玉コンニャク
日本人はコンニャクという海外の人から見ると、摩訶不思議な食べ物を口にしている。コンニャクはタイやマレーシアなど熱帯地方が原産国であるため、日本へは中国を経由して奈良時代に仏教と共に入ってきたらしい。実はコンニャクは芋の中に、日本で劇薬指定されているシュウ酸という物質が大量に含まれていて、そのまま食べると死ぬこともあるそうだ。そこで現地ではコンニャクは誰も食べず野生のまま放置されているときく。でも日本人はそのコンニャク芋をすり潰し、消石灰を加えて灰汁抜きすれば毒が中和され食用になる事を発見した。ところがこの作業をする時はゴム手袋をしないと、灰汁で手にかなりのダメージを受ける。
「男がコンニャクを食べると玉玉の砂払いになる」と子供のころ父親に聞いたことがあったが、あれって本当なのか?ふと思い出したので調べてみると、コンニャクに入ってる砂が(本当は砂ではない)消化器官の掃除をするという言い伝えがあり、昔の人はそれを信じていたという。でもコンニャクには食物繊維が豊富に含まれており、食べると便通がよくなるのは事実である。最近私も歳のせいで尿管に石がつかえて時々シクシクと違和感を感じる。数年前には尿道結石の痛みで七転八倒、真夜中に病院に駆け込んだことがある。まさかコンニャクが尿道の石を排出してくれるとは思わないが、いずれにしてもコンニャクは消化器系にはいろいろと効果がありそうだ。
コンニャクも良いけどあの独特の臭い、何とかならないのか?そう思う人は私だけではないと思う。コンニャクの臭いの元はコンニャク芋に含まれる、トリメチルアミンという魚にも含まれる生臭い物質だそうで、化学薬品などの臭いではない・・・。歴史的に見るとコンニャクは江戸時代までは水戸藩の専売品で、勝手に栽培することができなかった。しかし維新後にその専売が外れて北関東に広まったらしい。今ではコンニャクといえば群馬県が有名であり、その生産量の90パーセントを作っている。しかし消費は山形県が日本一で、玉コンニャクとして多く食されている。コンニャクはカロリーが少なくダイエット食品として最近注目されており、世界的にも広まる傾向にある。
コンニャクを畑で連作すると病害虫に弱くなり、沢山の農薬や消毒液が必要という。それを見ているコンニャク畑の近くに住む人は、コンニャクは絶対に食べないという人が多いとか!(勝田陶人舎・冨岡伸一)
釜揚げウドン
釜揚げウドン
昨年コロナ禍ではあったが、本八幡駅の南東に位置するニッケコルトンプラザという、ショッピングセンターに出かけてみた。ここにある東宝シネマズでは時々映画鑑賞をする。映画を見る前、ちょうど昼時であったので併設されているフードコートに行ってみた。するといくつかの飲食店の中に「丸亀製麺所」という名のウドン屋の前に人の列が出来ている。「そんなに旨いのか?」ためしにここを選ぶことにした。通常せっかちな私は列に並ぶことなどしないが、この日は違った。そして順番が来たので釜揚げウドンをたのんでみると、なんと最近ではほとんど見かけない、木桶の器で差し出された。「木の桶か?なんとなくレトロでいいじゃん」。と思いながらテーブルにつき箸を取ると、麺ごしもあり味も悪くなかった。
食事の後、ぼんやりとヒノキ桶を見ていると、昔の映像が脳裏に浮かんだ。プラスチックがまだ普及してない子どもの頃は、様々な木の容器が使われてた。大きい物では家庭の風呂の浴槽、そして銭湯の洗い桶、ご飯のオヒツ、洗濯桶など様々な家庭用品がまだ木製であった。「風が吹くと桶屋が儲かる!」などという言葉もよく使った。この意味は空っ風が強めに吹くと湿った桶が乾燥し、縮んでバラバラになる。その結果壊れた桶を修理する仕事が増え、桶屋が繁盛する。当時はまだ実際に桶屋という商売が存在していた。小学校へ通う道に面したクラスメートの女子の家は桶屋であった。帰宅時に庭先で桶を作るおじさんの姿は、今だに記憶から消えることはない。
あの天才絵師・北斎の浮世絵の一つに、巨大な桶を職人が作る風景を描いた有名な版画がある。何を貯蔵するためにあのような大桶が使われたかは知らないが、現代でも味噌や醤油などの老舗工場では、今だに木の大樽を使っている所もある。木の樽には発酵菌などが棲んでいて、熟成には都合が良いらしい。自宅の風呂桶も昔はヒノキであった。新しいヒノキの浴槽は木の香りがして浸かっていると、とてもリラックス出来た。しかし数年使うと淵の部分から痛んできたり、ヌメリが出たりで不衛生になる。ヒノキ風呂の頃は風呂焚きにはまだ石炭が使われていて、数分おきに火の状態を監視した。そのご石炭がガスに代わると浴槽も丈夫なステンレス製になる。いまでは給湯器の普及でスイッチオンですべてが完了!時代の推移を感じる。
「お風呂が沸きました」などと優しく女性の声で知らせてくれる今の給湯器!未来は体まで洗ってくれる洗濯機のような浴槽の出現もあるかも?
