戦後暫くはどこの一般家庭にも冷蔵庫がなっかった。昭和の30年代になりまず最初に普及し始めたのが、木製の冷蔵庫である。これはほとんど夏季限定で、上部に氷を入れて冷やすタイプ。そのため毎日氷を入れないと使えない。そこで氷屋から氷を買うことになる。(当時は氷屋という商売があった。)店から氷の塊を自転車の後ろに繋いだリヤカーに乗せて売りに来た。大きな氷を1貫、2貫とその場で注文に応じて切り分け販売する。おじさんが氷を切るのを見ているのが面白かった。歯の荒い大きなノコギリで「シャカ、シャカ」と軽快なリズムで切る。そして途中まで切ると次は歯を逆さまにし、圧力をかけると簡単にパカッと割れた。

そのあと氷を挟む巨大なハサミで切った氷をつかみ客の家に運ぶ。「その時がチャンス!」おじさんが瞬間その場から離れるのを見届けると、遠巻きにしていた子供達がリヤカーに駆け寄り、氷の塊に残る雪のような切りかすを手ですくい取る「冷たくて、気持ちいいー」暑い夏にもこの様に当時の子供達は一瞬の涼を取った。しかしそれから2,3年経過すると、豊かになり始めた日本の家庭に三種の神器と呼ばれた洗濯機、テレビ、電気冷蔵庫が急速に普及し始める。今のように扉がいくつもある大型冷蔵庫ではないが、それでも年中冷たい水も飲めたし、肉や魚も保存できるようになった。

当時テレビではアメリカの人気番組がいろいろ放映される。そのなかの一つに「うちのママは世界一」というホームドラマは毎週見ていた。内容はほとんど覚えてないが、ジェフという少年が学校から家に帰ると、大きな冷蔵庫の扉を開け五合ビンの牛乳を取り出しがぶ飲みする。そのシーンを羨ましく見ていたが、「牛乳のがぶ飲みかー」いつか自分もやってみたいの思いがつのる。何日かの小遣い銭を貯め自宅近くの森永牛乳販売店へ出かけた。憧れの5合ビンの牛乳を抱えて帰ると、部屋に篭って牛乳をゆっくり好きなだけ飲む幸せ!最高と感じたが、案の定そのあと腹を下し母親にしかられた。

そのころアメリカの一般家庭の少年と我々日本のガキとでは月とスッポン!彼らのライフスタイル全てに注目していた。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

爆弾オニギリ

ディズニーランドも開園して今年で35周年だという。入園料は徐々に高くなっているが、一向に人気が衰える気配は無い。アジアからも多くの外国人が訪れ、日本観光の人気スポットの一つになっている。まだディズニーランドが出来るまえ千葉県の京成電鉄の沿線には、谷津遊園というこの電鉄会社が運営する遊園地があった。そこにはジェットコースター、観覧車などの乗り物を初め、バラ園やプールなどいろいろな施設があり、ディズニーランドが出来る前までは子供達を連れよく通った。しかし京成が三井不動産と共同でディズニーランドを浦安に開発すると、開園後すぐにこの遊園地は閉鎖されることになる。

「あの彼らが食べている、爆弾のようなあれはいったい何だ!」我々家族が谷津遊園のプールサイドに陣取り弁当を広げていると、隣に座っていた外国人が突然私に話しかけてきた。プールの対岸を指差すので見ると、家族が座って海苔が巻かれた黒いボールのような丸いオニギリを食べている。「ライスボールだよ」と告げると「なぜ黒いのか?」と聞く。「シーグラス、ロールド」だとか適当にいうと理解できなかったようで、なおも不思議そうな顔をして眺めていた。当時の欧米人は日本食など興味も持たず見向きもしなかった。確かにあれは遠くからでは爆弾にしか見えない。黒い色の食べ物は世界中探してもあまり見ない。

