わが国では個人の所有する自動車の約四割が軽自動車であるという。しかし今の軽自動車は室内空間も広く装備も充実していて、旧市街が残る市川市の狭い道路の通行などには非常に便利である。かつて私が軽自動車を乗り始めた1963年当時、軽自動車の免許収得は簡単であった。教習所で8時間ほどの運転講習と、交通法規の試験にさえ合格すれば16歳でも免許を取ることができた。しかしこの免許は軽自動車の限定免許で普通車の運転はできない。そこで18歳になると、再度普通免許に切り替える試験を受けことになる。当時は軽自動車には車検制度の適用がないので、タイヤ交換もしないで乗り続けた。タイヤがすり減るまで乗って丸坊主になると、突然大きな音を立てバーストすることもあった。
「まいったなあ、またエンジンがかからない!」こんな時は通常バッテリーか点火プラグの問題である。当時の軽自動車は混合ガソリンという、ガソリンとエンジンオイルを混ぜた特殊な燃料を使用していたので、点火プラグにすぐ油煙がこびりつきスパークしなくなる。その度に後方にあるエンジンルームを開け、プラグを工具で抜き取り取りブラッシングする。その頃の日本車はどの車種も性能が悪く、年数が経つと直ぐに故障する。道路の真ん中や交差点内での故障車も度々見かけた。動けずにいると後続の車が通行できないので、何人かのドライバーが降りていき、文句も言わずにその故障車を押して端にどかす。
そのころ自宅にあったスバルには、ガソリンメーターが運転席に無かった。メーター類はスピードメーターの1個だけ!それもマックス80キロで実際にはこのスピードさえも出ない。でも燃料残の確認はいったってシンプルである。燃料注入キャップを開けメモリの付いたメジャー棒を差し込と、濡れた位置で残量の確認が出来る。「これでは注意してないと直ぐにガス欠だ」でも奥の手が一つある。車の床にはコックがありこれを開くとガソリンの予備タンクに繋がり、ここに3リッター位のガソリンが眠る。これで近くのスタンドまでたどり着けるわけだ・・・。家業の手伝いで高校時代に車で日本橋三越まで納品に行く。すると母親の納品作業を待つ間、近くの人形町京樽の茶巾寿司が旨いと姉から聞いたので、車中で時々食べた。当時は旨く感じた「茶巾寿司!」だが京樽なら今では何処にもあるので普通の軽食になった。しかし軽自動車も食べ物もずいぶん贅沢になったものだ。
こんな状況なので当時JAF(故障車をレッカーする会社)の会員が飛躍的に増えた。でも今の車はほとんど故障などしないので長年会費を納め続けても、呼んだのは車の鍵をなくした一度だけである。(勝田陶人舎・冨岡伸一)