ブリの照り焼き
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。ただトロッコで土を運搬する、それが面白さで見に行ったのである・・・。(このくだりは文豪芥川龍之介が書いた短編小説トロッコの文頭であるが、通常男子は幼児から小学生位までは、電車から自動車まで動く乗り物ならなんにでも、興味をいだく年頃がある)そしてある夕方、良平は弟と同じ年の隣の子供と土工達の帰った隙に、トロッコを持ち出し遊ぶ。それから後日、土工に声をかけトロッコを押す手伝いをするうちに、遠くの場所まで行ってしまう。気がつくと夕暮れになり土工達と別れ、一人暗い線路を恐怖心を抱き、泣きながら帰宅することになった。このトロッコの小説に近い経験を私はしたことがある。
「お前達、危ないから絶対にトロッコに触るなよ!」の声を残し土工達は夕日を背にその現場から消えていった。遠巻きにその工事を眺めていた我々はその忠告を無視し、車輪にかっていた車止めをはずした。しかし良平のトロッコと違いその線路の長さはわずか50メートル余りしかない。それでも夕暮れの短い時間、押し役と乗り役に分かれ、交互に何度か繰り返し遊んでいた・・・。すると突然「痛え!」の声に驚いた。トロッコを押していた友だちの一人が足をトロッコにひかれた。うずくまる彼のズックを外し足を見ると、足の親指の爪から出血していた。痛さにうめき泣く彼を支え自宅まで送り届けた。でも当時はこの程度の怪我では医者にも行かず、赤チンをつけ包帯を巻いて自宅で直していた。
昭和も三十年代に入ると戦争の傷跡も徐々に癒えて、経済活動が本格的に復興し始めた。それにつれて地方から職を求めて人々が東京に集まってくる。そこで東京都に隣接する市川は彼らの住むベットタウンとして注目されるようになった。京成八幡駅から徒歩10分程の距離の、街外れにあった我が家の周辺でも田んぼを埋めて、宅地造成する工事があちこちで行なわれた。オート三輪車で運ばれてきた近くの丘を切り崩した赤土は、今のようにブルト―ザーがあるわけでなく、造成地の奥には車は入れない。そこで短い線路を引きトロッコに土砂を載せ運んでいたのだ。しかしそれから暫くするとベルトコンベアが登場し、トロッコはそれを最後に姿を消していった。
芥川龍之介の好きな食べ物といえば、ブリの照り焼きである。魚嫌いだった私も油の乗ったブリの照り焼きは大好きで、子供の頃から喜んで食べた記憶が残る。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ポン菓子
ポン菓子
第二次世界大戦が終わると、アメリカとソ連の間では資本主義と共産主義のイデオロギー対立により、年々緊張感が高まっていった。そのため核兵器やミサイル開発競争はエスカレートしていき、やがてそれは人工衛星の開発から1961年、ソ連のガガーリンによるポストーク有人衛星の成功へと進んでいった。日本でも敗戦後の少ない予算から、ロケット開発の糸口を探ろうと糸川博士などを中心に、当時ペンシルロケットと呼ばれた小型のロケット発射実験の様子が、ニュースでは時々取り上げられていた・・・。我々が子供の頃は今の子供達と違って、冒険心と好奇心に満ち溢れている。親も子供の日常などには関心が希薄、ほとんど野放し状態なので大人のやる事は直ぐに真似をする。
「こら!あんたたち、こんなもの飛ばして全く危ないわねー、警察に通報するよ」と道を歩いていたオバサンが血相を変えてロケットの燃えカスを拾い、我々のいる空き地へと侵入してきた。ひととおり文句を言うと「まったくしょうがないわねえ!」の言葉を残しオバサンは立ち去っていった・・・。このころ子供達の間では密かにロケット作りがブームになっていて、学校でもロケットの作り方の情報が飛び交う。「よし、俺らもロケット作ろうぜ!」こうして近所のガキどもを集めロケット開発チームがにわか誕生した。まずロケット本体は、アルミ製の鉛筆サックを流用する。そこに当時は駄菓子屋で簡単に手に入った徒競走の合図などに使った鉄砲の火薬を、皆で紙から火薬だけを剥がし取り、燃えやすい筆箱ケースなどのセルロイドの小片と一緒にサックに詰める。
