茶飲み話・円安

「円安24年ぶりに135円前半」との見出しが紙面におどる。これはえらいこっちゃですね!これだけ急速に円安が進むと、これからあらゆる商品が値上がりし、年金生活者の家計にしわよせが来る。数年前に対ドル105円であった時からすると日本円の価値は三割も目減りしているのだ。この間日本はデフレであったため、まだインフレの実感はあまりないがこれからは大変になる。

まずいことに今後もっと円安が進み、150円位になるというありがたくない予想もある。実際そこまで円安が進むかどうかは分からないが、もしそうなれば海外旅行など高嶺の花になる。現在でもアメリカでカフェに入り、プレートランチをたのむと3千円も取られるというので、滞在費もばかにならない。

しかし以前は円安になると、トヨタなどの自動車やパナソニックなど家電企業が恩恵を受け日本経済が活況になったが、今ではその多くが海外に工場を移し空洞化したため、円安のメリットはほとんど無い。でも観光業はべつだ。訪日外国人にとっては旅費や滞在費が劇的に安いので、コロナが収束すれば多くの外国人が日本にやって来る。

たかだか30年以上前を思い出し見ると当時は円高で、多くの日本人が海外に出かけ、ブランド品などを買いまくり、傍若無人なその態度に現地人からも批判の声があがっていた。今度はあれと逆バージョンになる。マナーの悪い外国人で観光地は荒らされ、日本人は隅っこに追いやられる可能性もある。

「フジヤマ、ラーメン、ゲイシャガール!」これからの日本を展望すれば富士山に代表される観光地と、ラーメンなどの飲食、それとオモテナシの日本女性がキーになるかも・・・?観光と飲食はまだ良いとしても女性はねえ。貧困化するニートや母子家庭を国はもっと支援しなければ、外国人目当てにニーズの増える夜の仕事につく人も多くなる。(国力が衰え通貨円が安くなると日本は荒廃に向かうという予感。勝田陶人舎・冨岡伸一)

茶飲み話・林マリ子

「すいません、写真撮らせてください」といきなりフッション誌カメラマンに呼び止められる。1980年代話題になっていたファッションスポット代官山・ヒルサイドテラスで新しく開店したブランドショップ街を散策中・・・。その時は好きなデザイナーブランド・ニコルの細かい濃茶ヘリンボーンのワイドパンツに、海老茶色の同じくニコルのハーフコートを着込み闊歩していた。

1980年代といえば日本が一番輝いていた時代だと思う。その頃の私は婦人靴のブランドデザインナーをしていた関係で、トレンドに敏感なファッション人間である。当時は今のIT産業のようにファッション産業が時代を牽引し、一攫千金でリッチになるにはアパレルの会社を立ち上げたり、デザイナーになって成功することがもっとも近道であった。

この頃にファッション業界で話題になった本が、林マリ子「ルンルン、買っておうちに帰ろう」である。まだバブル崩壊前で、若い女性達が高額海外ブランド品などを買いまくり、浪費することが社会現象にもなっていた。彼女はそれら金満なトレンドを一冊の本にまとめ、流行作家としてデビューをはたした。同時期に田中康夫のこだわりライフスタイル本「なんとなくクリスタル」も出版され話題となる。

「やっとわが母校、日本大学にも民主化の波がやってくる」先日テレビニュースで、その林マリ子さんが日大の理事長に就任することが決まった。日本大学の本部組織は私が在学中の半世紀以前から、経営トップは右翼闇組織や一部政治家とつながり、大学運営資金を私物化していた。私が在学中にも古田会頭による使途不明金事件が発生し、それに怒った学生達が立ち上がり大規模な運動を展開したが、機動隊の催涙弾により鎮圧された。

今では考えられないが50年以前の日本では、現在の香港民主化デモに対する警察機動隊のような弾圧行為が普通に行なわれていたのだ。それに対するわれわれは道路の敷石を剥がし割って投石用の礫とした。後輩のテリー伊藤はその石が目に当たり、斜視になったと当時を振り返っている。(林マリ子さん頑張って!今こそ時代遅れな男の権力構造を根こそぎ変てください。勝田陶人舎・冨岡伸一)

茶飲み話・虎の子

「資本主義とは何か?]いきなりこう書けば、拒否感情をいだくご婦人方は多いと思う。なのでごく簡単に解説してみたい。よく今の日本は資本主義社会であるといわれるが、でもほとんどの一般人は資本主義社会で生活している実感などない。日本の現状は資本主義社会というより、預金主義社会というべき状態なのだである。

日本人は本当に銀行預金が好きだ。現在は銀行預金をしても金利などほとんどつかない。なのに自宅のタンス預金も不安なので、「虎の子」を銀行に預けている。三菱や三井住友などのメガバンクに預金せず、これらの銀行の株を直接買えば現状では年率4、5パーセントの配当金をゲットできる。でも株式は値下がりや倒産が心配だとほとんどの人はこれをしない。実際には財務内容の良好なこれらの銀行より、日本国のほうがよほど財政状況が悪く、円安による通貨円の目減りや破産の確立は高い。

