葛湯

いよいよ今年もあと二日で終わる。でも大多数の人はコロナという、流行り病に振り回された1年であったと思う。しかしこのような年も歴史を振り返れば周期的にやってくる。前回パンデミックのスペイン風邪はただの偶然なのか?ちょうど百年前の1918から1920年にかけて流行し、当時世界人口の半数弱が感染して5千万人もの方々が亡くなったと言う。ちょうどその時、第一次世界大戦と重なったが大戦の戦死者は1千万人で、それより約5倍もの人々の命を奪ったというので、真に恐ろしいかぎりである。わが国でも内地だけで45万人位の犠牲者を出したので、当然大正時代を生きた私の両親もこのスペイン風邪に罹った。父親は高熱で1週間ほど寝込み、母親は脳炎を発症し3日間意識が無く生死をさまよったという。

「何で、来るんだよう。休めばよいのに!」小学校の授業開始のベルが鳴り終わると同時に、慌てて教室に滑り込んだ私に、周囲からブーイングが起こった。状況が分からずにいると、「お前が休めば15人欠席で、学級閉鎖になったのによう」とヒロシ君が呟いた。我々が子供の頃もとうぜんインフルエンザは冬になると流行する。でも当時はインフルエンザとは呼ばずに、流行性感冒あるいは流感などと呼んでいた。でも今のようにワクチンや抗生物質があるわけでない。通常の風邪ならば医者にも行かず売薬『改源」を飲んで氷枕で頭を冷やし、布団を被って寝て直した。この時に母親が枕元に持ってきてくれたのが、カップに入った暖かいトロトロの甘い葛湯(クズユ)である。片栗粉と砂糖を熱湯でといた単純な飲み物であったが、これを飲むと何か元気がでるきがした。

「私は脳膜炎を患ったから、頭が悪いの!」とは母親が何かあると口癖のように、この言葉を自己弁護に使っていたので、その病の重篤さが感じられた。しかしスペイン風邪はコロナウィルスと違い、子供達も多く感染して重篤化したのでより深刻であったと思う。我が家では毎年正月には浅草観音の初詣と、墓参りは欠かしたことが無い。しかし今回は親の代から継続してきたこの行事を、保留することも考えている。スペイン風邪も足掛け3年続いたので、コロナも完全収束には3年を要するかもしれないと思う。

私もこのブログ掲載を続けて4年目に入った。なんのテーマも設定せずに始めたブログであるが、最近やっと自分が何を発信したいのかが明確になりつつある。それは両手のひらに入る小さな抹茶碗の中に炎が作り出した宇宙を見たい!という欲求と、過去に自分が通過してきた日常の記述とを重ねるという計らいである。

ご購読の皆様、1年間お付き合いいただき真にありがとう御座います。同時代を生きた方々と歴史を共有したいという思いで、綴っていますので御感想などありましたらお寄せください。では良いお年をお迎えください!

(写真は抹茶碗の中に覗く宇宙。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

柿の種

「柿の種」と呼ばれるオカキがあるが、日本人なら知らない人はまずいない。私が子供の頃、当時はまだ乾燥剤もなかったので柿の種は湿気から守るために、蓋がしっかりと閉まるブリキ缶の中で保存されていた。この小さなオカキは、新潟にある浪速屋という米菓製造所で大正時代に作られたのが最初で、すでに百年の歴史があるらしい。しかしこの柿の種の形はある日偶然生まれたという。工場の作業員が丸い小さな抜き型を落とし、そのへこんだ金型で原料のシートを抜くと、形が柿の種そっくりだったという。なのでこのオカキを柿の種と名付けて販売したところ評判をよんで、その後も作り続けることになった。柿の種は私もよく食べるが以前より、唐辛子の量が少なく中の色も赤くない。かつては20粒も口に投げ込むと、「ヒー・ヒー」と辛くビールを飲んで一息ついていた。

柿の種といえばいろいろな童話を教訓にする私にとっては「サル・カニ合戦」が思い浮かぶ。ある日カニはオムスビ1個とサルが実を食べた後、捨てるつもりの柿の種とを交換する。そしてカニはその種を土に埋め水やりなどの世話をすると、十年後に柿木は大きく成長し沢山の実を結ぶ・・・。そのあとの物語の流れは皆さんよくご存知なので省略するが、要はいま食べている柿の実よりも種の方が、長い人生では大切であるということだ。しかしその種も土に埋めて育てなければ木に成長し、たくさんの実を付けることも無い。いま大多数の日本人を見ていると、皆さんセッセと貯蓄に励み金融資産を蓄えている。その金額は1800兆円もあるというので驚きだ。しかしこの大半が預貯金や債権では殆んど種の状態のままなので、大きく成長し実を結ぶこともない。

