた。「シェーカーは8の字型に振るのよ」と言いながら姉はその手を止めると、シェカーのキャップをゆっくりと開け、カクテルグラスに注ぎいれた。「これがマティーニか?」まだ高校生だった私はアルコールは、父親にたまに進められるビールぐらいしか飲んだことがないので、当然酒の味など分かるわけがなかった。でもその時このマティーニの中には、始めて見るオリーブの実が一個入っていて、緑色のその実の中央が不自然に赤くなっていた。そのときはあまり気にも留めずに口に含んだが、別に印象に残る味でもないと思った。
それから時が経ってオリーブが一般に出回り始めると、オリーブの実のセンターに種を抜いたと思われる穴が開いただけのオリーブの実も、同じビン詰めで見かけるようになった・・・。「するとあの赤い部分は何か別の素材なのか?」疑問に思い調べてみると、赤い部分はパプリカが詰められており、あくまでも飾りらしい。イタリア滞在中にはパプリカの入ったオリーブなど殆んど見かけなかったので、どうもカクテル用の飾りのオリーブではないのかと思う。確かにジンベースのマティーニは殆んど透明なので、カクテルグラスにただ注がれても味気ない。イタリアでは種つきオリーブなどタダ同然。それが種を取ると値が上がり、穴にパプリカを詰め装飾すると高級品に化けるのか?あの小さい実の種を抜き、パプリカの小片を差し込むのは確かに手間がかかりそうだ。
でも実際にはオリーブの値段はその産地やメーカーによるところが大きく、オリーブオイルも含め、その値段はピンきりで分かりにくいことが多い。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ブリの照り焼き
ブリの照り焼き
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。ただトロッコで土を運搬する、それが面白さで見に行ったのである・・・。(このくだりは文豪芥川龍之介が書いた短編小説トロッコの文頭であるが、通常男子は幼児から小学生位までは、電車から自動車まで動く乗り物ならなんにでも、興味をいだく年頃がある)そしてある夕方、良平は弟と同じ年の隣の子供と土工達の帰った隙に、トロッコを持ち出し遊ぶ。それから後日、土工に声をかけトロッコを押す手伝いをするうちに、遠くの場所まで行ってしまう。気がつくと夕暮れになり土工達と別れ、一人暗い線路を恐怖心を抱き、泣きながら帰宅することになった。このトロッコの小説に近い経験を私はしたことがある。
「お前達、危ないから絶対にトロッコに触るなよ!」の声を残し土工達は夕日を背にその現場から消えていった。遠巻きにその工事を眺めていた我々はその忠告を無視し、車輪にかっていた車止めをはずした。しかし良平のトロッコと違いその線路の長さはわずか50メートル余りしかない。それでも夕暮れの短い時間、押し役と乗り役に分かれ、交互に何度か繰り返し遊んでいた・・・。すると突然「痛え!」の声に驚いた。トロッコを押していた友だちの一人が足をトロッコにひかれた。うずくまる彼のズックを外し足を見ると、足の親指の爪から出血していた。痛さにうめき泣く彼を支え自宅まで送り届けた。でも当時はこの程度の怪我では医者にも行かず、赤チンをつけ包帯を巻いて自宅で直していた。
昭和も三十年代に入ると戦争の傷跡も徐々に癒えて、経済活動が本格的に復興し始めた。それにつれて地方から職を求めて人々が東京に集まってくる。そこで東京都に隣接する市川は彼らの住むベットタウンとして注目されるようになった。京成八幡駅から徒歩10分程の距離の、街外れにあった我が家の周辺でも田んぼを埋めて、宅地造成する工事があちこちで行なわれた。オート三輪車で運ばれてきた近くの丘を切り崩した赤土は、今のようにブルト―ザーがあるわけでなく、造成地の奥には車は入れない。そこで短い線路を引きトロッコに土砂を載せ運んでいたのだ。しかしそれから暫くするとベルトコンベアが登場し、トロッコはそれを最後に姿を消していった。
芥川龍之介の好きな食べ物といえば、ブリの照り焼きである。魚嫌いだった私も油の乗ったブリの照り焼きは大好きで、子供の頃から喜んで食べた記憶が残る。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ポン菓子
ポン菓子
第二次世界大戦が終わると、アメリカとソ連の間では資本主義と共産主義のイデオロギー対立により、年々緊張感が高まっていった。そのため核兵器やミサイル開発競争はエスカレートしていき、やがてそれは人工衛星の開発から1961年、ソ連のガガーリンによるポストーク有人衛星の成功へと進んでいった。日本でも敗戦後の少ない予算から、ロケット開発の糸口を探ろうと糸川博士などを中心に、当時ペンシルロケットと呼ばれた小型のロケット発射実験の様子が、ニュースでは時々取り上げられていた・・・。我々が子供の頃は今の子供達と違って、冒険心と好奇心に満ち溢れている。親も子供の日常などには関心が希薄、ほとんど野放し状態なので大人のやる事は直ぐに真似をする。
「こら!あんたたち、こんなもの飛ばして全く危ないわねー、警察に通報するよ」と道を歩いていたオバサンが血相を変えてロケットの燃えカスを拾い、我々のいる空き地へと侵入してきた。ひととおり文句を言うと「まったくしょうがないわねえ!」の言葉を残しオバサンは立ち去っていった・・・。このころ子供達の間では密かにロケット作りがブームになっていて、学校でもロケットの作り方の情報が飛び交う。「よし、俺らもロケット作ろうぜ!」こうして近所のガキどもを集めロケット開発チームがにわか誕生した。まずロケット本体は、アルミ製の鉛筆サックを流用する。そこに当時は駄菓子屋で簡単に手に入った徒競走の合図などに使った鉄砲の火薬を、皆で紙から火薬だけを剥がし取り、燃えやすい筆箱ケースなどのセルロイドの小片と一緒にサックに詰める。
「ピュー、白煙を引いてロケットは勢いよく飛び出す!」制御不可能なので何処に飛んでいくか分からない、荒っぽく蛇行しながら空き地の生垣の塀を抜け、外の道まで飛んでいった。大笑いしながら成功を喜んでいると、突然のオバサンの登場だ・・・!しかしそれからもロケット開発はエスカレートしていく、鉛筆のサックでは飽き足らずもっと長い管に詰めようと、傘の柄の金属部分を切って使うことにしたのだ。「これが拙かった」発射台に置き焚き火を炊いて離れて見ていたが、突然爆発し、飛んできた破片が一部が友だちの腹に刺さった。大事に至らなかったが「やばいよ!」とロケット開発はその後すぐに中止した。
爆発といえばむかし円筒形の鉄の熱い加圧機に米を入れると、爆発音と共に米が10倍に膨らみポップコーンのような「ポン菓子」と呼ばれる不思議な米菓子があった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)