茶飲み話・喜寿

 

日々、余生をいかに過ごすかは人によって異なる。人生にとって大切なことはそれぞれの人々が満足のいく形で晩年を楽しめればそれで良し、別に講釈などはいらない。私は若年の頃から「終わり良ければ総て良し」人は晩年の過ごし方で人生の良し悪しが決まると考えていたので、自身の生涯の理想形などを脳裏に刻み歩んできた。

若い頃の私は束縛を嫌い自由でありたいと常に願っていた。すると当然社会と呼ばれる組織からは一定の距離を保つことになる。でも別に孤独と呼ぶ独り身に居心地の良さを感じることもなかった。頭では晩年の鴨長明のように森の中に素庵を設け、世の中を俯瞰して筆をとるなどの図を描くが、元々が寂しがり屋の性格で、すぐに里の喧騒に魅かれ一夜たりとも耐えることなど出来はしない。

先月喜寿を迎え一区切り、いよいよ残る年月も指の数ほどになった。そこで自身の生涯を振り返ると、私はほぼ自分の思い描いた図式道理に歩んでこられた気がする。好きな事を仕事にし、行きたいところに行き、好きなだけ飲んで、自由の中に遊んだ。別に大志など描かなかったので、大きくぶれることもなかった。しいて言えば陶芸家として大きく羽ばたけなかった事ぐらいだ。

「好きな事をして生きればよいのだよ。一度きりの人生だ!」これは私が若い頃より自問自答して人生の指針としてきた言葉だ。一生という限られた時間と空間の中でハッピーに生きるには、組織の中で埋没した時間を長く作らない事である。経験として認識される数年ならまだしも、十年単位だとその失った時間はお金では取り戻せない。

でも晩年お金持ちになれれば壮年期の忍耐などいとわないと思う人もいるので、人それぞれだが、体力的にもその時でないと楽しめないことは山ほどある。いまの若い人たちを見ていると何か遠慮がちに生きている気がするね。ひかれたレールに自分を合わせるのではなく、もっと自由であるべきだ・・。(日本は良い国です。隣国と違い、いかようにでも生きられるのです。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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