「ピュー、白煙を引いてロケットは勢いよく飛び出す!」制御不可能なので何処に飛んでいくか分からない、荒っぽく蛇行しながら空き地の生垣の塀を抜け、外の道まで飛んでいった。大笑いしながら成功を喜んでいると、突然のオバサンの登場だ・・・!しかしそれからもロケット開発はエスカレートしていく、鉛筆のサックでは飽き足らずもっと長い管に詰めようと、傘の柄の金属部分を切って使うことにしたのだ。「これが拙かった」発射台に置き焚き火を炊いて離れて見ていたが、突然爆発し、飛んできた破片が一部が友だちの腹に刺さった。大事に至らなかったが「やばいよ!」とロケット開発はその後すぐに中止した。
爆発といえばむかし円筒形の鉄の熱い加圧機に米を入れると、爆発音と共に米が10倍に膨らみポップコーンのような「ポン菓子」と呼ばれる不思議な米菓子があった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
冷汁
冷汁
私は朝起きるのが早い、大体いつも3時には起床する。そこで朝食までに腹が減ると牛乳をかけるだけのコーンフレークは有難い。でもコーンフレークは食べるタイミングが微妙!早すぎると硬く、ちょっと間をおくと直ぐにデロデロになる。コーンフレークと言えばアメリカのケロッグ社だが、この開発者のケロッグ医師は大変な禁欲主義者で性欲を抑制するために、この食品を開発したのだという。いわば日本の精進料理のような物で、コーンフレークを食べると性欲を減退させる効果があるというのだ。「本当なのか?もっと若いときに知っていればなあ・・・」ところで子供の頃にアメリカのホームドラマを見ていると、朝食によくこのコーンフレークを食べているシーンに出あったが、そのころ日本ではまだコーンフレークが輸入されておらず、具体的にはどんな食べ物か?はっきり知らなかった。本格的に市場に出回るのはケロッグの日本法人が設立された1963年頃からである。
「行儀が悪いから、そんな食べ方やめなさい!」牛乳にパンを浸して食べると親によく注意されたが、この食べ方って本当にマナー違反なのか?ヨーロッパでの滞在中にホテルでの朝食風景を見ていると、ヨーロッパ人でもよくミルクやスープにパンを浸して食べている人をみかける。でも別に周りを気にする様子もないのでマナー違反ではないのでは?と思うのだが・・・。特にフランス人は皿に残ったソースをパンにつけて食べる。ソースは皿に残さないでパンで全部ふき取って綺麗にするのがマナーと聞いたが、本当はそうでもないらしい。コーンフレークの食べ方もパンをちぎり、カップに入れてミルクを注いで食べていたことに由来するのではと思う。
お茶付けなど飯に液体を注げば食べやすくなるので、どの民族でもこの食事法はあるのではないかと思う。日本ではきたないとされる食べ方が、子供の頃にやっていた、残したご飯に味噌汁をかけて食べる猫マンマ。こんな食べ方をすれば前に座った女性にはたいがい嫌われる。だが最初から大き目の茶碗に飯をかるく入れ、冷たい味噌汁を注ぐ宮崎の郷土料理の「冷汁」なら別にわるくない。要は出された料理の食べ方を途中で勝手に変更するのが、マナー違反ということだろう・・・。最近ラーメン屋に入ると付け麺という新しいジャンルのラーメンがあり、ソバと汁が別々の容器で供される。しかしそのつどタレにつけて食べるのが面倒なので、タレを麺の容器にぶち込んだら店主の視線を感じた。どう食べようが客の勝手だろうが、いちいちウルセンだよう!
