「ああ、そうだ!」前回は懐中汁粉のことを書いたが、日本人にはもっと究極の保存食があったのを急に思い出した・・・。かすかな記憶は私がまだ幼児だった頃にさかのぼる。ある朝母親が食後の片づけで台所に立ち、飯炊きに使ったお釜を水で洗っていた時ことだ。釜にこびりついた米粒をタワシで一生懸命かき落としていた。するとその米の混ざった水を直接シンクに流さずに、竹で編んだ小さいザルに受けてわずかな米を回収していた。下から覗く眼差しに気づいた母親は「これー?糒(ほしいい)にするのよ!」とザルの水を切る手を止めずに呟いたのだ。そういえば時々縁側にザルに入った僅かな米が天日に干してある。

でもこの糒を私は食べた記憶がない。たぶん母親が子供たちには炊きたてのご飯を食べさせ、自らは密かに糒などを口にしていたと思われるい・・・。糒は(干し飯とも書く)日本に稲作が伝わった、弥生時代にはすでに存在していたらしい。炊いた米を軽く水で洗い、天日に2,3日干すと糒が出来上がる。これは保存がきき、管理がよければ20年はもつという。湯を注ぎ30分待つとご飯によみがえる。昔は武士が戦の時に、この糒を携帯し直接噛んで戦に供えたという。人は何か食わねば生きてはいけない。特に生死を分けた戦場での飲食はどのようにしていたのか?興味の湧くところでもある。

今から半世紀程まえ、世界は東西冷戦時代で民主主義と共産主義諸国に別れ対峙していた。この二つの勢力がぶつかりあって戦っていたのが南北ベトナムである。食料や兵器など物資の潤沢なアメリカの支援を受けた南ベトナム軍に比べると、民族解放闘争を戦うベトコンや北ベトナム軍はかなり劣勢な状態であった。特にジャングルでゲリラ戦を戦うベトコン兵士の食料確保は大変だったらしい。少しでも森から煙が立ち上ると空から爆弾が落ちてくる。そこで湯を沸かせば簡単に、あるいは直接でも食べられる日本の即席麺が密かに輸入され、彼らの野戦食となっていたという。「北ベトコンは即席ラーメン食って戦争に勝った」との新聞記事を当時読んだことがあった。

このことがその後アジア諸国に伝わり、即席麺が世界的に食べられるきっかけになったという。そして今では世界で年間1000億食も食べられている。チキンラーメン開発者の安藤百福さん、生きていればノーベル賞間違いなしですか?

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

懐中汁粉

わが家では先祖代々、新年になると浅草寺に初詣に参ることが恒例になっている。そして祈願のあと御札を頂き、仏壇の脇にそなえる。そのとき御札と一緒にお供物として授かるのが、懐中汁粉と抹茶葛湯の入った小箱である。若い人はご存知無い方もいるかもしれないので説明すると、懐中汁粉とは乾燥させた固形の汁粉の素だ。それをカップに入れ、熱湯を注ぐと解けて直ぐに汁粉になる、いわゆる昔のインスタント食品である。懐中とは懐かしい言葉だが、懐中電灯、懐中時計など用語は今でも使われている。私の両親もそうだったが戦後は日常和装の人がまだ多くいた。そこでポケットなど無い和服では、財布など大事な身の回り品は着物の前腹の懐に収めていたのだ。

むかしは庶民のスィーツといえばなんと言っても一番はお汁粉である。祝い事など何か行事があると、小豆を煮てお汁粉をつくる。まだ今のスィーツなど無い時代、甘いお汁粉は子供たちにも人気があった。するとこのお汁粉を懐に入れて何処にでも簡単に持ち運びできたら!などと考えたに違いない。そして試行錯誤のすえ作られたのが懐中汁粉なのだろう。いまNHK朝の連ドラでは(まんぷく)という即席ラーメンの開発秘話が放映されている。普段は連ドラなど殆ど見ない私だが、チキンラーメン好きなのでこのドラマは時々見ている。熱湯を注げば簡単に作れる即席ラーメン!明治時代なら懐中ラーメンと呼ばれていたかも。

昭和30年代は次々に新しい物が出てくる面白い時代だった。スーパーマーケットが31年に登場し破竹の勢いで全国に出店されると、それと共に買い物も便利になり即席ラーメンを初め、簡単に作れる様々な食べ物が登場してくる。そしてそれら食品の呼び名の総評が、懐中や即席からインスタントの英語で呼ばれるようになるとどうだろう。湯に戻せば食べられる、開封して皿に盛ればオーケー、そして電子レンジでチンなどの、簡単レトルト食品であふれる現代へと続いていく。殆んどの女性が専業主婦から会社勤めを始めると、料理の時間が限られてくる。冷凍食品など手間のかからない加工品や調理済みのおそうざいなどが人気で、たくさんスーパーに並ぶようになった。でもこれら変遷の元祖は、あの懐中汁粉ではないだろうかと私は思う?

