カツ丼

「伸ちゃん、伸ちゃん!ほら見てごらん。永井荷風が歩いてるよ!」突然、一緒に歩いていた母親の声に促された。前方を見ると背の高い男が大またで闊歩して、通りを横切って行く。[永井荷風ってだれだ?」まだ幼児だった私は戸惑ったが、その時の荷風の風体が妙に脳裏に焼きついている。(黒い帽子に丸メガネ、インバネスケープを羽織り、下駄履き、足元からは股引きがチラリと覗いていた)それから学校に通う道で何回か見かけたが、暫くすると彼は自宅の近くから駅近の別の場所に引っ越したと聞いた。今この八幡小学校の前の通りは、荷風通りと名づけられている。

そして小学3年生の頃だったか?学校の校庭に突然たくさんの報道陣の姿が「何があったのだ?」いぶかしげに眺めていると、永井荷風が亡くなったと聞かされた。「なんだ、荷風はあれから八幡小学校の隣に越したのか?」別に興味もなかった。(やんちゃだった私はその後、文学などを読み漁る内向的で本好きの青年になるなどとは、当時は夢にも思わない)この荷風が亡くなった家のすぐ近くの京成八幡駅前に、大黒屋という一軒の割烹料理屋がある。ここに荷風は毎日のようにやってきては、いつも同じ席に座りカツ丼を食べていたと言う。私も何度かこの店に入ってカツ丼を食べてみたが、特に変わった仕立てではなかったようである。

別に荷風にあやかろうとしてる訳ではないが、実は私もカツ丼が大好きだ。蕎麦屋に入ってもザル蕎麦でなく、ついカツ丼を注文したくなる。せっかくカロリー摂取を考え蕎麦屋に入るのに、カツ丼では逆の結果に終わってしまう。じっと我慢するが他の人がカツ丼を食べていると、どうしても視線がそちらに向かってしまう。「だったら、荷風のように毎日カツ丼喰ったら良いじゃん。そんなに長生きしたいのか?」と心の中から私を誘う声がきこえる。「うーん、どうだろう」でもこのあいだ晩年の荷風を見たと思ったら、あっという間に白髪頭に「人生なんてやはり一瞬の幻影だなあ」荷風が通ったこの大黒屋も、つい最近店を閉めた。昭和もどんどんと遠ざかる・・・。

カツ丼は人気メニューのわりには専門店がない。味噌カツドン、ソースカツド丼とイロイロなカツ丼をセレクトできればカツドンを食べる頻度はますのだが。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

マヨネーズ

マヨラーという言葉を最近よく耳にする様になった。この言葉はご存知のように、何の料理にもマヨネーズをかけて食べる人のことを言うらしい。コンビニの軽食にはサンドイッチを初め、海苔巻きやオニギリにまでマヨネーズが入っていて、よく見て買わないとどれも同じ味になる。昔の感覚では「オニギリにマヨネーズはないでしょう」と思うがこれが結構売れてるようで、マヨニーズの入ってないオニギリの方が種類が少なかった。日本人はいつ頃から、マヨネーズをこのように愛するようになったのか?少なくても我々が子供の頃は、ケッチャップはあったがマヨネーズは余り見かけなかった。私の記憶では60年代の東京オリンピック前後にご飯と味噌汁の朝食からパン食に移行し、ハムやソーセージと生野菜のサラダを合わせるようになってからだと思う。

「冨岡君もうすぐお昼だから、一緒に飯食っていきなよ!」大学を卒業して、一時勤めていた原油輸送会社のタンカーの船長が、積荷の重量検査で船に乗り込んだ私に声をかけてくれた。「ありがとうございます!」と礼を言い小さなタンカーの狭い船室に移動して、何人かの船員と車座に座り世間話などをしながら、小さな厨房で機関長の男性が手早く作る昼食を待っていた。すると出てきましたよ凄い野生的な男の料理が!皿にトマトと粗く切った生野菜、そしてその横には茹で上げただけのスパゲッティーの大盛りがのる。ミートソースの代わりなのか「たっぷりのマヨネーズをかけて食え」という。そして船長が私の皿にわざわざ大量のマヨネーズをかけてくれた。フリーランチなのでありがたく頂いたが、味はご想像におまかせする。でもこれぞ半世紀前の究極のマヨラー料理だった!

