ホウレン草の胡麻和え

私には寒くなると、自宅でくつろぐ時に着る一枚の貴重なセーターがある。もう40年くらい前になるか?当時私がニットのデザインをしていた時に「冨岡さん、上質なカシミヤの毛糸があるから、希望ならセーターを編んであげるよ」と企画の打ち合わせに来ていたメーカーの担当者に声をかけられた。二つ返事でお願いすると、一ヵ月後にそのセーターが編みあがった。ベージュのセーターの色が少々気に入らなかったが、初めて体験する肌触りと感触の良さには正直驚いた。役得でオーダーのカシミヤのセーターが、たった1万5千円で私の愛用品となったのだ。それからはカシミヤのセーターが気に入り、何枚かデパートでも買い求めたが、着ごこちはこのセーターにまさるものはなっかった。何十年着ようがシットリして毛玉一つ出来ない。

「伸ちゃん、ちょっと手を貸してよ」と母親の呼ぶ声がした。戦後世の中が落ち着いてくると、毛糸でマフラーやセーターを手編みする女性が増えてくる。当時は街中に毛糸の専門店などもあり、ここで好きな毛糸の束を購入する。でも束のままだと糸が絡むので、丸い毛糸のボールに巻き直すが、この時に人手が必要となる。両腕に毛糸の束をかけ、糸を巻きとる母親の速度に合わせてユックリと腕を回していく。「早くしてよ。遊ぶ時間がなくなる」この作業には結構時間がかかったおぼえがある。その頃は寸暇を惜しんで、電車の中でも編み物をする女性を見かけたが、近年では全くその姿がない。今ではセーターなどの製品よりも、毛糸の方が値段が高い位で手編みするメリットも趣味以外では少ないようだ。

もともと羊のいなかった日本に編み物が持ち込まれたのは、明治二年にアメリカから北海道にメリノ種の羊8頭が輸入されてからだというので、わりと最近の事である。大正時代に女性の社会進出が盛んになると、動き易いニットのセーターなどが流行し始めて、手編みする人が増えていく。とくに戦後1950年代にブラザー工業がニットの編み機を発売すると、手編みの流行はピークに達したという。「我が家にもありましたよ、一度使われたきりの高価な編み機が押し入れの奥に!結局20年前に処分しましたが・・・」最近ではどんどん失われていく、縫い物や編み物など女性の手仕事。その波はヒタヒタと手料理にもせまっている。オフクロの味がスーパーの惣菜に変わると、食の均一化もより進み食べ物で母親を思い出すこともなくなる。

私のオフクロの味ナンバーワンは「ホウレン草の胡麻和え!」野菜嫌いだった私もこれは喜んで食べた。スリ鉢でゴマスリを手伝った思いでも残る。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

私の子供の頃、自宅の近くにまだ油屋という、油を専門に商う店があった。油などの専業で商売になるのか?今では不思議に思うが、むかし油は高級品でそこそこ儲かる商売だったという。ところがその油屋は石油ストーブが徐々に普及し始めると石油を販売するようになり、その後自動車の普及と共にある日突然ガソリンスタンドに衣替えをした。しかし暫くするとガソリンスタンドの建設ラッシュが訪れる・・・。そして主要道路のあちこちにガソリンスタンドが林立するようになると、比較的規模の小さなそのスタンドは店を閉め、新しく出来た幹線道路沿いに引っ越していった。近年過当競争で薄利になったガソリンスタンドは、今では斜陽産業であり廃業する店も多い。そして電気自動車が普及するとガソリンの需要はなくなる。

「うちの亭主、いったい何処で油を売ってるんだ!」この言葉は江戸時代の庶民言葉で当時は油を売り歩く、油屋という職業が存在していた。当時の油は粘着性があり、容器に満たすのに時間がかかったらしい。そこで待つ間に世間話などをして時間をつぶした・・・。油は貴重で食用のほか整髪や灯明に使うなど、いろいろ用途があったという。今では機械油などの殆んどが、クレ550などのスプレー缶が主流となり非常に便利になった。以前は細く長い口の付いたジョウロ型のブリキ容器にいれ、底の部分をペコペコ押して油を注いでいた。小学生の頃はこの容器を使い自転車に油をさしたのを思い出す。でもこの容器は今では殆んど見かけることもない。

