清酒Ⅱ

近くに住む娘夫婦からお中元に清酒の詰め合わせが届いた。小さな一合ビンに各地の地酒が詰められ、味の比較が楽しめるようになったセットで、冷蔵庫で冷やして晩酌のビールの後に飲むには手ごろなサイズだ。私は日本酒もワインも辛口好きで、それに一晩に何種類かの酒を少しずつ飲む究極のチャンッポン派でもある。チャンポンで飲む酒は飽きが来ないビールのツマミにウイスキー、ウイスキーのツマミに清酒を飲む、少し飲みすぎたと感じるとまた最初のビールに戻るといった具合だ。こう書くと相当な酒豪だと思われるがそれぞれの酒量はすくない。そのため私は酒の肴には余りこだわらない。ところが女房も酒好きなので勝手にいろいろ吟味して作ってくる。

「清濁あわせ飲め!」人生は清もあれば濁もあると、子供の頃からこの言葉は父親には教訓としてよく言われた。人生の清酒ばかり飲んでいると、濁り酒の味が分からない。世の中など矛盾だらけだ、片方のみだと男は度量がなくなる。合わせて飲むことにより、人間としての深みが増すし人生のおもしろさも分かる。あえて濁ったところに身を置く必要も無いと思うが、来るもの拒まず目の前に置かれた濁酒も躊躇することなく飲み干し、飲んだ後その状況などを考えろ。リスクを避け無難に生きるのも悪くないでも「冒険のない人生はつまらないよ、人としての成長もないし挫折感も達成感も希薄になる」との仰せだった!

職人になることを前提に育てられた私は自慢じゃないが、小、中学生時代ほとんど勉強はしなかった。サラリーマン家庭と違って父親の価値観がかなり違う。会社に勤めるわけではないので学歴もあまり必要ない。親も成績にはほとんど無関心だった。頭が良くて成績優秀、そして一流会社に勤めることも悪くない。でも我が家の価値観は成績よりも腕にこだわる風土だ「腕の良い職人が理想形」それには創造力と技術力を身につけることが優先する。職人は腕がよければ飯は食える!そこで父親が将来の仕事の師匠、絵の描き方から発想力など色々なことを伝授された。学校の先生の言うことなど聞かなくてよろしい。彼らの言うことなど聞いているとどんどん普通になっていくと。

その後家業の衰退により、大学は経済学部に進んだが、何の経験もなくデザイナーになり陶芸家になってある程度やってこられたのは、父親の家庭での教育が大きいと思っている。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

ボンボン

夏の暑い盛りボンボンというアイスキャンディーを子供の頃よく食べた。ゴム製のヒョウタン型の袋に、凍った色つきの甘い汁が詰まっている。先の細い部分を歯で噛み切り、溶けてくる甘い冷たい汁をチュウチュウ吸いだす。そして量が少なくなると最後は小さくなった氷をガリガリ噛み砕いた。ただ親からはボンボンは不衛生で赤痢になることもあるので食べるな!と注意は受けていた。ただ電気冷蔵庫などが家庭にない時代、私は親の忠告も聞かずボンボンやアイスキャンディーなどを買い涼んでいた。夏休みになると早朝ラジオ体操のあと、子供達がホウキで町内の道を掃除することになっていた。(当時、これも夏休みの日課の一つ)するとこのボンボンのゴムがあちこちに落ちていて集めて回った。

「帽子をかぶって行きなさーい」母親の声が背後から聞こえる夏休みの午後、炎天下に外に出て虫取りに行く。いつもは玉網に虫かごを持っていくが、時々は駄菓子屋でトリモチを買う。(ネバネバした粘液で水飴の様に割り箸でとる、一回分5円)しかしこのトリモチの扱いが大変だ!トリモチは何にでもくっ付く。ただ水には付かないので、これを唾をつけながら良くしなる矢竹に塗り付けると準備完了!これを振り回しいろいろな虫をくっ付けてとる。これが非常に面白い!蝉などもくっいたままミンミン啼いて暴れる。しかし夢中になって竹を振っていると、じぶんの髪の毛や友達の髪の毛にもくっ付いてしまう。

