オコゲ

まだ世の中が今のように殆んど全ての家事が電化し便利になるずっと以前、70年近く前の話だ。そのころ我が家の狭い台所にはカマドがあって、薪をくべてお釜で飯を炊いていた。当時主婦は朝起きると、まずカマドの火を起こすことから一日が始まる。オカッテと呼ばれていた台所はカマドの煙で黒くススけていて薄暗く、ここで母親が頭に手拭をかぶり、忙しそうに立ち働いていた。その様子は小津安次郎監督が描いた、戦後初期の白黒映画を見るような情景として、私の幼い記憶に残っている・・・。フツフツと音を立て、重い木のお釜の蓋を蒸気が上げ始めてしばらくすると、熱々のご飯が炊きあがる。当時は飯が炊きあがると、すぐにヒノキの桶のようなオヒツにご飯を移していた。

「オコゲのオニギリ食べるかい」朝食を待ちきれずに台所をうろついていると、母親に声をかけられる。この日は火加減なのか?お釜にはいつもより多めのオコゲがへばりついていた。シャモジでオコゲを剥ぎ取り、塩で結んだオムスビを受け取った。すきっ腹のせいもあるのが、香ばしさとカリカリ感の残る食感のオコゲのオニギリがやけに旨く感じた。今でもオコゲのオムスビを食べてみたいと思うこともあるが、ハイスペックの高機能炊飯器ではオコゲなど出来ることも無い。塩味の付いたダシで炊くと茶色に焦げめが付く時もあるが、お釜で炊くあのプレート状のカリカリオコゲはお目にかからない。

カマドで薪をくべ釜で飯を炊くと、薪を投入するタイミングの誤差で毎日飯の炊き上がりが異なる。もちろん釜には水分量のメモリの記載などもなく、米と水を入れた釜に手を浸し「平らに置いた手首の下の位置までの水加減」とか母親は自分で適当に決めて炊いた・・・。昔の飯炊きは私がいま行なっている灯油による陶芸の窯炊きに似ている。火加減の調節をレバーの操作一つで行なっているため、いつも作品の出来ばえが微妙に違う。うまく出来ることもあれば納得できないこともある。でもこの誤差が陶芸の楽しみでもある。扉を開けニッコリと微笑むこともあればガッカリすることもある。最近陶芸でもコンヒューター付きの電機窯で焼成する陶芸家が多くなった。スイッチをオンにすれば、後は自動操作なので出来上がりのブレはないが、その分も発色がよくない。

確かに便利で楽なのも悪くはない。指一本で何でも出来るデジタル社会がすぐそこまで来ている。人は労働から解放されスポーツで無駄に汗を流す。「労働は神聖」の言葉も消えつつある。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

ホットケーキ

私が高校生になると当時夏休みに流行のアイビールックでキメテ、銀座のみゆき通りをガールフレンドと歩くことが流行ったことがあった。(これらの若者は「みゆき族」と呼ばれていた)オシャレをすることは好きだったが、私には姉が3人もいたので女性にはあまり興味もない。でもその日クラスの友だちが「俺が知り合った彼女と銀座に行くが、その彼女がもう一人おんな友達を連れてくるという。だからお前も一緒に来いよ」と誘われた。その日は本八幡駅で待ち合わせて電車に乗り、有楽町で降りると真直ぐにみゆき通りに向かった。通りの両側には流行のマドラスチェックのシャツ、白のコットンパンツに、ビーチサンダルを履いた殆んど同じような格好の男の子が、おおぜいタムロしていた・・・。銀座をブラついたあと不二家に入って、このころ新しく出てきたホットケーキをはじめて食べた記憶が残る。

「ねえ疲れたから、タクシーで帰りましょうよ」雑談をしてなんとなく時間を過ごすと、連れの彼女の意外な提案に驚く!銀座から市川までタクシーで帰るというが、いったい幾らかかるのか知っているのか?「俺そんなに金持ってない」と困惑していると「大丈夫よ、お金は私が払うから」と大胆に言い放った。まだ中学三年生だという女子がそんなに小遣いを持っているのか?いくら私立のお嬢さん学校に通うという彼女でも、この提案にはショックであった。結局4人でタクシーに乗り、遠路市川まで帰ったが料金は全額中学生の彼女が払ってくれた。しかしそれから成人して銀座で飲んでも、私は二度とタクシーで本八幡まで帰宅することはない。タクシー料金を払うくらいならもう一度飲みにいけた。