ところで頭髪につける油といえば、あの相撲取りのつける鬢付け油の独特の臭いが気になる人は多いと思う。両国国技館前の総武線に大相撲開催中に乗ると、その匂いで相撲取りの乗車が、席に座り寝ていても分かるくらいだ。この油はハゼの木きから抽出した木蝋を主成分とするそうだが、香りは人工的に作り出すという。しかしその香りの作り方は、ある会社の企業秘密で公開されてない。いま現在では鬢付け油は東京都江戸川区の島田商店という所のみで製造されており、独占状態なので年々価格も上がっているらしい・・・。子供の頃は近所のおばさんの中には、まだ椿油を付け簡単な日本髪を結う人もいた。我が家では密かにそのおばさんを「カマシキ・ハイカラ」とあだ名した。

まだお釜でご飯を炊いていた頃、ドーナッツ型に藁で作られた釜敷という熱いお釜の下に敷く座布団があった。彼女の髪型が釜敷そっくりなので、その名がついた。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

黍団子

日本人なら知らない人がいない童話、桃太郎の主人公が鬼退治に出かけるとき、腰に下げてたとされる黍粉を使った純粋な黍団子(キビダンゴ)。これを食べた記憶が今だにない。岡山県の吉備地方で作られる吉備団子は有名であるが、これはモチ米などで作られており、桃太郎の黍団子とは別物であるという。浅草観音の仲見世通りには日本一の御旗を立て、キビ団子を売る店があるが、食べてみると原料は黄な粉主体で黍が使われているとも思えなかった。子供のころから桃太郎にあこがれ、本物の黍団子を食べてみたいと常々思っていたが、この歳になってもまだ実現できずにいる。粟(アワ)と黍はよく比較されるが、あの黄色い粒の粟餅なら何処かの土産でいただいたこともある。

「今の日本人の若者は本当に慎重だよねえ!」と思うことが多い。私は童話の桃太郎が子供もころから好きであった。それは大人になってからも継続し、今だに桃太郎の教訓として心に留めている。桃太郎の偉大さは鬼退治という、自分ひとりでは実現不可能と思える行為を、キビ団子3個を持って無謀にも実際に出かけることにある。するとその野心に共鳴する、イヌ、キジ、サルなどの仲間が徐々に集まって次第に大きなウネリとなる。現代の頭の良い若者達はここの計算が出来ない。出発時の乏しい「持ち駒」だけを見て、夢の実現をあきらめてしまう。「金も人も現地調達、とりあえず出発する」自分の見てる夢が良ければ、協力してくれる人は必ずいるもんだ!という真の深読みがない・・・。一方アメリカでは若い人がアメリカンドリームを信じて行動し、たくさんのベンチャービジネスが生まれていて活気づいている。

私はデザインの自営業を45年間営んできた関係で、多くの中小企業の経営者との接触があった。その中でも何十年も会社が継続し繁盛した経営者はわずかであり、殆んどが途中で消えていった。成功した経営者の共通した資質をみると、大体が皆セッカチで思考と行動のテンポが良い。打ち合わせなどで新しいアイデアを思いつくと直ぐに行動に移す。行動してだめならまたその見切りも早い。「要はやってみなければ分からないという消去法なのだ!」人の浅はかな事前の憶測などに執着しない。行動の中から新しい展開が生まれることを体感している。一方いろいろアドバイスをしても行動せずに事前にその困難さだけを指摘し、いっけん先読みの出来る小利口な二世の経営者も多くいた。するとこちらもあきらめてアドバイスもなくなる。

今の子供達は物心がつくといきなりコンピューターゲームから始まり、桃太郎などレトロな童話に興味を示さない。若い人がテクのみに興味を抱き、野心が消えた時その国の活力は薄れる。(写真は孫のサツキ小学1年生の作品、なんとなく桃太郎!勝田陶人舎・冨岡伸一)

松葉ガニ

むかし私が小学生低学年の頃までは、自宅に風呂がなかったので銭湯に通った。そのために銭湯の思い出ならいろいろある。当時銭湯へ行き風呂場にはいると倶梨伽羅紋々(くりからとは不動明王の化身、もんもんとは刺青)を背中に彫った大人を結構見かけた。その頃は渡世人だけでなく職人なども、刺青を入れていた人もいて、別に気にもとめずにいた。最近では温泉など公共の場での刺青入浴が規制されているが、風呂に浸かりながら玉を握った竜や弁天様の刺青の入った、身体を眺めるのも悪くはなかった・・・。しかし近年同じ刺青でも日本の伝統的な刺青ではなく、アメリカなど海外で流行中のタトゥーは美しくない。この刺青はファッション感覚で入れられることが多く、一つ入れると癖になって徐々にその数が増えていき、様々な図柄が混在して統一感がない。