マヨネーズはフランスの肉料理用のソースの一種が基だというが、日本では大正14年にキューピーが発売したキューピーマヨネーズが元祖だそうだ。当時は原料のタマゴが高く、はじめは高価で生産量も微量であったらしい。しかし戦後暫くすると徐々にタマゴが安くなり、価格が下がり消費が増えていく。すると需要増を見込んで、1968年に味の素が全卵タイプのマヨネーズで新規参入する。これで競争がいっきに激化し、お互いより旨いもを作るためしのぎを削った。それに容器のチューブも、どんどん便利で使いやすいものに変わっている。でもこのマヨネーズ欧米ではほとんど料理に使っているのを見たことがない。

マヨネーズは日本で独自に進化し、味や用途も別物になった。今後日本の味として世界中に広まる日がくるかも?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

山椒

工房のお隣さんの庭に何年か前まで山椒の木が一本植わっていたが、ある時突然枯れた。原因は分からないが、山椒の木はなぜか突然枯れることが多いらしい。しかしその木から山椒の実が庭に落ち、小さな実生の木として工房のあちこちで新たに芽を吹いている。山椒はミカンと同じ柑橘類なので、植えてから実を結ぶまで年数がかかる。青虫に食べられることも多く、ほとんどが実をつける前に枯れる。ところでスパイスとしての山椒と、日本人との関わりは非常に古く縄文時代の貝塚からも、山椒の実が貝殻と一緒に出土するという。古来より縄文人も土器に貝や魚などを入れ煮炊きし、薬味に山椒を使用していたのであろううか?

「山椒は小粒でぴりりと辛い」とは体が小さくても才能や力量にあふれ、侮れないと言う意味である。この諺どおり山椒の実は少量でも脂肪分の多い料理に入れると、そのスパイスとしての本来の役割と共に、薬効として新陳代謝を高める働きがある。病気に対する免疫力アップや胃もたれ、冷え性の改善などいろいろな効果が期待できるという。私も山椒の粉を焼き鳥や牛肉料理にも振りかけて使うが、唐辛子より辛味も上品で香りも良く料理の質を高める。「それは驚き、桃の木、山椒の木だねー!」などと驚いたときに昔はよく使ったが、最近ではこの言葉も余り聞かなくなった。この言葉は地口といい語呂あわせで特に深い意味は無いと言う!「それは驚き、桃の木、山椒の木。ブリキ、タヌキにガンモドキ」などと、かってにあとに続けることができるという・・・。

「それは驚き、桃の木、山椒の木。ヒノキにスギノキ、花粉の木」だよな私なら。毎年春になると多くの人が花粉に悩まされる。戦前に杉の木がたくさん植えられた日本の山々は、そのご杉は木材として利用されずにほったらかしになった。(お山の杉の子の歌を歌って、戦前に皆で一生懸命お国のためにと植えた杉の子は、70年経過して大きくなったら全くの疫病神)当時の人々が後世のためにと、汗水たらし頑張った自分達の行為が、その子孫には迷惑千万である。もし彼らが聞いたら「これは驚き、桃の木、山椒の木だね」いま日本の林業は衰退し崩壊寸前になっている。熱帯雨林の伐採をともなう洋材の輸入などをやめて、日本の杉材を伐採しパルプとしての使用を高めれば、花粉症に悩む人も減ると思う。

少し変わった写真の植木鉢を作り、実生の山椒の苗を移植してみた。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

缶詰

私の少年時代はもっと頻繁に缶詰を食べていたような気がする。冷凍設備の普及してない当時、缶詰は食料の保存には最適であった。魚、野菜、肉、果物など様々な物を缶詰に加工していた。しかし特に変わったものでは漫画「ポパイ」のホウレン草の缶詰だと思う。「ポパイ!助けてー!」。「あー、大変オリーブの声だ!またブルートに捕まり、キスされそう」と助けに向かうポパイだが、最初はブルートにフルボッコされる。視聴者の子供達は「何やってんだポパイ、早くホウレン草の缶詰を喰えよ」と思った瞬間「チャ、チャ、ラチャ、チャアーン!」ポパイが何処に隠し持っていたのか分からぬが、ホウレン草の缶詰を食べる。すると急に強くなりブルートを叩きのめす。いつもストーリーは同じだが、このポパイのアニメはよく見ていた。

