高粱パン

いよいよまた終戦記念日が近づいてきた。早いもので今年でもう72周年だという。私は団塊世代なので、戦後の混乱期の思い出などは色々あるが先の大戦は知らない。我が家は東京大空襲の少し前に、千代田区の神田から市川に疎開してきたという。運よく引越しが終わった直後に大空襲があり、命拾いをしたらしい。私の生まれた市川の現在の自宅は当時、家屋は小さな平屋の安普請のしもた屋で、思えば今でいう災害で家を焼け出された人達の仮設住宅での避難所生活のようなものであった。でも大都市近郊で空襲で焼け出された人たちの生活は、どのは家も同じように困窮状態で、特に我が家だけが貧乏生活をしているという意識もなかった。

大東亜戦争という日本国の存続をかけた激しい戦いに、成人男性のほとんどが駆り出され多大な死傷者が出た。それにより直接加わらなかった多くの人々も心のダメージをうけて、精神疾患になる人も続出していた。でも今で言うメンタルクリニックなどもなく、気違い病院などと差別用語でよばれていた、窓に檻のように格子のついた精神病院に多くの人が雑多に収容された。病院はどこも患者が多く満員で収容しきれない。そのため軽度の人は野放し状態で街中を徘徊していた。時々この人たちと道で出会う。すると捕まると怖いので一目散に逃げ帰ってきた。特に子供達の間で有名だったのは軍服に軍帽を被り木刀を振り回す、あだ名が「国分のサブ」と呼ばれた男。捕まると木刀で殴られると男の子達から恐れられていた。でも彼も従軍時に精神を病んだという。

「こんな風にできたわよ!」と母親が隣の奥さんに、配給になった高粱と小麦粉で作った焦げ茶色に美しく焼きあがったパンを見せていた。「あらほんと、美味しそうじゃない」ヨチヨチ歩きの2歳ぐらいの時だと思う。「旨そう。僕も食べたい!」しかしこの高粱のパンは私の口に入ることはなく、いつの間にか消えていた。大人になってそのことを母親に尋ねると「あんた、そんなことも覚えているの?」と驚いていたが、「あれはね、消化が悪く幼児は食べさせられなかったのよ」とのことだったが、食べ物への執着心は恐ろしい!あのパウンドケーキのような高粱パンのその味が今だに気になる。不味くてもいいから一度食してみたかったなあ。

大東亜戦争での死傷者は話は語り継がれているが、精神疾患になった人の話はあまり表に出ない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

雷魚

釣り好きだった私は子供のころ近所にある沼や池、小川などほとんどの水場の魚の種類を調べて歩いた。「何故こんなところに池があるんだろう?」不自然に畑のど真ん中に、ぽつんと孤立している10メートル四方の小さい池が気になった。あの池にも何か魚がいるのではないか?でもそこは生垣に囲われた畑の中なのでよく確認できない。地元の人に聞くと東京空襲のとき米軍の爆撃機が残りの爆弾を落としていった痕だという。そこに水が溜り爆弾池と呼ばれるようになったようだ。このように昭和30年頃までは戦災の痕跡もまだ色濃く残っていた。釣りは比較的早朝がよい。早起きして勇んで目をつけた池に行くと、もうすでに顔見知りのお兄さんが釣り糸をたらしている。「しー、音を立てるな!」静かに前を通り過ぎ少し離れた場所に陣取った。

「よし、かかったぞ!」見ると近くのお兄さんの釣竿が激しくしなる。「これは結構デカイよ」5分ぐらいの格闘のすえ、上がってきたのは40センチぐらいの雷魚(ライギョ)だ。「気持ち悪い魚!」始めて見る雷魚の異様で不気味模様に驚く。半分くらい水面を浮き草で覆われた汚い池にも、こんなデカイ魚がいるんだなあ。その後も何匹か雷魚を釣り上げ、お兄さんは意気揚々と帰っていった。「これ喰うと旨いんだぞ!」とお兄さんは言い残して行ったが、あんな気持ち悪い魚が喰えるのかな?でも興味があったのでお兄さんの真似をして、後日駄菓子屋でもっと丈夫な針と糸を買い、蛙を餌に雷魚釣りに挑戦してみる。