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
たら
鱈
昭和30年当時まで自宅近くにあった「石渡」という名の乾物屋にお使いで行くと、ピンク色に染まる鱈のデンブにいつも目が留まる。およそ食品として違和感を感じるその色はどこか怪しげで、私の好奇心を刺激していた。我が家では両親もこのデンブが嫌いで殆んど食卓にあがることはなかったが、興味半分で一度母親に頼んで買ってもらったことがある。でも食べてみるとその味はただ甘いだけで何の感慨も湧かなかった・・・。それから時が経過し中年になると、趣味で通っていた赤坂の料理教室「柳原」では、これとは違う色のデンブの作り方を教わった。その方法はまず茹でた鱈の身をほぐし、布巾に包んで揉みながら水道水で水洗いする。すると身が分かれて細かく糸のような繊維状になった。それを佃煮のように醤油煮すれば完成する。
そういえば最近タラのデンブと共に棒ダラも見ることはまれだ。カチカチに固まった板のような棒ダラを手で裂き軽く火で炙ると、簡単なおやつになる。「これを噛めば顎が丈夫になるよ」と母親から手渡されが、スルメと同様に噛んだりしゃぶったりと、口の中に留まる時間が長くなるので、空腹を満たすにはもってこいの食料でもあった・・・。今の子供達は硬い乾物や豆類などをあまり食べない。そのため顎の発達が弱く、四角い顔の子が減っているように思える。頑張る時には奥歯を強く噛み締めるので、顎が弱いと当然根性の無い子に育つとされた。「お前男だろ。もう一度行ってぶっ飛ばしてこい!」むかしは取っ組み合いの喧嘩などをして泣いて帰ってくると、こうけしかける親もいた。
「男は体を張って国や家族を守るために絶対に負けるな」戦後はまだ今では考えられない教育をしていた。学校でも親が先生に「うちの子、言うことを聞かなかったら、ビシビシなぐってください!」などと平気で進言していたので、当時の男子は先生によく殴られた。平手で殴られ鼓膜が破れることもあったが、それでも親が学校に文句を言うことも少なかった。でもやられたらやり返す!私は中高男子一貫校に進学したので6年間ずっと同じ学校にかよった。するとまだ身体の小さかった中学時代に先生に殴られて恨みを持つ子もいる。そこで「おぼえてろよ!」と高校三年の卒業式に仕返しを夢想する。でも実際に実行する子は少なかったが、先輩の何人かがこれをやった。卒業式のあと自転車で帰る暴力教師を数人で待ち伏せ、後ろから押して「ひと風呂浴びてこい!」と学校横のまだ冷たい早春の小川に突き落としたのだ。
後輩のわれわれもその話を聞いて「ざまあみろ!」と拍手喝采だった。するとその後、この(タコというあだ名)非常勤の音楽教師は卒業式に顔を出すことはなかった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
生揚げ
生揚げ
「お前は焼いた生揚げは食べるな!」むかし生揚げの焼いたのが我が家の食卓に上がったことがあった。その時父親が私に言ったのが、「焼いた生揚げは確かに不味くはない。でもこんな安易なオカズ食べていると、男はそのレベルになってしまう、だから姉達はよいがお前は食べるな」ということだった。それと当時、明治生まれの父親によく諭された言葉が「武士は食わねど高楊枝」である。男は「多少空腹でも平然と楊枝をくわえて「いま食事は終えたばかりです」という態度でいろ。「安易に道理の無い施しなど受けるべきではない」と告げられていた。そのように教育された私は、おかげで若い頃は周囲の人から「なんて傲慢で可愛くない奴だ!」と思われたことも多々あったと思う。
現代でこのような教育が良いかどうかは分からない。でもある程度プライドやポリシーを持ち、自立して生きることも大切ではないのかと思う。私は週に4日、早朝出かけるが、いつも途中の通勤路で同じ光景に出くわす。ある一軒の家にフォーカスすると、その家庭では初老の女性がまず先に、玄関ドアーを開けて現れる。すると続いて靴を履き終えたばかりの中年息子が後から出てきて、母親が重そうに引き出した自転車に乗り、そのまま出勤する。母親は道路に出て後ろ姿を見送るが、この間2人はほとんど無言である。推察するとこの行動はもう40年もずっと変わらないのではないか?別に男が50歳近くまで結婚しないのも悪くない。でもいい年してあまりにも過保護でないかと感じるのである。