さあ大変だ!一度付いたトリモチは絶対に外れない。無理に取ろうとすると髪が抜けて痛い。仕方がないのでトリモチの竹が付いたままの頭で自宅に帰り、親に髪の毛を切って外してもらった。「ああ、せっかくの可愛く仕上がった坊ちゃん刈りがこれでは台無しだ!」私は今まで一度も丸刈りにしたことがない。坊主頭が大嫌い!当時は多くの中学が男子は坊主頭が強制されていた。唯一市川中学が二年前に整髪が解禁になったので、中学は市川を選んだ。もうトリモチは絶対に買わない!と思うのだがしばらくするとまた繰り返えした。ただトリモチは空気に触れていると徐々に粘着性がなくなる。その日に買ったトリモチは翌日にはもう使えない。

今日は工房の別の盆栽を掲載する。この盆栽鉢も自作です。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

むかし我が家では野菜の天ぷらのことを精進揚げと呼んでいた!(僧侶が仏道を極めることに精進するために食べる揚げ物で、精進料理の一部であるという)でも私はこの母親が作る精進揚げが子供の頃は大嫌いであった。衣が多くベッチャリとしていて、まるでうどん粉で揚げたをお好み焼を食べているようなモチモチ食感は、とてもいただけなかった。しかし今の野菜の天ぷらは実に旨い!衣が少なくカリッと揚っている。聞けば昔とは粉が違うからだと女房は言うが、同じ素材なのに粉だけで、何故こんなに違いができるのか不思議で、粉の量やかき回す方法、タマゴの投入などにも問題があったのだと思っている。私は野菜の天ぷらの中では特にハスが好みだ、シャキシャキ感のある歯ごたえはたまらない。それに今はハスのチップスもよい。ポテトよりずっとヘルシーな感じがする。

「やばい!また白バイのお巡りさんの視線を感じた」信号待ちで停止していた私の車に白バイが近づいて来て、横から顔を覗き込む。「子供が車なんか運転しやがって!」という顔をして、「こんなガキが免許書持ってるはずがない。無免許運転の子供一人ゲット!」とほくそ笑み。「免許証見せて」とぶっきらぼうに言う。ポケットを探り提示すると、顔としばし見比べる。すると納得したのか免許書をつき返し無言のまま立ち去った。「いつもこれか」とこの頃の警察官は非常に高圧的で、へた逆らうと男の子などはドヤされ殴られることもあった。「ほら、お巡りさんが来るよ」と悪いことをすると、よく親にもよく脅された。それほどお巡りさんは庶民にとっては怖い存在だった。

当時は中学を卒業して働きに出る子も多く、軽自動車の免許は16歳で収得できた。自宅にあった軽四のスバルに乗り、学校から帰ると家業の納品の手伝いを時々する。オクテだった私は体が小さくて中学生にしか見られない!そのころ市川から日本橋へは、まだ蔵前通りはなく、旧千葉街道を通って行くが、小岩を過ぎると小松川へ至る道の両側にはまだ蓮田が所々残っていて、夏にはピンクの美しいハスの花々を楽しむこともできた。ハスの大きな花は開くとき一気に咲くので「パン!」と音をたてると聞いたことがあったが、どうもこれは本当の話ではなさそうだ?江戸川区から市川市にかけての湾岸地域はむかし蓮田ばかりで、泥深い湿地は稲作には向かなかったらしい。しかし今はこの沿線には全くその面影は残っていない。ハス田を見ると当時の情景が頭に浮かぶ!

たまに作るハスの天ぷらはこの絵皿のプレートなどいかかでしょう。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

蒲焼き

いよいよウナギのシーズン到来である。皆さんはガマの穂というのをご存知だろうか?葦のように水辺に生える葉の細く長い草で、その茎は先端に細長い10センチ位の円筒の茶色い穂をつける、生け花でもよく使うあれである!蒲焼は最初このガマの穂のようのに、ウナギをブツ切りにして縦に串を刺して焼いていた。形がガマの穂とそっくりなのでガマヤキと呼んでいたらしい。後に変化してカバヤキと呼ばれるようになったという。ウナギは縄文時代から日本人に食べられていて、五千年以上の歴史があるそうだ。今の蒲焼のようにウナギを開いて串に刺し、タレをつけて焼くようになったのは、江戸時代の後期、18世紀ごろからだと文献には書いてある。