時代も変わり現在では、欧米系の人もコンビニのオニギリを食べている光景に出くわすこともある。せんじつ姫路に行く新幹線を京都駅でノゾミからヒカリに乗り換えたら、ドイツ人のツアー客に遭遇した。するとその中の数人がコンビニのオニギリの封を器用に切り、海苔を巻いて旨そうに食べていた。確か欧米人は海草を食べないはずだが、海苔が海草と知っているのか?オニギリもずいぶんと国際的になったもんだと感心した。「この丸いオニギリ、何処から食べれば良いのか?」と姉が若いとき彼氏にオニギリを結ぶと冗談に聞かれたらしい。三角オニギリは神との縁を結ぶ形ということで、正確にはオムスビというらしい。

最近ラーメンを初め日本食を求め、たくさんの外国人が日本を訪れるようになってきている。これからは彼らにもう一歩踏み込んで、和食と和食器のコーディネートの紹介なども、必要なのではないかと思っている。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

マクワウリ

かつてまだ千葉県湾岸地域には遠浅の海が広がっていたころ、津田沼から千葉に至る京成電車は海岸のすぐ横の丘の上を走っていた。そのため夏になると東京方面から海水浴に向かう人達で混んでいて、黒潮号という名の夏季限定の臨時急行列車も上野駅から運行されていた。私も稲毛や黒砂海岸には何回か通ったが、海は遠浅なので潮が満ちてこないと泳ぐことが出来ない。潮の引いている時はアサリ採りで時間を過ごし、潮の満ちてくるのを待って泳いだ。海岸の防潮堤の上には千葉街道が走り、その海側にはトタン葺きの粗末な海の家が、堤にへばり付くように並んで建っていた。しかし昭和40年代に入るとこの遠浅の海は急速に埋め立てが始まり、広大な敷地に住宅や工場が建設されていった。

「メロンが食べたい!」粗末な海の家の階段を上がっていくと、畳表が敷かれた広い空間が現れる。そこでは多くの海水浴客が車座になり、おのおのカキ氷やスイカなどを食べていた。「何を食べる?」と聞く父親に自宅では食べたことないメロンが目にとまった。薄く黄色い皮をむてもらうと真っ白い果肉が現れた。でもこれ本当はマクワウリといそうだ。私が子供の頃は本物のメロンは値段が高く、この黄色いマクワウリをチマタではメロンとよんでいた。当時は今のマスクメロンなどは、近所の八百屋や果物屋では見かけなかった。その後しばらくして、ウリとメロンの交配種の安いプリンスメロンが新しく市場に出回ると、マクワウリは消えていく。

「子供の頃あの黄色いマクワウリを確かメロンと呼んでいたよなあ」と女房に話したら「ああ、あれは我が家ではマクワウリと呼んでいて、美味くないので私は食べませんでしたよ」と一蹴された。でも昔のメロンパンは今のパンよりずっと黄色かった。私はメロンパンと言うと黄色いイメージがしかない。それはむかしメロンパンを作った頃、マクワウリをメロンと呼んでいたので、黄色の色付けにしたのではないかと推測するのだが?もしそうでなければメロンパンは草色にするべきだったと思う。最近はメロンパンの専門店もあちこちにあり、いろいろな種類のメロンパンが出回っていて、メロンパンは若い人にも人気があるようだ。

あくまでもマクワウリのあの黄色が好きで、どうでも良いことにこだわっています。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

冷や麦

昭和20年代までは大体どこの家でも内風呂がないので銭湯に行っていた。しかし夏場に毎日銭湯に行くと子沢山の家庭では金がかかる。そこで大きい洗濯桶に水を張り日中ヒナタに置いておくと夕方には水がお湯になり、行水するにはちょうど良い湯加減になった。子供たちはこのタライで遊びながら体を洗う。このころの下着は男の子は白いパンツ(パンツという言葉はなくサルマタとよんでいた)にランニングシャツ、女の子はズロース(フランス語の女性下着のドロワーズが訛ってズロース)に白いシミーズ(シュミーズとはこれもフランス語、女性の下着で今のスリップにようなもの)一枚だけ、湯から上がった体に粉噴き飴のように全身にアセモ対策用のシッカロールの粉をパタパタとはたかれる。