当時デートの約束は面倒だ「すいません、アイコさんいますか?」などと知り合った女子の自宅に電話する・・・。実はこれが大変な作業であった。事前にもしお母さんが電話に出たら、何と言おうかと対応を考える。そのころはまだ中高校生の男女の付き合いなどは厳しかったので、簡単に女子の親も取り次いではくれない。必ず用件をお母さんに聞かれ、対応が悪ければ「そんな女子、家にはいません!」と電話を切られてしまう。事前にいろいろ思考を巡らすも、本番にしどろもどろだとお手上げだ。それに特に夜はだめだった!もしお父さんが電話に出たら最悪で、即切らないと怒鳴られる。などとハラハラドキドキの作業であった。

写真の帽子は陶器で製作しました。乾くと切れ易い粘土のヒモをグルグルと繋いで悪戦苦闘の末どうにか完成。こんな帽子をかぶった女性と夏の日差しの中で銀ブラでも・・・。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

夜鳴きソバ

「あのドンブリ、ちゃんと洗っているのかしら?」と母親が言う。「確かにそうだな、あの狭い屋台の中に充分な水などあるわけが無い」と父親が答えた。私が小学校低学年ころ、即席麺がまだ世の中に出回る前の話。夜8時を過ぎると「ピロリ、リリー・・・」チャルメラを吹く音が聞こえてくる。あの笛の音は、やけに食欲をさそう。「たまにはラーメン食べたいよね」の呟きに親がうなずいたので、姉と一緒に外に飛び出す。裸電球が遠くに光る街路はかなり暗いが、おじさんの引く屋台はカーバイトを焚く光で明るく輝いていた。「ラーメン3つ」とおじさんに告げ、ラーメンスープとカーバイトの臭いを嗅ぎながら、待つこと10分ラーメンが出来上がった。盆にのせ届けられたラーメンは夜食なので家族6人で分けあう。そして食べ終わったラーメンドンブリは直ぐに屋台に戻しに行く。

明星チャルメラという即席麺も好きで、たまには一人で作ることがある。するとこのラーメンを開封する時に出会うのが、今だにおっちゃんがチャルメラを吹くあのアニメキャラクターだ。「オッチャンまだ屋台引いているのか」頑張るねえと微笑みながら沸騰した湯に麺をぶち込む。即席麺が登場する以前は、ラーメンは自宅では簡単に作れなかった。まずスープを作るのが大変だった。八幡神社近くにあった鳥吉という名の鶏肉屋で鳥ガラを買い、ダシをとることから始める。でもそれから数年経つと、あの日清のチキンラーメンの劇的な登場となる。すると屋台のおっちゃんの仕事はじきになくなり、チャルメラの音が街から消えていった。そう考えてみると、この明星チャルメラのキャラクターもどことなく悲哀を感じる。

「俺明日から朝食は即席麺でいいよ」と母親に告げたのがまずかった。即席麺が好きだった私は高校時代の1年間、黙ってラーメンを食べ続けた。「あんたも好きだねえ、こんなもの」と言いながら母親は、野菜たっぷりラーメンをせっせと作る。まさかここまで徹底されるとは正直思わない。さすがに飽きてきたが「納豆ご飯が食べたい」などと言い出せずにずるずると継続したのだ・・・。今でも即席麺やカップヌードルは好きで、早朝出かける時は一人でカップヌードルを楽しむ。料理好き女房には作りがいがないと馬鹿にされるが「私の味覚もしょせんこの程度」と自覚し麺をすする。チャルメラの音色が聞こえてきた当時、ラーメンでさえ庶民にはご馳走であった。

今あたりまえだと思っている好きなものが常に食べられる豊食の時代もそろそろ終焉し、きっとあの時代がまたやって来る!そう思いつつ欠乏の時代の過去を綴る。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

ブルマン

今では殆ど見なくなった懐かしい戦後昭和を思い出させる憩いの場のひとつが、どこの駅前にもあった純喫茶である。子供の頃は遠巻きに眺めていたが、高校生にもなると時々ここに入店するようになる。赤い毯がひかれ、アールデコ調のランプが気だるく光る店内は薄暗く、どこか怪しげな雰囲気を放っていた。当然学校ではこのような純喫茶への入店は禁止で、時々見回りに来る先生に見つかるとまづいことになる。でもブルーやエンジのビロードが張られた柔らかいソファーに腰をおろすと、何か大人になった気分がして学校帰りにも時々たちよった。店内には当時流行っていた、モダンジャズやクラッシック曲などの音楽が流れ非常に心地よい。