夫婦という社会の最小単位でも、「箸の上げ下ろしも気になる」というが、一緒に生活すると育った環境などの違いから、食事の仕方など些細なことで対立感情も生まれる。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
麦ごはん
麦ごはん
早いものでこのブログを書き始めてそろそろ3年になる。最初テーマも決めず漠然と書き始めてみたが、連載をするうちに食べ物を通して戦後の日本人の日常生活の変遷を、振り返ってみたいと思うようになった。直近の今は伝染病で混乱しているが、去年までの日本人の生活は私が幼児だった70年以前と比べると、あまりにも豊かで便利すぎた。だがこんな時代がそれほど長く続くはずがないと、最低限の物資で生活した経験のある私は首を横に振る。近年のように地球が何億年もかけて貯めた地下資源を取り出し、増え続ける人口増に対応するために短時間で浪費すれば生態系など破壊されに決まっている。将来にわたっても人類がこの地球の留まり、持続可能な生活スタイルを考えてみれば敗戦後の生活のようにもっと物を大事にし、食べ物やエネルギーの消費を抑えて生活する必要があるのは明白である。
「奥さん、俺は先週練鑑(ネリカン・練馬鑑別所とは少年院)から出てきたばかりでねえ」と顔に傷のある怖いアンちゃんが風呂敷包みからゴム紐を取り出し、買ってくれと凄む!私が子供の頃は「押し売り」がよく家々を回って来た。当時のゴム紐は品質が悪く、パンツなどを履いているとじきにゴム紐が伸びてくる。そこで物を大切にしていた人々は、ゴム紐だけを交換しなるべく長く使用するので、ゴム紐はどこの家庭でも必需品であった。「ネリカン出てきたばかり」という脅し文句のセリフで、普通の主婦は高いゴム紐を買わされる。でも私の母親は京橋生まれの江戸っ子で威勢が良い「冗談お言いでないよ!」とタンかを切り押し売りを撃退した。なにしろ電話もパトカーもろくに無い時代で警察官もこの程度の事には感知しない。
私は中学は私立中学に進んだが、当時の公立中学は先生の言うことも聞かない悪童が地域により大勢いた。なにしろ人けのない道で、ナイフを出されて最初に近所の子供にカツアゲされたのが小学3年生の時だ。そのころは喧嘩による殺傷事件や恐喝が頻繁に起こる。すると警察に捕まり彼らの一部はしばらく少年院に入ることになる。「お前、麦シャリ喰ってきたか」聞いた話によると少年院ではご飯は麦飯で、独特の臭いがしたという。麦シャリを食ったかどうかは彼らのステータスで、お互いにそんなことを自慢にした。そこで伯をつけるためにわざわざ暴力事件を起こし、ネリカンに入る者さえいたのだ。でも近年は少年犯罪も徐々に減り、今ではそのネリカンの収容人数も当時の十分の一で、犯罪の多くも覚醒剤などだという。
令和に入ると日本の繁栄も終焉し、いよいよ歴史が巻き戻されていく予感がする。幼少期を思い出し記述することにより、こんな時代もあったのか?とこれからやってくる食難の未来と比較して欲しい。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ガンモドキ
ガンモドキ
ガンモドキは油揚げ、厚揚げと共に豆腐屋が作る揚げ物の一つである。豆腐を布袋に入れ水を絞ってから煉り、細かく切ったニンジンや野菜などを入れ、山芋でつないで丸めて油で揚げるという。これを関西ではガンモドキと言わずヒリョウズと言うそうだが、これはポルトガル語のフィリョースという揚げた南蛮菓子に似ているということから、この名がついたらしい。でも関西に仕事でよく出かけていた私も、ヒリョウズとはあまり聞いたことがない言葉だ。でも名前の由来というものはとても面白い!「味が雁に似ているからガンモドキ。見た目がフィリョースに似ているから飛竜頭(ひりょうず)」だとか、さて自分なら何と名付けるであろうか?
「あの男子、ガンモドキのような顔」われわれが青春時代には黒の学生服を着た男の子の中に、丸顔でニキビ面の油臭い子がけっこういたもんだ。でも最近ではこのての男子と殆んど出会わない。わたしの工房のある八千代市勝田台にはいくつかの高校があるので、毎朝多くの男子学生に遭遇する。しかしどの顔もわりと面長で肌つやがよく、赤ら顔のニキビ面などは殆んど見ない。なぜニキビ面のガンモドキ顔が減ったのか?詳しくは分からないが、たぶん豊かになった食生活などの栄養バランスが原因ではないかという。それに今の高校生は学生服の着こなしもキチンとしていてシャツのボタンを留めず、ズボンを下げたダラシナイ格好の男子も以前より少ないようだ。でも校則などを遵守し、枠からはみ出ることを嫌う社会風土に修練されていくことが、ベターであるとも思えないのだが。
最近アメリカではビヨンドミートという植物代替肉の会社が話題になっている。この会社は欧米で増え続ける極端な菜食主義者のビーガンやベジタリアンのために、大豆などの植物タンパク由来で食肉の擬似食品を作る会社である。最近ではアメリカのマクドナルドも、この肉を使ったハンバーガーを一部店舗で発売し人気だという。ケンタッキーフライドチキンでも鳥肉に似せた擬似食品の提供を始めるという。いよいよ欧米でも精進料理の発想でモドキ食品が浸透し始める。マックもケンタも中身は一緒の大豆蛋白ビヨンドミートの肉モドキになる。人口増と温暖化でいよいよ旨い本物の食材が食えた飽食の時代も終焉し、偽食材の贋食の時代に突入する。そして次にはあの私の幼児時代の貧食へと戻っていくのか?
大豆タンパクを使った擬似食品の提供は、日本では高野山の宿坊などでは昔から作られていて独自に進化してきた。擬似食品でもまだ食えればよいが、日々一汁一菜では栄養不足でガンモドキ顔もまた増える。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)