「俺も、ホウレン草の缶詰食って強くなりたい!」こんなこと漠然と考えていた男子は、私だけではないと思う。しかしそのころ新しくオープンしたスーパーの缶詰売り場を探しても、ホウレン草の缶詰など全く見当たらなかった。でもアメリカには実際にホウレン草の缶詰が存在したのだろうか?私もそうだったがだいたいの子どもはホウレン草が大嫌いだ。するとこのポパイ漫画はホウレン草が嫌いで食べない子供たちに、ホウレン草を食べさせるためのキャンペーン漫画として製作されたのではないか?と冗談で調べてみたら、どうも本当にアメリカベジタリアン協会という組織が菜食主義を広めるために、この漫画をつくったという記事を見つけた。

日本では最近になって「缶詰バー」が新しくオープンしているという。安価なので仕事帰りにちょっと立ち寄るには便利だ。全国からツマミになりそうな様々な缶詰を集めていて、たこ焼き、だし巻き卵などかなりレアな缶詰もあるらしい。腐らない酒と缶詰で商売出来ればこんな簡単なことは無い。注文があって客を待たせることも、食材が不良在庫になる心配も無く、食器を洗う手間も無い、良い事のナイナイ尽くしだ。そういえばむかし酒屋の店頭での立ち飲みで、腹のすいたヨッパライが缶詰を開けてツマミに食べていた。缶詰バーの原点はあれだなきっと!でも缶詰だといって馬鹿にすること無かれだ。鮭の骨缶など、普通の状態では食べられない旨い缶詰もある。

鮭の骨缶にはこの片口の器に盛るのはどうだろうか?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

サボテン

「あれ何だー、そのその変なカッコウは?」銀行に勤め始めたばかりの次女の姉が、私が中学生のある夏の夕方。妙な真っ黒い風船人形を上腕に付け自慢げに帰宅した。その姿がユニークだったので笑っていると、「あんたバカね知らないの?今これ流行り始めているのよ」姉は肩からはずしそれを私の肩にからませた。よく見ると真っ黒い人形は口から空気を入れ膨らませると、腕につかまるようにできている。そしてその大きな丸い目は見る角度でウインクした。「これダッコちゃんっていうのよ」と姉がいった。でもそれから1,2週間するとテレビのニュースでも紹介され始めて、あっという間に大流行となる。若い女性はこのダッコちゃんとよばれた風船人形を肩につけ夏の街中を闊歩した。

こうなるともう生産が追いつかない。何処のおもちゃ屋も品切れで、パンデミック(感染爆発)状態、若い女性から子どもまでダッコちゃんを捜して奔走した。われわれが子どものころは、このパンデミック現象が時々起きた。なにか新しいものに人々が飢えていた時代で、フラフープ(やり過ぎると腸ねん転になる)から始まり、ホッピング(胃下垂になる)、切手集め(小遣いの使いすぎ)いろいろな批判をかわし、次々と大流行現象が世の中を席巻した。そのたびに教育者や一部医療関係者から、分けのわからない批判が出てじきに下火になっていった。そして私が興味を持っていちじ夢中になったのが、中学時代に流行ったサボテン集めだ!

「おじさん、このサボテンいくら?」見ると普通のサボテンに丸い小さい真っ赤なサボテンが接木されている。たしか緋ボタンとか呼んでいたが「一目惚れ」すっかり気に入り買う気になったが値段を聞いたがビックリ千円もする。「千円か?とてもむりだ」あきらめて家に帰り、集めた10種類位の小さなサボテンを眺めて緋ボタンを忍んでいたが、このオヤジ臭い趣味も半年経つと熱が冷めて、縁側の軒先に置かれたままになった。そのご母親が世話をしたようだが、数年経つと一部を残し消えた。のちにイタリアの市場で真っ赤なサボテンが果物として売られていたのを見たとき時、子どもの頃欲しかった赤いサボテンを思い出した。でもこの赤いサボテンは結局食べずじまえで帰国したが、赤い実には棘があり、最近見かけるサボテンのドラゴンフルーツではなかったと思う。

最近作った写真の鉢に去年、多肉植物を植えてみた。花が咲いたので掲載する!(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎。冨岡伸一)

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