「おまえこの曲知っているか?」と同席のタバコをくわえた友達から聞かれた。「この曲はなあ、アメリカのジャズバンド、ブリューベックのテイクファイブだ。今アメリカでは人気なんだぞ」という。当時モダンジャズはダンモと呼び一部のカッコ付けの高校生の間でもファンがいた。ダンモは私が好きだったベンチャーズからするとマニアックなので、この曲以外には殆んど印象がない・・・。俺は、ブルマン!」とやって来た若い女給さんに友達がオーダーする。「じゃあ俺も」とはいってみたが、「ちきしょう!ブルマンってなんだ?」ブルマンとはご存知のようにブルーマウンテンのストレートコーヒーのことで、当時コーヒーを飲みつけない高校生に分かるはずがない。なにかこの友達には非常に差をつけられた感じがした。

そしてコーヒーが運ばれてくると、友達は何も入れずにいわゆるブラックでコーヒーを啜っていたが、私はミルクと砂糖を多めに入れる。「お前そんなに入れると、せっかくのブルマンの味が分からなくなるぞ」と咎められた・・・。でもそれから十数年も経過すると、その純喫茶にもインベーダーゲーム機が店内に入り込み始める。ビロードで張られたソファーの角はすっかり擦り切れ、音楽はほとんど聞こえずゲーム機のガチャガチャ音だけが響くようになり、落ち着いて話も出来ない空間に変わった。もちろん若い女性のウエイトレスの姿は消え、白髪の店主自らがぶっきらぼうにコーヒーを運ぶ。そしてお城のような外見の純喫茶もセルフサービスカフェに建てかえられていく。

当時はスタイリッシュな女性がコーヒーを運ぶ美人喫茶もあった。水道橋の学校近くの美人喫茶にはコーヒーの値段は少々高いが、授業の合い間に花を眺めに時々は出かけた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

茶巾寿司

わが国では個人の所有する自動車の約四割が軽自動車であるという。しかし今の軽自動車は室内空間も広く装備も充実していて、旧市街が残る市川市の狭い道路の通行などには非常に便利である。かつて私が軽自動車を乗り始めた1963年当時、軽自動車の免許収得は簡単であった。教習所で8時間ほどの運転講習と、交通法規の試験にさえ合格すれば16歳でも免許を取ることができた。しかしこの免許は軽自動車の限定免許で普通車の運転はできない。そこで18歳になると、再度普通免許に切り替える試験を受けことになる。当時は軽自動車には車検制度の適用がないので、タイヤ交換もしないで乗り続けた。タイヤがすり減るまで乗って丸坊主になると、突然大きな音を立てバーストすることもあった。

「まいったなあ、またエンジンがかからない!」こんな時は通常バッテリーか点火プラグの問題である。当時の軽自動車は混合ガソリンという、ガソリンとエンジンオイルを混ぜた特殊な燃料を使用していたので、点火プラグにすぐ油煙がこびりつきスパークしなくなる。その度に後方にあるエンジンルームを開け、プラグを工具で抜き取り取りブラッシングする。その頃の日本車はどの車種も性能が悪く、年数が経つと直ぐに故障する。道路の真ん中や交差点内での故障車も度々見かけた。動けずにいると後続の車が通行できないので、何人かのドライバーが降りていき、文句も言わずにその故障車を押して端にどかす。

そのころ自宅にあったスバルには、ガソリンメーターが運転席に無かった。メーター類はスピードメーターの1個だけ!それもマックス80キロで実際にはこのスピードさえも出ない。でも燃料残の確認はいったってシンプルである。燃料注入キャップを開けメモリの付いたメジャー棒を差し込と、濡れた位置で残量の確認が出来る。「これでは注意してないと直ぐにガス欠だ」でも奥の手が一つある。車の床にはコックがありこれを開くとガソリンの予備タンクに繋がり、ここに3リッター位のガソリンが眠る。これで近くのスタンドまでたどり着けるわけだ・・・。家業の手伝いで高校時代に車で日本橋三越まで納品に行く。すると母親の納品作業を待つ間、近くの人形町京樽の茶巾寿司が旨いと姉から聞いたので、車中で時々食べた。当時は旨く感じた「茶巾寿司!」だが京樽なら今では何処にもあるので普通の軽食になった。しかし軽自動車も食べ物もずいぶん贅沢になったものだ。

こんな状況なので当時JAF(故障車をレッカーする会社)の会員が飛躍的に増えた。でも今の車はほとんど故障などしないので長年会費を納め続けても、呼んだのは車の鍵をなくした一度だけである。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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