「おかあちゃん、この魚食べられるんだって!」釣り上げた20センチ位の雷魚を喜んで持ち帰り、母親に見せると「あんたバカねー、こんな気持ち悪い魚なんて食べられる訳がないっでしょう。早く逃がしてきなさい!」と失笑されたのだ。でもこの雷魚(外来種で1920年に朝鮮から食用にするために持ち込まれた)中国や東南アジアでは人気食材だという。綺麗に洗ってヌメリを取りブツ切りにし、油で揚げると結構旨いらしい?子供の頃はまだ食料が潤沢になかったので、赤蛙や海老ガニは喰える。トノサマガエルは不味い、雷魚やフナは旨い、などと食べた事が無いのに適当に尾ひれをつけて、男の子の間では話題にしていたのだ。でもガマ蛙だけはだめだ、そのころ父親の知り合いでガマ蛙を食べて死んだ人がいると話していた。

昔から続くトンボとり、釣り、植物採取など男子の遊びは本能的な食料集めだと思う。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

イセエビ

「おうー、凄い透明度だ」船着場の岸壁から海の中を覗くと10メートルはある水深の海底がはっきりと確認でき、大小さまざまな魚が泳ぎまわっている。「ようし!」借りてきた釣竿の糸を垂らし早速作業開始。すると直ぐに突然の強い引き、驚いて竿を持ち上げるがなかなか上がらない。「これは大きいぞ」嬉々とするが、「ありゃ、なんだこれ」変な見慣れない魚がかかってきた。針先に付いていたのはなんとフグに似たハリセンボンだった。それも水を吸い風船のようにまん丸に膨らんでいる。水を飲んだハリセンボンは重い、やっと岸壁に上げ針を外すために、口の中に棒を刺すと口の便が開いて水がドッと出てきた。するとハリセンボンは空気の抜けた風船のように、ヘタヘタと潰れてペチャンコになった。

「面白い!ハリセンボンは、まるでパンクしたタイヤみたいだ」でもそれから何度釣り糸を垂らすも、上がってくるのはハリセンボンと綺麗な色のベラだけ、食えそうな魚は何もかからない。やっぱり港の岸壁ではだめか?透明度が高く、魚もこちらの姿が見えてるはず。「かかるのは余程アホな魚だ」半世紀も前のこと、大学の夏休みを利用して近所の先輩と、彼の姉さんの嫁ぎ先である八丈島に遊びに行ったことがあった。夕方芝浦の桟橋を出航し、雑魚寝状態の船倉で揺られながら一夜を明かすと最初の寄港地三宅島に着いた。それからまた数時間船に揺られて、昼過ぎに八丈島の八根港で下船する。

やはり八丈島は南国だ。なんとなく風景が違う。椰子の木のように背は高くはないが、いたるところにフェニックスが植えられている。聞くと葉を切って生け花用にと東京に出荷しているという。バスで揺られ大賀郷にある姉さんの家に着くと、当時はあまり東京からの来客の無いご夫婦は、大喜びで歓迎してくれた。そしてこの日の夕食が凄かった。「わおー!」いままで見たことがない程の大きなイセエビの登場だ。「これって40センチはあるよね!」それが一人一匹だった。尾の部分を刺身で食べたがとても食べきれない・・・。その頃は東京への出荷経路も整備されておらず、巨大なイセエビも主に島内で消費されていたようだった。そして始めてみた八丈の果物ではパッションフルーツがあった。蔓のような木になるこの実はそのまま食べると殆んどが種ばかり、でもジュースにすると結構美味かった。

今では多分大きなイセエビはとれても、殆どが東京に出荷されると思う。産地にわざわざ出向いても、逆に手に入らない物もけっこうある。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

イワシ寿司

最近ここ私の住む千葉県の北西部では、夏場夕立が降ることが少なくなってきたような気がする。空にはあの夏特有の巨大な入道雲もあまり見ることがない。高い建物が増えて空が小さくなり、見通しが悪くなったことが原因かもしれない。冷房の無い昔も夏は暑かったが、夕方になると大体スコールのような夕立が毎日のようにあった。しかし最近では近くで雷鳴の轟きなども聞かない。挨拶の中で「一雨来ると良いですね」などという会話もよく交わしたが、一雨来るような雲行きには真夏なることがなく、ただただカンカン照りで熱風が漂う。たぶん最近は温暖化によりかつてのように、上空に北から寒気が下りてくる頻度が減ってきたためではないかと、勝手に推測している。