買ってきたお惣菜をパックのまま食卓に置くのも侘しい。せめて趣味で始めた自作の陶器の皿にでも並べてみたらどうでしょう。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

ヨーグルト

先日我が家の玄関で5分前後の問答の末、妻がニコニコしながら二つのビニール袋を携え居間に戻ってきた。「こんなに貰ったから、ヨーグルト三ヶ月とる事にしたわ!」見ると中に牛乳と飲むヨーグルトが十数本入っていた。そうかやっぱりあのイケメンの若い牛乳拡販員の手に落ちたか!先日私が一人の時に、彼がサンプルで配ったヨーグルトの空き瓶を回収しに来た。「味はどうでしたか?三ヶ月でも良いですからヨーグルトとって下さい。」としきりに懇願されたが「女房に聞かないと私には分からない」と断った。しかしこの断り方が悪かったらしい・・・。再度の訪問となる。コンビニやスーパーで乳製品など何でも買えるこの時代に、まだ牛乳配達という職業が残っていること自体が私には不思議だ。

戦後も暫く経ち世の中が落ち着いてくると、牛乳販売店が街のそこかしこに開店し始める。その牛乳屋は店頭販売よりも主に宅配を収入源としていた。各家庭の門の脇には小さな牛乳箱が供えられ、毎朝その中に新鮮な牛乳が挿入される。でも牛乳配達は大変だった!まだ車やオートバイもあまり普及していない時代のこと、頑丈な黒塗りの自転車に1ケース50本程の牛乳2、3ケースを荷台にくくりつけ配る。特に門の前で重い自転車を止め、その都度スタンドを降ろす作業には力が必要だ。なので女や子供には出来なかった・・・。当時わが家では牛乳を取っていない。そこでその可愛いらしい牛乳箱を羨望の眼差しで眺めていたのだ。牛乳箱の色はメーカーにより異なり、明治は青、森永が黄色、フルヤが確か白という風にそれぞれが色分けされていた。

ところがこの目立つ牛乳箱を狙い、子供達の間で牛乳の窃盗が横行していた。早起きして家主が牛乳を取り出す前に抜き取る。私も年上のガキ大将に誘われて一度この窃盗団に加わったが、母親に見つかりこっぴどく叱られた。でも面白い話もあった。ヨーグルトがまだ出初めの時期で、その存在を知らずにいたチビッコ窃盗団の会話。「きのう小さなビンの牛乳を盗んで空けたら、中が腐って固まっていたから、おれ捨てたよ」「バカヤロー、それヨーグルトといって旨いんだぞ!」との年長の弁・・・。それから暫くすると私も実際にその凝固した牛乳(盗品ではありません)を口にした。「これかー?腐った牛乳って、うめえー!」ヨーグルトとの始めての出会いであった。

ヨーグルトが好きで、明治のブルガリアというアロエヨーグルトを常食している。こんにちヨーグルトの種類は沢山あるが、どれもドロドロで硬くない。昔のしっかり凝固したあのヨーグルトが懐かしくもある。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

鳩サブレ

「まさかあの飛んでる鳩、俺の鳩じゃないよな!」小学5年生のころだったか。三時限目の体育の時間に校庭に出て、いつものようにやる気の無い態度で体操をしながら、ぼんやりと空を見上げた。すると一羽の鳩が上空を旋回している。ハッ!として下から凝視する。「あれー、翼の部分に白い羽が混ざった俺の鳩にそっくり」やーな予感がしたので、授業が終わると自宅へ飛んで帰った。「やっぱりそうか、ガーン!」鳩のいない小屋の前に立つとヘタヘタトと全身の力が抜けた。リンゴ箱二つを八百屋から買ってきて繋ぎ合わせ、丸一日の大工仕事のすえ苦労して作った鳩小屋がモヌケノカラ!どうも今朝餌をやるときに鍵を掛けを忘れたらしい。

