茶飲み話・盆栽

 

年を重ねるとなんとなく興味をそそられる趣味の一つに盆栽がある。陽だまりの縁側に腰かけ、手元の盆栽にハサミを入れる姿を描けばその顔が、紅顔の美少年であるはずもい。でも私は若い時からなんとなく盆栽にひかれ、一本の枝の選定にゆっくりと時間をかけ楽しむのもありだ!などと考えていた。そして今まさに、盆栽が似合う年齢に到達したのである。

「でも昔からある盆栽づくりでは面白くない。何か自分なりの切り口はないか?」と考えたあげくたどり着いたのが、お金や手をかけずに自然まかせという方法である。運よく私の工房の頭上には隣の森から伸びた高い木々がそびえ立つ。そしてこの梢からは数種類の木の実や種が秋になると風に乗って運ばれてくる。これを土で満たした盆栽バチで受け取るのだ。

放っておくと盆栽バチには実生の苗で満たされる。そこで時々適当につまんで間引く、実に自然まかせの気長な剪定である。おかげで田園風景を投影する冨岡オリジナルの盆栽が具現化されるわけだ。そして年を経るごとにその閉じ込められた風景は醸成され、目を細めてサイドから眺めると深い森の姿と錯覚できる程になれば面白い。

先週ふと思いついて明治神宮を訪れてみた。自身にとっては半世紀ぶりの訪問なので神宮の森の木々は大きく成長し、原生林の姿へと変貌していた。そして参道を百メートルも進むと都会からは隔絶され、八百万の神が宿る神道の世界へと誘う。そこはわずか百年前に建立された寺社とはとても思えない風格を持ち、静寂で清浄な世界であった。

40代の頃には仏教にひかれ人の生死などを考え続けたが、最近では神道の世界に魅了される。神道の素晴らしさは日々の生活、行動などを規定する教義が希薄なことである。行動様式など規定しないから、日本人は自ら他者との距離間を考え、他人に迷惑をかけないことを前提に独特の人間関係を構築してきた・・・。(写真・上から落ちてきた欅の実生が勝手に芽吹く、数年後が楽しみだ。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

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