「うちの息子なぜ結婚しないのかしら?こういう親に限ってこの言葉を吐く!」息子など家からたたき出して、一人で生活させれば女性との縁も生まれる。母親が側にいて至れり尽くせりでは甘えて自活するわけ無い!たぶんこのタイプの母親は「・・ちゃん、夕飯には何食べたいの?とか聞いてわざわざ息子の好きな食事を作るに相違ないのだ」。簡単に焼いた生揚げでも食わせておけばそのうちいなくなる。でも不思議なのは「かあさん!みっともないから、もう見送るの止めてよ!」と何故息子が言わないのかなあ・・・?私の30代は両親の面倒見るために家を増築し、同居して扶養家族が五人もいた。おかげで仕事が頑張れた部分もある!いまの男は自分に負荷をかけない。家計も男女別々で半々の負担が多いと聞く。これでは女性も結婚するメリットも希薄になるし、簡単に離婚する。
家計全体を男が負担することが少なくなったのは、給料が上がらないからとする意見が多くある。本当にそうなのか?私は教育による男の気概の欠如だと思うのだが。(写真・これでも抹茶茶碗です。勝田陶人舎・冨岡伸一)
海亀の卵
海亀の卵
小学生の頃は自由奔放に行動し学校嫌いだった私はとりあえず授業のない、年に一度開催される学芸会は楽しみの一つであった。当時学芸会は各学年ごとに発表する劇の演目を先生が決め、選ばれたクラスの代表がそれぞれの役柄を演じていた。当然私は選ばれるはずも無いので、その他大勢で小学生唱歌を壇上で歌って終わった。学芸会での「浦島太郎」の演目はたぶん小学3年生の時であったと思う。真っ黒いカーテンで覆われた講堂の中は暗く、舞台だけが妙に明るく照らされていた。このとき主役の浦島太郎は通学路に面していた下駄屋の息子、秋山君が抜擢された。ストーリーは単純なので説明にも及ばない。ただ浦島太郎が竜宮城から持ち帰った「玉手箱」を開けるシーンに私はとても衝撃を憶えた。
「あれ、なんだ今のは?」正直ビックリ仰天した。玉手箱を開けた秋山君の顔が瞬時にお爺さんのお面顔へと変身!一瞬の出来事に講堂の床に座り見ていた子供達からもどよめきが起こった。「どうなってるんだよ」と気になったので、後で秋山君にそのお面を見せてもらうと、お面の裏には突起がついていて歯で噛むだけでお面を被った状態になる。「先生が考えたのか、頭いいなあ!」その仕掛けにとても感心したが、後になってこれは歌舞伎などでも昔から用いられた方法で、特別なアイデアではないと知って、「なあんだ」ということになった。当時はテレビが各家庭にやっと入り始めたころで、娯楽の中心はまだ映画や演劇で歌舞伎、新劇なども人気があった。
浦島太郎の海亀といえば、去年おとなり中国では海亀と呼ばれる若者集団が話題になっていた。中国の優秀な学生達がアメリカなどの先進国に留学し、大学や企業でハイテク技術を学びエンジニアに育って帰国する。これを中国では「海亀」と呼んで優遇した。彼らがアメリカに追いつけ、追い越せと新しいビジネスを多く創業すると、これがアメリカのハイテク産業にとって脅威となる。「このままでは中国に抜かれえるかも?」するとあせり始めたアメリカはこれら海亀達の締め出しを実行する。「中国人もやる事がエゲツナイ!」技術の習得だけならまだしも平気で機密情報まで盗んで持ち帰る。トランプ政権からバイデンに大統領が代わったが、エスカレートしていく米中覇権争いは勝敗の決着がつくまで続いていくと思う・・・。
三十年以上も前、友達とよく通った北千住の割烹「浦里」では海亀の卵を食べたことがある。「海亀の卵など捕獲禁止じゃないの?」と思ったが、ピンポン玉のような丸い殻のブヨブヨな卵は生で飲むと、鶏の卵より濃厚な味がした。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)