茶飲み話・野球道
ワールドベースボール・クラッシックも無事終了し、優勝で日本中が歓喜で盛り上がっている。明るい話題の少ない昨今、久しぶりにテレビ視聴率爆上がり.のビックイベントであった。大谷選手をはじめ日本人選手達の活躍はもとより、その野球に対する直向きな情熱は対戦相手からも高く評価された。そして日本人ファンもまた、対戦相手をリスペクトする応援が世界中で話題になる。
「いったい、いつから日本人はこれほどマナーの良い民族になったのか?」最近では電車を待っていても列に割り込んで、我先へと座席へ突進する叔母さんの姿も見かけなくなった。つい10年くらい前まではこういう「いらっとする」人もいたよなあ!としみじみ感じる昨今である。かつては不愛想であったバスの運転手までも「おはようございます」と先に挨拶する。
このような日本人のモラル向上はいかにしてもたらされたのか?と問うてみればそれは学校教育によるところが大きいと思う。とくに野球などの運動系部活動では挨拶の徹底や年長者に対する受け答えなど、日本人としての基本的な所作を学ぶ。そのため社会人になってもその価値観は共有され、他国にはない独特の人間関係として根付いた。
ところで投手が打者にデッドボールをあて、謝るか否かはそれぞれの国民性が出る。先日のWBCチェコ戦で佐々木投手が163キロもの直球をバッターの足元にあてると、痛がる選手に脱帽して佐々木は謝罪した。一方韓国戦では侍ジャパンのヌートバアー選手が韓国投手から背中に死球を受けるも、相手は謝らずに平然と開き直る!そこで場内は一瞬緊張がはしった。
デットボールを当てた佐々木投手は翌日にチェコ選手が滞在するホテルに、お菓子を携え詫びに訪れた。すると前代未聞のこの行為にはチェコ選手たちも大感激!彼の真摯な態度に敬服する。わが国では格闘技である相撲や柔道も礼に始まり礼に終わり相手をねぎらう!最近の日本野球はいつの間にか「野球道」となりアメリカのベースボールとは一線を画すようだ。(写真・自宅近くの桜の名所、真間川堤で昨日撮影。勝田唐人舎・冨岡伸一)
なめろう
茶飲み話・なめろう
わが千葉県の房総には「なめろう」という郷土料理がある。新鮮な鰺を三枚に下ろし、包丁で細かく叩いて味噌などであえていただく漁師のマカナイである。館山方面に向かい地元の食堂で刺身定食などをたのむと、必ず小鉢に入った「なめろう」が添えられている。とりたてて美味いものではないが、日本酒のつまみなどにはわるくない。
ところで「ナメローとあだ名された例のスシロー、ペロペロ小僧!」最近テレビで再三放映され、そのつど不快な思いを感じるその映像に、隆盛をきわめた回転寿司の終焉も近いと予感する人も多いと思う。そもそも回転寿司は食品ロスも多く、食糧難が心配される今日においてサステナブルの立場からも、廃止されるべきビジネスモデルだと想う。
そもそも回転寿司は日本の高度成長期に登場し、デフレが長く続いた日本経済停滞の時代に安さを売りに出店が加速していった。それが気づいてみたら一皿百円の激安チェーン店まで現れ、店舗どうしでお互いに足の引っ張り合い、薄利にあえいでいる。とうぜん人件費も削られるので、従業員の目も届かず客の暴走行為に拍車をかけることになった。
「SNSにアップされる受け狙いの迷惑動画にも困ったもんだ!」今では誰でもが簡単にティック・トックなどネットショート動画に配信できる。そのためアクセス数を競うため、かなりヤバイ動画もアップされる。おもしろ半分に悪ふざけもエスカレートすると犯罪者の領域まで踏み入れ、高額の賠償請求を受ける結果となる。
そもそも昔、寿司は高額であった。カウンターに腰かけお好みで寿司を食えば、とんでもない額を請求されることもある。持ち金がたらず時計を置いて後日支払いに行ったという友人の話も聞いた。ところが回転寿司により高校生の小遣いでも寿司が食べられるようになると、今回のようにいろいろ問題もおきる。(一皿100円寿司と100ショップがはびこれば給料も上がらない。勝田陶人舎・冨岡伸一)
コオロギ
茶飲み話・コオロギ
「コオロギ食への差別行為が横行、嫌なら食べなきゃいいだけなのに!」というスレが立っていた。虫を食べる文化もあるのに、近未来の食糧難に向けた取り組みを否定する不思議とある。タイでは屋台でコオロギの素揚げがスナックとして売られており、健康食という認識だ。それなのに昆虫を食べること、それもコオロギ食が日本では物議を醸している。
徳島大学のベンチャー企業からコオロギパウダーの提供を受け、コロッケにして給食で試食したところ、学校にクレームの電話や批判が相次いだという。「子供にどうして食べさせるのか」。「急にコオロギを推奨して、なんらかの思惑や利権を感じる」などと散々な批判が飛び交った。
でもここで良く考えてほしい。近未来食糧難は必ずやってくる。すると今の現役世代よりも子供達のほうがずっと昆虫食の必然は高い。だから今のうちからコオロギ食を体験し、慣れ親しんでおく必要があるのではないかと私は想うのだ。今の子供達はわれわれの世代と違って蜂の巣を叩き落し、幼虫などを食べないので昆虫食に対する耐性がない。