「飼ってから2ヵ月間は帰巣本能が付かないので、絶対に飛ばしちゃだめだぞ!」と鳩をくれたお兄さんに強く言われていた。でも今日でまだ飼ってから2週間しかたってない。これでは家出した鳩は戻ってくるはずがない。諦めきれずにそれから1週間位は、鳩小屋を覗いては不在を確認していた。でも考えて見ると学校と自宅の距離は800メートルも離れている。あの鳩はわざわざ俺に「さようなら!」を言いに来てくれたのだろうか?今でもその時の偶然は不思議に思う。それからはどうしても鳩を飼いたいという熱は冷めていったが、神社仏閣などで鳩の姿を眺めると当時を思い出すことがある。

数年前、町会のバス旅行で久しぶりに鎌倉を訪ねる機会を得た。鎌倉八幡など恒例の数箇所の観光スポットを尋ねた後、最後に鎌倉大仏に立ち寄った。ガイドの説明によると、この大仏は昔は東大寺の大仏のように大きな大仏殿の中に鎮座していたという。それが明応4年1495年この地を襲った津波で本殿が倒壊してからは露仏になった。こんな所まで津波が来るのか!恐ろしい、あらためて津波の力を思い知る。でも今ではその記憶も遠のき、皆さんゆっくりと散策などをしている・・・。するとふと道の向こうを見ると鳩サブレの豊島屋本店が目に入る。「鳩サブレか?」相変わらず店は客で混んでいたが、鎌倉の名物なので3箱土産に買って帰った。

むかしゼンマイの代わりに分銅の重さで動く、鳩時計というちょっと変わった時計があった。長針が12を指すと小屋の戸が開き鳩が扉をあけて飛び出してきて、ポッポと時を告げる。可愛いのでこれも子供の頃に欲しかった物の一つだ。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

クラッカー

日本にはセンベイという伝統的な甘くない菓子がある。子供のころ自宅の近所には橋本という名の一軒のセンベイ屋があった。そこの店の三女とは同級生であったので小遣いの10円を貰うと、オヤツにはゴマ入りの醤油センベイを食べる機会も多かった。ところが「俺がこんなに強いのも、あったり前田のクラッカー!」というテレビコマーシャルがある日突然放映された。目の前に差し出されたその袋の画面を見て「クラッカーって何だ」初めて聞くその名に戸惑う。なにか謎めいたアルファベットの新鮮な響きを持つその菓子の名に誘われて、早速母親にせがみ一緒にスーパーに出かけ買い求めた。スキップしながら自宅に持ち帰りその封を切り中の一枚を取り出すと、センベイとは全く違うその食感の「サクッ!」経験したことの無いその感触のよさには感激した。

「あったり前田のクラッカー!」その後このフレーズはクラッカーと共に流行しオヤツには時々食べるようになった。そのきっかけは昭和37年に放映開始となった「てなもんや三度傘」という藤田真や白木実が出演して人気の出た、関西系コミカル時代劇である。この番組中に流れたテレビコマーシャルが「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」という藤田真のこの名セリフ!インパクトがあり当時の流行り言葉になった。テレビ放送が全国的に広まると、今まで見ることが出来なかった大阪の吉本喜劇が東京でも放映されるようになる。テンポの良い関西弁の乗りと、ジョークは関東人にとっても新鮮で漫才と共に全国的に浸透していくきっかけとなる。

そのころ同じく「ポパイ」というアメリカアニメも良く見ていた。主人公のポパイはホウレン草の缶詰を食べると急に強くなる。「ポパイ助けてー」スレンダーなポパイの彼女オリーブが、またストーカーのブルートに捕まりキスされそうでポパイを呼び叫ぶ。しかし助けに向かったポパイも最初は体が大きく頑強なブルートに叩きのめされる。「タタララ、ラッタター!」すると音楽と共にホウレン草の缶詰が空から飛んできて、缶が自動で切られてポパイの口にはいる。するとポパイはパワー全開でブルートをフルボコに。オリーブを助けたポパイは意気揚々とオリーブをエスコートし帰宅する。ストーリーは単純でいつも同じであった。

俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー。クラッカーを食べると強くなるというこのセリフ。やはりポパイのホウレン草の缶詰の引用だったのか?

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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