サーキット
むかし船橋海岸近くには、演芸ホール、プール、温泉、遊覧飛行場、宿泊施設などが完備した今でいう複合リゾート施設の「船橋ヘルスセンター」があった。ここのプールには夏になるとよく通ったが、高校生のとき経営難で突然封鎖された。するとこの跡地は時代に先駆けてすでに欧米では人気のあった、サーキット場に建てかえられた。ただこの船橋サーキットの敷地は狭くコースの距離が一周がたった3キロくらいしかない。それでも休日には自動車レースが開かれて、車の好きの私はよく見に出かけた。爆音を響かせて失踪するレースカーを見ていると胸がわくわく、それは日本の経済成長とモータリゼーションの本格的な幕開けを、感じさせる実感がビリビリ伝わってきた。
「また、イギリス車のミニクーパーに負けたか!」でもニッサンブルーバード、トヨタコロナなどの国産車はまだ性能が悪く、あの小さいミニクーパーに全く勝てなかった。日本車はサスペンションが甘く、ヘアピンカーブが上手く回れない。そのころ自動車の対米輸出も模索していたが、アメリカの高速道路ではすぐに故障した。今では考えられないが、しょせん日本車など安かろう悪かろうのイメージしかなかった。でもホンダが自動車生産を開始しS600などスポーツカーを作り始めると、モータリゼーションを盛り上げるために、本田社長が鈴鹿に本格的なサーキット場を開発する。するとメインサーキットは鈴鹿に移り、船橋は2年で閉鎖されることになる。
このとき市川市国府台の奥にある式場病院の息子壮吉さんが、鈴鹿サーキットで開かれた第一回日本グランプリで、ニッサンGTRとデッドヒートの末、ポルシェカレラのレース車に乗り優勝した。「本当かよ!」暫くするとこの病院の近くに住む友達が、壮吉さんのおじさんの知り合いで、なんとあこがれのポルシェ・カレラを見せてもらえる約束を、取り付けてきたのだ。さっそく次の日曜日に病院に数人で駆けつけた。そのおじさんの案内で広い院内の坂道を少し登ると白い車庫がポツリとあった。そして車庫の扉を開けると、「ありましたよ!あのペッタンコな白いポルシェ・カレラが」そしてカレラのエンジンをかけ、おじさんが車庫から車を引き出してきた。「すげー!」あたりに轟音が響き、もう声も聞こえない。
当時男の子は皆レーサーに憧れていた。船橋サーキット跡地は今(ららぽーと)になっている。車に対する価値観も変わり、電気自動車は音も静かで逆に危険だという。時の流れは早い、春に植えた実生の山椒がもう色づいた。
(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)