「今朝は朝顔が三輪咲いた」5月に生徒さんから頂いて撒いた朝顔の種が順調に発芽し楽しみに眺めていたが、やっとブルーの花をつけた。朝顔は早朝咲き日が照るとしおれるので朝型の私のライフスタイルにはぴったらだ。昔は何処の家庭の庭にも朝顔を初め、ヒマワリ、カンナ、グラジョウラス、ダリヤ、オシロイバナなどの夏咲く草花がたくさん植えられていた。しかし最近これらの草花をほとんど見ることがない。どの家の庭も空き地はコンクリで固められ駐車場になっていて、草花を植えるスペースなど設けない。湿った土の部分が少なく気化熱で温度が下がることも無いので、照り返しでますます気温が上昇するばかりだ。以前は夕方スコールがなければ必ず草木に水遣りをすると、体感温度が多少下がった。

私はオシロイバナがなぜか好きだった。オシロイバナは花が咲いた後に黒い小さな種をつける。その種を潰すと中から白い粉が出てきて、これを取り出し顔に塗るなどして遊んでいたが、このオシロイバナの白い粉にはトリゴネリンという毒があるそうで、誤って口に入れると嘔吐、腹痛、下痢などを引き起こすと言う。「ああ良かった!」あのオシロイバナの種は蕎麦の実に似ていて、なんとなく食べられそうだった。そんなこと当時の大人は誰も教えてくれなかったので、どんな味か一度くらい試したことがあったかもしれない。たぶん食べてみれば毒のある成分は苦いので吐き出したであろうが?まだ冷蔵庫も賞味期限もない時代、食べ物が傷んでいるかどうか主婦は見た目、臭い、味で判断していた。

今は凄い時代だ。先日鮨屋に行ったら、あの足の早い鰯の寿司がこの暑い夏の盛りに注文できる。全く子供の頃には考えられない流通機構である。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

カプッチョ

イタリア山間部にある多くの地方都市は丘の上に築かれている。私の住んでいたペルージアも同様での200メートル位の高度があった。授業が終わりその街のセンター街を歩いていると、バール(カフェ)の外の椅子に腰掛けている数人の男達が手招きをする。見るとクラスメートのアラブ人ご一行だ?「チャオ!」と挨拶して近づき握手をすると、お前も座って何か飲めよという。カプチーノを頼んだが、まだお互いイタリア語は流暢でないので細かい話は出来ない。こんな時は「ボンジョールノ」はアラビア語で何と言うのだ!とか聞くと結構場が持てる。サラームだ「サラームか?日本語ではこんにちはだ」こんにちはか?皆が口々に言う。「ボナセーラ(こんばんは)」は何というのだ「サラーム」だ。これもサラームか?

おはようがざいますは?「サラーム」おやすみなさいは?[サラーム」さようならは?サラーム。行ってきますも「サラーム」ただいまも、ごめんくださいも、みんなサラームか?そうだ!(サラームとは平安という意味で、あなたに平安あれ!)アッラー(神)を称える言葉という。これは便利言葉だ!それからアラブ人に会うといつでもサラームと挨拶する事にした。そして次にアラビア文字で冨岡はどう書くのか?ノートを取り出し書いてもらうと、右から左にミミズが這うような横書きで、書きづらそう!ムハンマドは日本文字ではどう書くのか?と聞くのでとりあえずカタカナで書き、他の人にも順番に名前を聞きいて続けた。そしてお互いに笑いながら書き方の練習を始める。

そうこうするうちに頼んだカプチーノ(カップチョとも言う)はすっかり冷めてしまった。カップチョを飲み干し「さあ行くか、いくらかな?」会計しようとすると、彼が払うからお前は払わないでいいと言う。そして全員の勘定をこの一人の男が払った。聞くと彼の家は親が石油関係で富豪だという。ダッチカウント(オランダ方式の割り勘)に対し、アラブカウント(金のある人が一人で全部払う)というのがあるらしい?(金持ちは貧しい人に施す)「グラーツィエ(ありがとう)」彼に礼を言うと、ムハンマドがこれはコーランに書いてある当然の行為!礼なども言う必要ないよと言ったのだが・・・。

基本人種間での思考、感情などはあまり変わらない。でも慣習やマンナーはその民族の宗教、歴史により変わることはよくある。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

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