「いつまでもあると思うなトロや蒲焼」今の日本人は戦後の食糧難から徐々に開放され、ずいぶん贅沢になった。なにしろ吉野家の牛丼が低所得者の看板メニューになっているのだから恐れ入る。わたしの学生時代には新橋の駅前にあった吉野家にわざわざ牛丼喰いに行った記憶がある。その頃、牛丼の値段は安価ではなかったと記憶する。
「今晩、食材を買い忘れたから寿司屋に行こうか」の乗りでスシローなどの回転寿司に子連れでいく。中高生の小遣いでも気楽に寿司屋に行けるので店の風紀は乱れ、バカな舐めローもはばを利かす。でもこんな時代がいつまでも続く分けが無い・・・。(コオロギにお世話になる時代もきっとやって来る!勝田陶人舎・冨岡伸一)
アレクサ
茶飲み話・アレクサ
「へー、インコがねえ。そんなことするのですか!」とは先日、私の工房で話題になったニュースである。なんでも頭が良くておしゃべりな大型のインコが、飼い主の留守中に「アレクサ」に話しかけ勝手にネット注文をしちゃったというのだ。身に覚えのない宅配の到着に飼い主も戸惑ったという。以前にも別のインコが主人の不在中に勝手にアレクサに話しかけ、音楽を楽しんでいたという話もある。
「アレクサ」とはアマゾンのスマートスピーカー「アマゾンエコー」である。話しかけるだけで、様々なリモコン操作が簡単に行なえるクラウドベースの音声サービスです。家庭内にあるすべての家電などとつながり、エアコンや冷蔵庫の温度管理、テレビや音響機器のボリューム、それにネットとつながり足りなくなった冷蔵庫の食料や、飲料の発注まで勝手に行なってくれるスグレモノである。
このサービスを利用すれば人はゆっくりとソファーでくつろぎ、面倒な日常から開放される。若い人の利用はいかがなものかと感じるが、身障者やお年寄りには福音となることも確かである。インコとアレクサの共謀による笑い話も悪くないが、このまま世の中が進化し続けると背筋が寒くなる未来を予感する思いもある。
インコといえば、私の子供の頃はペットとして鳥を飼う事がはやった。まず大型のニワトリ、鳩からはじまり、九官鳥やインコ。小鳥のジュウシマツ、カナリヤ、文鳥、などは多くの家庭で飼われていた。特にカナリヤは美しい声で鳴くのでとても人気があった。でも今は小鳥を飼う人などあまり聞いたことが無い。
「なぜ日本人は鳥をペットとして飼わなくなったのか?」その理由をネット検索してみると、小鳥の値段が高くなったから。鳥インフルにかかることがあるから。またはマンション住まいだからとか様々だが、私はほかにいろいろ楽しみが増えて、ペットの世話をする時間的な余裕がなくなったからではと想っている。(これからのペットはアイボなどのロボット犬やアレクサ内蔵のロボット猫でしょう、知らんけど!勝田陶人舎・冨岡伸一)
老人ホーム
茶飲み話・老人ホーム
「仮想体験で心身生き生き!」読売新聞によれば高齢者施設にいながら、旅行を体験者できるVR仮想現実や、メタバースといった最先端技術の活用が、福祉施設の現場にも広がってきているという。「それはそうでしょう!」私が数年前より話題にしている、高齢者とハイテク技術の相性はとても良く、ロボット介護士やメタバースの普及は全く新しい老後生活の福音である。
「空が広いよ」「近くを女性が歩いている」。戸惑いながらVRゴーグルを着けたデイサービスの利用者が目の前のハワイの映像を追いかける。映像は自分の目の動きに合わせて動くため、まるでその場にいるかのようだという。体験者は「足もとにきれいな砂浜が広がっていて、実際に旅行した気分になった」と笑顔で話していたらしい。
数年前、私の友人が糖尿病の悪化で若くして特別擁護老人ホームに入居していたため数回訪れたが、まわりは年寄りばかりで日々やることがなく退屈でどうしようもないと語っていた。当時もしメタバースのような仮想空間での滞在が可能なら、ホームでの生活もずいぶん楽しいものとなったのではないか!これからは「余生人」こそ積極的なデジタルの活用が急務なのです。
先日ここでもとりあげた「チャットGPT」がいま世界中で話題になっている。今はまだテキストでの応答だが、数年もすると音声で受け答えしてくれるので介護士と気を使いながらしゃべるより、AIとチャットするほうがずっとマシになる。そこでハイテクを利用すれば、今後やってくる余生は退屈どころ「お花畑」である。
私が日々思考している数年先にせまるデジタル化による未曾有の大変革時代にどう対処し、それらをどのように受けいれるかは、すべての余生人にとって大きな課題だ。私のブログではあえてこれらのトレンドを紹介し、遊興余生人の視点で面白おかしく綴りたいと思う。(本日の造語は老人と言わずにあえて余生人と言ってみた。時代はますます面白くなる。勝田陶人舎・冨岡伸一)