「ええ、どうしたの?この人の顔」と思ったことがある。以前工房の水道工事に呼んだ職人のオジイさんの顔がとてもユニーク。たぶん若いときに相当な遊び人であったのだろうか?半そでのダボシャツから透かし見える刺青はまだ良いとしても、なんと顔の眉毛にも刺青を入れていたのだ。眉毛が薄く気になって濃く見えるように刺青を入れたのだと思うが、歳をとり眉毛が白髪になると刺青だけが黒く目立ち、なんとも違和感のある顔になっていた。若い時は年をとることなど想定しないので、一時のヤンチャな行動がおかしなことになる。以前若い日本女性でも目を大きく見せるために、瞼の上に細く刺青を入れるのが流行ったことがあるが、これでさえ老婆になったときに違和感があるかもしれないと思う。

30年も前のこと、神戸の靴メイカーが有馬温泉で行なった忘年会に参加したことがある。兵庫県の日本海側でとれる松葉蟹が喰えるというで期待していた。日中仕事をし夕方バスでホテルに着くと、宴会前にさっそく大浴場に向かったのだが、浴場の戸を開けてビックリこいた!そこにはなんと全員が刺青を入れている恐持ての男達ばかりなのだ。背中に彫った刺青はまだ良いとしても、胸の中央には10センチ位の丸いこの組のマークが入れられている。私は恐る恐る空いている洗い場に座って体を流し早々と引き上げたが、聞くとこの日は地元山口組関係者の納会が隣の大広間で開かれているということであった・・・。でもこの男達の刺青は関東で見慣れている紺色の墨でなく、グリーンと赤色のコントラストで何か不気味に感じた。

同じズワイガニである松葉ガニと越前ガニの差は産地の違いで、京都府の日本海側から鳥取までを松葉ガニ、福井県(越前)で水揚げされるものを越前ガニとよぶそうだ。(写真の蟹は小さな箸置きです。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

落花生

私の工房がある八千代市から、八街方面にかけての北総台地は言わずと知れた千葉の名産落花生の産地である。富士山の火山灰が堆積した赤土の台地は落花生の栽培には適しているという。しかしこの落花生畑は種を巻く春先に強い季節風が吹き荒れると砂埃が巻き上がり、目を開けていられない状態が続くこともある。もともとは南アメリカが原産だという落花生が、始めて日本に持ち込まれたのは江戸時代中期の中国からで、南京豆と呼ばれていた。しかし実際に栽培を始めたのは千葉県が最初で明治9年であるという・・・。昭和40年には全国での生産量が今の10倍もあったが、その後中国産に押されて減少しはじめ、現在では少ないその生産量の80パーセントあまりが千葉県産である。

「右か左、どちらがおじいさん?」南京豆の皮をむき当てるゲーム!記憶に残る人もいると思う。デジタルゲームなど想像もできない幼少期、オヤツで食べる落花生の皮をむき、退屈しのぎに姉とよく当てっこをした。豆の皮をむき二つに裂くと、片方だけに頭に出っ張りが付く。出っ張った方がおじいさん、へこんだ方がおばあさんと言う具合だ。当てた方がその豆を食べることができるので、けっこうマジに競った。昔のゲームはアナログなので遊び相手が常に必要となる。そのため兄弟が少ないと、遊び相手に困り寂しい思いをする。昔は幼児の面倒は年長の姉兄が見ていたが、少子化となった現代では代わりに保育園などで、先生がまとめて面倒を見ることになる。

私が子どもの頃は保育園などは殆んど存在しなかったと思う。幼稚園ですら少なっかったので、私も幼稚園には行っていない。そこで野山を駆けずり回っていた野生児が、いきなり小学校へ入学すると大変なことになる。じっと一時間座っていられない子や、先生の言うことを聞かない子供も多く、慣れるまで一ヶ月くらいはかかった。当時の私も同様で朝教室に着くと直ぐ取っ組み合いの喧嘩をして、お互いの腕力の強さ測って、序列を確認していた。でもそういう我々を横目で見る一団もいた。彼らは幼稚園卒業生でしらけた眼差しで我々を眺めていたのだ。擦り傷や切り傷が絶えず、いつも体のどこかにかさぶたが残り、赤チンやヨードチンキが必需品であった。

この秋オオマサリという巨大な実の落花生を頂いた。味もよくビールのツマミには最適でした。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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