「きゃー、どうなってるのこれ」いきなり次女の姉が大慌てで下着に燃え移った火を手でたたき消す。でも一瞬だったのでどうにか火傷をせずにすんだ。その日夕方暗くなると駄菓子屋で買って来た花火を庭でした。すると次女の持っていた線香花火の玉がシミーズに落ちた瞬間、あっという間に燃え移った。「あの下着の素材はいったいなんの繊維だったのか?」綿素材ならあんな燃え方はしない。戦前日本からシルクを輸入していたアメリカは、戦争でシルクの供給が途絶えると、化学繊維の開発に力を入れる。そして登場したのがナイロンやレーヨンなどの多くの化学繊維だった。戦後これらの安い繊維が日本にも一斉に入ってきて市場を席巻!養蚕農家は壊滅的な打撃を受けることになった。

当時はどの家もほとんどが平屋で、部屋数も少ない。我が家でも三部屋しかなく子供たちは夏場蚊帳を張り、6畳の部屋に兄弟4人で寝ていた。暑くて寝られない夜は部屋の中央に座り、父親や長女がお化けの話をする。この頃は小学校の高学年にもなると、お化話の2,3は誰でも諳んじていて、これを適当にアレンジして話す。クーラーや扇風機もない時代、ウチワ片手に怪談話で涼んだ・・・。夏場の夕食は水に浮かべた冷や麦をよく食べた。そうめんより太めで、ピンクや緑の色の麺も混ざっていた。(冷や麦と素麺の違いは太さの違いだけで、冷や麦に色麺が入っているのは素麺と区別するためとか)でもいま色麺は素麺にも入っていることがある。

冷や麦は涼しげなガラス鉢か、白い陶磁器の鉢などがよいとは思うのだが。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

アオヤギ

今年は梅雨明けが早く7月は連日35度を超える猛暑日で、熱中症になる人も多い。私も子供のころ何度か熱中症を罹った経験がある。習志野市にあった谷津遊園で泳いだ帰り道に、電車の中で急に目まいがしてフラフラと床にヘタリこんだ。水分補給もまめに取らず炎天下のプールで一日遊ぶと疲れで脱水症状になる。しかし10分も経つと徐々に回復した。当時は熱中症と言わずに日射病、あるいは熱射病と呼んでいた。私の小学校にはプールは無く、泳ぎたければ船橋のヘルスセンターか谷津遊園のプールまで、京成電車に乗り遠征するしかない。でも谷津遊園のプールは汚かった。プールは大きいがコンクリ作りでなく、ただ掘った穴に木枠で土止めをして、その中に目の前の海から引いた海水を、流し込んだ池のような粗末なものであった。

「塩辛い海水のプールなんか、ありかよー!」と不満を感じたをが、これには理由があったのではなか?正面には広大な東京湾が広がるが、遠浅で潮が引くと水が無くなる。そこで潮が満ちるまで時間、この粗末な簡易海水プールで我慢する。千葉県の湾岸地域の海辺は、水泳好きにはどこも役立たずだった!泳げるほど水のある満潮は一日数時間だけ。しかたなく海で本格的に泳ぐには千葉駅から汽車に乗り遠路、鋸山を超えて行くしかなっかった・・・。また当時谷津遊園の入口から駅まで両側には貝を売る店が並んでいて、アサリ、ハマグリ、赤貝など貝類であふれていた。きつい潮の香りと人混みで暑い真夏はむせ返る。

「ブー、ブーと口から変な音を出す子供たち!」この海ホオズキもまた貝と一緒に小さい籠に入り店頭で売られていた。海ホウズキは口に含み、上あごと舌で押しつぶすと音が出る。しかし慣れないとなかなか上手く音が出ない!この海ホオズキこそ、今の若い人は見たことも聞いたことも無い超レア物だと思う。(巻貝の卵嚢でゴムの様な感触の小さな平たい袋状の物で、これを口に含んで変な音を出して遊ぶ子供の玩具)また谷津遊園は潮干狩りでも人気スポットだった。アサリに似たバカ貝はそれこそバカのようにたくさん採れた。バカ貝は食べられないと父親から聞いたので全部置いてきたが、この貝はアオヤギといい剥き身も食べられるらしい。特に柱や舌の部分は旨い。

バカ貝を網の袋に詰め持ち帰る海水浴客を見て「バカだなあ、あんなに食べられない貝を詰めて」と思っていた私がバカだった。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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