我々が小学校低学年以前はテレビもまだ無かったので、映像といえばたまに見る映画だけであった。本八幡駅まえロータリーの脇には邦画と洋画の映画館が二軒あり、いつも客で混んでいた。一番後ろの席に着くと休憩時間には映写室を放映口から覗くことができ、フィルムを撒いたロールをセットする状況などがつぶさに確認できるた。この頃学生のアルバイトではフィルム運びという仕事があり、楽なの人気があった。当時の映画はだいたい3本立て、近隣駅の別の映画館との間で放映時間をずらしフィルムを順番に交換していくと、ワンセットのフィルムを二箇所で共有できるので効率的だった。放映が終わると直ちにそのフィルムを他方の映画館に届け、放映終了のフィルムを持ち帰る。これを一日で何度か繰り返すわけだ。
テレビ放送が始まり小さな白黒テレビが普及し始めると、映画の人気は徐々に衰える。その後テレビはブラウン管のカラーテレビから大画面の液晶テレビに変わり、こんどは4K、8Kテレビだという。その都度映像の臨場感は増して行き、自宅にいながら世界中何処にでも瞬時に飛んでいけるようになった。すると大画面にかじりついて見ていれば、自宅から出かけないですむ。世の中の全ての出来事が居ながらにして体験できるようになり、何も苦労して危ない所へ行く必要も無い!カメラを持って誰かが代表で出かければ、あとはの人はポテトチップを食べながら、ソファーに寝転がってテレビを見ていればすむ。このスタイルをカウチポテトといい、アメリカ中産階級の休日の過ごし方としてスタンダードになって来ているという。
「わたし先日ニューヨークに行ってきたの!」と誰かが言ったとしても、行ったことのない私でも映像をたくさん見ているのでセントラルパーク、五番街など有名どころはほとんどの風景は知っている。「ああそうですか?」と特別事件でもなければ会話が弾むわけでもない・・・。でも私が小学3年生のときにクラスメートに田島研二という名の男の子がいた。彼はある日突然お父さんの仕事の都合でニューヨークに越して行った。昭和30年前後の話だ!いったい彼のお父さんの仕事とは何だったのか?今考えてみると不思議だが、1年後に彼はまたクラスにもどってきた。すると担任の先生が「皆さん、身近な物の名を田島くんに英語で教えてもらいましょう」との提案があった。私は鉛筆って何というのか?尋ねてみた記憶がある。
まだ家庭にテレビもない時代である。ニューヨークといえば入浴?どこの銭湯の話だという程度であった。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)