茶飲み話・電波時計
「ゾウの時間ネズミの時間」という本を昔読んだことがある。体の大きさがかなり違うこの二種類の哺乳動物も、一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギーの使用量は、サイズによらず同じであると言う。人間の目から見るとネズミの方が短命で、はかない一生に見えるが動きが早く、経験する内容はあまり変わらないらしい。でもどちらかを選ぶとすれば、私をはじめゾウを選ぶ人が多いと思う。
「伸ちゃん、ゼンマイたのむね」の母親の声に私は居間にある脚立に乗り、柱時計のゼンマイをキリキリと巻いた。その頃の柱時計はじきに遅れるので、ラジオの時報に合わせて時々長針をゼロの位置に合わせなくてはならない。そしてそのご時が経過すると柱時計が徐々に電池式に変わる。すると時間の刻みは多少正確になり、長針の修正回数も減っていく。近年では時計の殆んどが電波時計になり電池切れ以外は時計に触れることは全くなくなった。
人の一生でも歳を重ねていくと、だんだん時の経過が早く感じるようになると皆さんが言う。同じ時の長さでも、エネルギー発散の強弱や集中力などでそのように感じるのかもしれない。行動が活発だと障害にであう頻度が増し、プレッシャーも強くストレスも多いので、時間の感じ方に差が出るのかもしれない。ならば若い時のほうが、時間の流れが速く感じるのではないかと私は思う。
ストレスという英単語は最近になって日常的に使われ始めたという。確かに我々が子供の頃には、ストレスという言葉の記憶はない。ストレスを日本では「試練」と呼んでいたそうである。でもストレスと試練では意味合いがかなり違う。ストレスは押しつぶされそうなプレッシャーから、逃れるネガティブな意味合いが強いが、試練は重圧を跳ね除け、乗り越えるポジティブな感じだ。ストレスを試練と捕らえていた昔の日本人は「七転び八起き」プレッシャーに立ち向かったが、ストレスに言葉が変わってからの現代人は、試練から逃げる傾向にあると思う。
「時は金なり」というが、人生において時間と金のどちらが大切かと言えば、もちろん時間であると思う。若い頃は金などなくても健康なら、あるていど稼ぐチャンスは転がっていた。しかし老後はどうだろう?時間はいくらでもあるが、金を稼ぐ体力と機会がない。日本人は「年をとってから金の苦労はしたくない」と言い貯蓄に励む人が多い。でも欲を満たす体力がなければ老後の金も「猫に小判」である。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)