「夫を変える」。妻たちの闘い!という記事が先日読売新聞掲載されていた。人生100年時代、夫婦で過ごす時間は長くなっている。妻を見下し、世話をしてもらうのが当たり前だと思っている夫と、どう向き合って行けばいいのだろう?ということだ。今の若い夫婦は別にして昭和育ちのわれわれの世代にとっては、この問題かなり深刻のようだ。
なにしろわれわれの世代は男は外で働き一家を経済的に支え、女は家庭で子育てと家事の担当、という伝統的なルールに縛られてきた。通常この慣習は子育てが完了すれば役目を終えるが、一般的には夫の定年退職まではなんとなく引きずっていく。しかし夫が定年を迎え一日中在宅するようになると、妻の不満がいっきにふきだしてくるのだ。
「もういいかげんにしてよ、妻の定年はないの!」との突然の詰問に夫は狼狽するか、怒るかのどちらかである。男の気持ちからすれば「俺は今まで一生懸命働いてきた。これからは少しノンビリさせろ」だが、妻とてこれを期に家事労働からの解放を切望しているのだ。そこでお互い膝を突き合わせ、冷静に直談判をすればよいのだが、従順な女性はトラブルを避けこれをしないで不満がたまる。
私は妻に対する所有格はもうとっくに捨てている。「私の妻」「俺の女房」などという言葉や発想は今はない。夫婦など、もともと赤の他人どうしの共同生活である。こちらに自由があれば、同様に相手も自由を求める。われわれ世代の悪いところは母親と妻を混同し、女性に対して甘えの感情を抱くことである。家事や雑用はは何でもしてくれてあたりまえと。
私たち夫婦は出会いの時から、当時はやっていた「サルトルとボーボワール」のお互い自立したリレーションが理想と話し合っていた。しかし結婚したとたんこの理想は崩れ、自身も従来型の威張る夫に代わった。でもそのご妻の「自立と人権を認めろ」のさいさんの抗議に私自身もまたサルトルに戻っていった。そして今は自分に出来ることは何でもこなし、適度な距離感を保って生活している。(新聞記事では夫への要求は手紙に書くと良いらしい。勝田陶人舎・冨岡伸一)
妻が「夫を変える」ことは出来ず、夫が「妻を変える」ことも同様に出来ないことでしょう。
夫婦間で自分の気持ちをどうしても理解して欲しいとか、相手の間違いを教えて正してあげようなどと考えることがそもそも間違いで、相手にしたら無理強いの服従を意味することに成り得ます。相手への要求は諦めて、そのままの存在を批判せず認めることが、「夫が変わり妻が変わる」ことの様です。
結婚式でよく聞く祝辞の挨拶があります。「男と女、こうも違ったしかも複雑なふたりの人間が、互いによく理解し愛し合うためには、一生を費やしてもまだ長すぎはしない。結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ。」
仏教では、「諦める」ことは「明らむ」が語源で「明らかにする」の同義語でポジティブな意味があります。