「残念なことに」というべきであるが、今我々が生活しているこの日本は資本主義社会である。しかし実際には、このことを正しく認識している日本人は意外と少ない。資本主義とは資本家や金持ちに有利な世の中である。豊かになりたいと思うなら、自らが会社を設立しオーナーになって金を稼ぐか!有望な会社に資金を投資し、その恩恵にあずかるかの二択しかない。ところが多くの日本人は、このことを意識せずなんとなく会社に勤め貯蓄に励む。一方アメリカでは創業ブームでアマゾンやアップルなどの巨大企業が誕生し、経済が活気付いている。人々は稼いだ金をどんどんと企業に投資し、その配当金や値上がり益などを手にする。お金は直ぐに食べられる「実」の要素と「種」の要素を持っている。日本人はお金は実だと思い貯金で蓄える。アメリカ人は種として投資に回し大きく育てる。

ベンチャーを嫌うようになった若者の多い、今の日本の風土で新たな創業なども少ない。すると庶民が豊かになる道はアメリカの成長企業に投資するしかないとしたら、日本の将来は暗い。

(写真は柿の葉を転写した皿。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

ホウレン草の胡麻和え

私には寒くなると、自宅でくつろぐ時に着る一枚の貴重なセーターがある。もう40年くらい前になるか?当時私がニットのデザインをしていた時に「冨岡さん、上質なカシミヤの毛糸があるから、希望ならセーターを編んであげるよ」と企画の打ち合わせに来ていたメーカーの担当者に声をかけられた。二つ返事でお願いすると、一ヵ月後にそのセーターが編みあがった。ベージュのセーターの色が少々気に入らなかったが、初めて体験する肌触りと感触の良さには正直驚いた。役得でオーダーのカシミヤのセーターが、たった1万5千円で私の愛用品となったのだ。それからはカシミヤのセーターが気に入り、何枚かデパートでも買い求めたが、着ごこちはこのセーターにまさるものはなっかった。何十年着ようがシットリして毛玉一つ出来ない。

「伸ちゃん、ちょっと手を貸してよ」と母親の呼ぶ声がした。戦後世の中が落ち着いてくると、毛糸でマフラーやセーターを手編みする女性が増えてくる。当時は街中に毛糸の専門店などもあり、ここで好きな毛糸の束を購入する。でも束のままだと糸が絡むので、丸い毛糸のボールに巻き直すが、この時に人手が必要となる。両腕に毛糸の束をかけ、糸を巻きとる母親の速度に合わせてユックリと腕を回していく。「早くしてよ。遊ぶ時間がなくなる」この作業には結構時間がかかったおぼえがある。その頃は寸暇を惜しんで、電車の中でも編み物をする女性を見かけたが、近年では全くその姿がない。今ではセーターなどの製品よりも、毛糸の方が値段が高い位で手編みするメリットも趣味以外では少ないようだ。

もともと羊のいなかった日本に編み物が持ち込まれたのは、明治二年にアメリカから北海道にメリノ種の羊8頭が輸入されてからだというので、わりと最近の事である。大正時代に女性の社会進出が盛んになると、動き易いニットのセーターなどが流行し始めて、手編みする人が増えていく。とくに戦後1950年代にブラザー工業がニットの編み機を発売すると、手編みの流行はピークに達したという。「我が家にもありましたよ、一度使われたきりの高価な編み機が押し入れの奥に!結局20年前に処分しましたが・・・」最近ではどんどん失われていく、縫い物や編み物など女性の手仕事。その波はヒタヒタと手料理にもせまっている。オフクロの味がスーパーの惣菜に変わると、食の均一化もより進み食べ物で母親を思い出すこともなくなる。

私のオフクロの味ナンバーワンは「ホウレン草の胡麻和え!」野菜嫌いだった私もこれは喜んで食べた。スリ鉢でゴマスリを手伝った思いでも残る。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

私の子供の頃、自宅の近くにまだ油屋という、油を専門に商う店があった。油などの専業で商売になるのか?今では不思議に思うが、むかし油は高級品でそこそこ儲かる商売だったという。ところがその油屋は石油ストーブが徐々に普及し始めると石油を販売するようになり、その後自動車の普及と共にある日突然ガソリンスタンドに衣替えをした。しかし暫くするとガソリンスタンドの建設ラッシュが訪れる・・・。そして主要道路のあちこちにガソリンスタンドが林立するようになると、比較的規模の小さなそのスタンドは店を閉め、新しく出来た幹線道路沿いに引っ越していった。近年過当競争で薄利になったガソリンスタンドは、今では斜陽産業であり廃業する店も多い。そして電気自動車が普及するとガソリンの需要はなくなる。