そして東京では明治以降ウナギを裂いて串に刺し、白焼きにしてから蒸し器で蒸して、タレを付けて再度焼くようになった。ところが関西ではウナギの蒲焼は、江戸時代の作り方を継承し、蒸さないで直接タレを付けて焼くので、関東の蒲焼より少し固めである。私は関西でもウナギはずいぶん食べたが、どちらが旨いかは好き好きであるが、硬めで香ばしい関西の焼き方のほうがどちらかと言うと好みである。以前テレビで、このウナギの料理法の違いの境目は東海道のどこなのか?調べ歩くという番組があったが、名古屋の手前の焼き蛤で有名な桑名あたりで東西に別れるといっていた。するとあの最高に美味い名古屋のヒツマブシも当然、関西風の焼き方であるのか?

「もうーこのおばさん、いい加減にしてくれよ。客の前でさっきから一人でしゃべりっ放し、これじゃあ折角のウナギが台無しだ」以前神戸の三宮センター街の裏手にあるウナギ屋には、業者の人によく連れて行ってもらったが、ここはウナギの「樋まぶし」が有名であった!でも店主のオカミさんが真におしゃべり、こちらがウナギをじっくり味わっているのにサービスのつもりなのか?のべつしゃべりまくる・・・!お重の中はご飯と短冊に切られたウナギがニ段重ねで、ご飯には山椒の実がそのまま粒で混ざる。ゆっくりと嚙みしめるとプチュと山椒がつぶれ、ほど良い刺激が口に広がった。三分の一程残し、後は茶碗に取りダシをかけお茶付けに!

特にヒツマブシは関西の蒲焼に限る。関東の焼き方ではウナギが柔らかく、むかないのではと思った!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

アイスキャンディー

「チリチリーン、チリチリーン!」手持ちのベルを鳴らし、小さなキャンデーと書いた旗をなびかせアイスキャンディー屋が夏になるとやって来る。大きな麦わら帽子をかぶり、白いダボシャツにサンダル履きのオジサンの自転車の荷台には、ブルーの保冷庫の木箱が乗せられていた。箱の中にはピンクやブルーに色付けされたの甘い水を凍らせただけの、一本十円のアイスキャンディー入っている。このキャンディーの棒は割り箸を割っただけで、斜めについていることが多く、注意して食べないとまだ途中でポトット抜け落ちることがある。「食べると赤痢になるよ」と親からは忠告されていが、その日は特にカンカン照りで喉が異常に渇いていた。「まあいいか!」アイスキャンディーを買い、舐めながら木陰で涼んでいたのだ。

「あれー、遠くの方から尺八の音色が聞こえる・・・虚無僧かあ!」見るとこの暑いのに白装束に茶色い羽織の重ね、頭からはスッポリと顔が見えない編み笠を被っていた。「この炎天下、良く我慢できるなあ」俺は半ズボンにランニングシャツ一枚、それでも厚いのでこうしてアイスまで舐めれいる・・・。その虚無僧は家々の玄関先で尺八を吹き托鉢をすれど、だれもわざわざ玄関を開け小銭など提供する人などいないと見えて、徐々にこちら方にやって来た。すると虚無僧のおじさんも暑く疲れたのか私の涼む木陰に来て、正面の石段の上にゆっくりと腰をおろしたのだ。尺八をゆっくりと脇に置き、履いていた草鞋のヒモを結びなおしていた。

私はなにも話しかけず、ただぼんやりと編み笠のおじさんのしぐさを眺めていた。ところが「その時だ!」おじさんが手ぬぐいを取り出し顔の汗をぬぐうため、編み笠を一瞬上方に引き上げた。「ガーン、なにー」。なんとおじさんの顔には鼻が無い。鼻の部分には直接丸い穴があいているだけのすごく怖い顔!びっくり飛び上がらんばかりで急いで自宅に戻った。「あの虚無僧が家に来たらどうしよう」あいにく家には誰もいなかった。その後しばらく押入れに身を潜めていた。母親が帰ったのでそのことを告げると、「ライ病などで鼻を失い、仕事にも就けず虚無僧に身を転じて、托鉢しながら全国を行脚する人もいるのよ」と告げれれたが、社会保障制度なども充実して無い時代、障害者などが生きていくのも大変だった。

今日は工房の盆栽を掲載する。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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