われわれ日本の庶民は、もっと資本主義社会で生活しているという自覚をもつべきだ。ある程度の虎の子を銀行に預けてもそれはただ現金である。資本とはその金を投資運用し、利益を得る「種銭」となって初めて資本と呼ばれる。ただ銀行に眠るだけ金は資本ではない。残念なことに資本主義社会とは金を積極的に運用し、「利益を得て金持ちになる人達や経営者」を優遇するための社会のことだ。

「新しい資本主義で一億総株主構想!」ついに出ましたよ。経済オンチだと馬鹿にしていた岸田首相が、国民に向け新しい政策を打ち出した。「1000兆円単位の預貯金をたたき起こし、市場を活性化する。国民の投資意欲を盛り上げ、家庭内貯金を積極的に投資にまわすだって!」国もやっと重い腰をあげ、国民に資本主義社会で生きている自覚を促がすようである。

そこで今後の対応を考えてみると、今は日本株は米株に比べてかなり割安だ。しかし投資家はこの情報を聞いてすでに日本株を買い始めている。安倍前首相が安部のミックス構想を打ち上げたら、数年で日経平均は3倍になった。岸田さんの減税を伴なう新しい政策でも、株価は値上がりする可能性がある?(虎穴にいらずんば虎児を得ず。老若男女金が欲しければ投資しかないらしい・・・。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

茶飲み話・雪谷の白バラ

「雪が谷の白バラ」というエピソードを若い頃、父親から聞いたことがある。それは昭和初期、千代田区神田に住んでいた父親が、週末の住まいとして購入した目黒区雪が谷の別邸に滞在していたときの話だ。その家は坂道の途中にあり、低いほうは土塁が築かれ土手になってたという。そしてその上には写生のためにと、真っ白いバラが植えられていた。

ある時、道に出てみると校帽に黒い学生服を着た二人の青年が土手に這い上り、バラを数本手で折り取っている。それを見た父親は「トゲが痛いだろう?」と下から突然の声賭けをする。ヤバイ!二人はギョッとして、逃げようと身構えた。すると父親は笑顔で「チョッと待ってな」と宅に戻り携えた花バサミを手渡す。「好きなだけ切りなさい」と・・・。

「たったそれだけでよいの」。二人は5,6本のバラを切り取ると土手から飛び降り、恥ずかしそうに一礼してと坂道を下っていったという。去っていく二人の後姿を見送ると、入隊の時期が迫るのか?不安がよぎったという。満州事変などでそろそろ日本がきな臭い時代に突入していった頃である。雪ガ谷の白バラ、彼らの愛の告白のお役に立てたら幸いなのだが。当時は多くの学生達が恋愛も成就せず、人目につかない一輪のバラのように戦火に散った。

バラといえばなんといっても最初に頭に浮かぶのが文豪ゲーテである。彼ほどバラを愛し、そしてバラが似合う男も少いと思う。私の青春時代のある時、小説家志望であった先輩が「ゲーテはバラのトゲが原因で亡くなったんだよ」。彼の説明によるとゲーテは恋人へのプレゼントにとバラを素手でおり、指に刺さったトゲから破傷風菌が進入し死亡したという。

「カッコイイ、死に方ですね。さすがゲーテ!男の死に方としては最高だ」。私は反応し二人で盛り上がった思い出がある。でもこの話あくまでも作り話で真実ではないらしい。バラの花がいつから愛の告白と同意語になたったかは知らないが、気がつくと最近のバラの花束にはほとんどトゲがない。(写真・父親の雪ガ谷バラ・デッサン。帯などの刺繍の下絵に使った。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

 

茶飲み話・無常感

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみ浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びてひさしく留まることなし・・・」。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・」。これは方丈記と平家物語の誰もが知る序文であるが、確かにどこか似てる気がする。

最近SNSで作者不詳と伝えられる平家物語。実は鴨長明作ではないのか?という説をとなえる人がいたが、私もその可能性ありと考えるひとりである。鎌倉時代のほとんどおなじ時期に書かれ、序文や文章の書き方も類似性が多く琵琶の名手でもある。このような天才が同時期に二人いたとも思えず。同一人物であると考えるほうが自然である。

この二作の名著に共通する文章の意図は人の命のはかなさを記す。一般的に人は晩年を迎えると無常感が日々増してくるようだ。私も鏡に映した自身の白髪を眺めると、他人事と思っていた終焉の時が、もうそこまで迫っているという実感にたじろぐこともある。でも終りの無い「芝居」もないので静かに目を閉じ、時の流れに身を委ねるしかない。

短い人生いかに生きるかは人それぞれである。しかし最近の若い人を見ていると、きのどくに感じる。偏差値教育と経済的安定を重視するあまり、一番重要な「生きがい」というものを犠牲にする。「君達は青春を自由に楽しめばよいのだ」などと、今どきの学校の先生は決して言わない。私が学んだ市川高校には当時、岡垣という名のユニークな英語の先生がいて、授業の前に必ず哲学の話をした。彼はドイツ人実存哲学者ニーチェ「この人を見よ」が好きで生徒達にも読むことを勧めた。

「俺は学校に来るのに同じ道は通らない。日々ルートを少し換える。変わり映えしない日常生活など生きる意味が無い」。「自意識の磨耗は自己の喪失に通ずる」などと生徒達に説いた。私は今の日本の若者は哲学不在だと思っている。学校で不必要な知識を多く詰め込んでも、生きる指針にはならない・・・。(有意義な人生の送り方を考えさせるのが真の教育だと思う。勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

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