「うちの亭主、いったい何処で油を売ってるんだ!」この言葉は江戸時代の庶民言葉で当時は油を売り歩く、油屋という職業が存在していた。当時の油は粘着性があり、容器に満たすのに時間がかかったらしい。そこで待つ間に世間話などをして時間をつぶした・・・。油は貴重で食用のほか整髪や灯明に使うなど、いろいろ用途があったという。今では機械油などの殆んどが、クレ550などのスプレー缶が主流となり非常に便利になった。以前は細く長い口の付いたジョウロ型のブリキ容器にいれ、底の部分をペコペコ押して油を注いでいた。小学生の頃はこの容器を使い自転車に油をさしたのを思い出す。でもこの容器は今では殆んど見かけることもない。

ところで頭髪につける油といえば、あの相撲取りのつける鬢付け油の独特の臭いが気になる人は多いと思う。両国国技館前の総武線に大相撲開催中に乗ると、その匂いで相撲取りの乗車が、席に座り寝ていても分かるくらいだ。この油はハゼの木きから抽出した木蝋を主成分とするそうだが、香りは人工的に作り出すという。しかしその香りの作り方は、ある会社の企業秘密で公開されてない。いま現在では鬢付け油は東京都江戸川区の島田商店という所のみで製造されており、独占状態なので年々価格も上がっているらしい・・・。子供の頃は近所のおばさんの中には、まだ椿油を付け簡単な日本髪を結う人もいた。我が家では密かにそのおばさんを「カマシキ・ハイカラ」とあだ名した。

まだお釜でご飯を炊いていた頃、ドーナッツ型に藁で作られた釜敷という熱いお釜の下に敷く座布団があった。彼女の髪型が釜敷そっくりなので、その名がついた。

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

黍団子

日本人なら知らない人がいない童話、桃太郎の主人公が鬼退治に出かけるとき、腰に下げてたとされる黍粉を使った純粋な黍団子(キビダンゴ)。これを食べた記憶が今だにない。岡山県の吉備地方で作られる吉備団子は有名であるが、これはモチ米などで作られており、桃太郎の黍団子とは別物であるという。浅草観音の仲見世通りには日本一の御旗を立て、キビ団子を売る店があるが、食べてみると原料は黄な粉主体で黍が使われているとも思えなかった。子供のころから桃太郎にあこがれ、本物の黍団子を食べてみたいと常々思っていたが、この歳になってもまだ実現できずにいる。粟(アワ)と黍はよく比較されるが、あの黄色い粒の粟餅なら何処かの土産でいただいたこともある。

「今の日本人の若者は本当に慎重だよねえ!」と思うことが多い。私は童話の桃太郎が子供もころから好きであった。それは大人になってからも継続し、今だに桃太郎の教訓として心に留めている。桃太郎の偉大さは鬼退治という、自分ひとりでは実現不可能と思える行為を、キビ団子3個を持って無謀にも実際に出かけることにある。するとその野心に共鳴する、イヌ、キジ、サルなどの仲間が徐々に集まって次第に大きなウネリとなる。現代の頭の良い若者達はここの計算が出来ない。出発時の乏しい「持ち駒」だけを見て、夢の実現をあきらめてしまう。「金も人も現地調達、とりあえず出発する」自分の見てる夢が良ければ、協力してくれる人は必ずいるもんだ!という真の深読みがない・・・。一方アメリカでは若い人がアメリカンドリームを信じて行動し、たくさんのベンチャービジネスが生まれていて活気づいている。

私はデザインの自営業を45年間営んできた関係で、多くの中小企業の経営者との接触があった。その中でも何十年も会社が継続し繁盛した経営者はわずかであり、殆んどが途中で消えていった。成功した経営者の共通した資質をみると、大体が皆セッカチで思考と行動のテンポが良い。打ち合わせなどで新しいアイデアを思いつくと直ぐに行動に移す。行動してだめならまたその見切りも早い。「要はやってみなければ分からないという消去法なのだ!」人の浅はかな事前の憶測などに執着しない。行動の中から新しい展開が生まれることを体感している。一方いろいろアドバイスをしても行動せずに事前にその困難さだけを指摘し、いっけん先読みの出来る小利口な二世の経営者も多くいた。するとこちらもあきらめてアドバイスもなくなる。

今の子供達は物心がつくといきなりコンピューターゲームから始まり、桃太郎などレトロな童話に興味を示さない。若い人がテクのみに興味を抱き、野心が消えた時その国の活力は薄れる。(写真は孫のサツキ小学1年生の作品、なんとなく桃太郎!勝田陶人舎・冨岡伸一)

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