メロンパン
近年、商店街のあちらこちらに手作りパン屋が新規オープンしている。どこもわりあい繁盛していて手作りパンの人気がうかがえるが、子供の頃はパン屋と言えば山崎パンであった。山崎パンは戦後JR市川駅前に開業したのが始まりであるが創業時はまだ規模が小さく、今の手作りパン屋のような状態であった。近くの江戸川沿いに工場があり、そこで焼いたパンを販売していたが、店はいつも多くの人で混んでいた。そのごパン食の普及と共に店舗が増えていき、現在パン屋では世界でも二番目の規模だという。創業期の本店は何度か立て替えられてビルとなり、今はスーパーや飲食店が入居している。また赤レンガ作りであった工場跡地も、パンの研究所に新築され当時の面影は全く無い。
私はその山崎本店には菓子パンを買いに、わざわざ自転車で出かけた。とくにメロンパンは好きでよく食べていたが、最近気がつくと日本が発祥であるという、この菓子パンの専門店をあちこちで見かける。でも新種のこれらメロンパンは、なぜか黄色でなく茶色が多い。「メロンパンは黄色でないとだめでしょう!」と思うのだが、「伝統的なメロンパンも、なぜメロン本来の色の緑でなく黄色なのか?」これにはずっと疑問を持っていた。それは昔黄色いマクワウリのことを庶民は、メロンと呼んでいた事に由来するという。確かに私自身も子供の頃は黄色いマクワウリをメロンと呼んでいた。網目模様のマスクメロンなど近所の八百屋では見たこともなかったので、本物のメロンなど知らずにいた。
しかし最近出来た新たなメロンパン屋には茶色のほか、ピンクや各色のメロンパンがある。確かにカラフルなその色合いは見た目には可愛いらしい。でも無意味な食紅の色付けは添加物なども気になる。しかし以前から「メロンパンの香りや味って、何か独特?」と感じることがあった。他のパンと何か相違があるがある。原因はメロンパンを大きく膨らませるために、ベーキングパウダーを使っているからとのこと。このベーキングパウダーにはカリウムミョウバンが入っていて、多くとると健康にも害があるという。先日通勤途中コンビニで買ったメロンパンを、昼に食べようと思ったらペッチャンコになっていた。私の好きなメロンパンは外側にメレンゲの着色剤、ベーキングパウダーで膨らませ、香りも添加物でつけるという。その上成分は糖質と脂質だけで栄養価はほとんどないそうだ!
もういい加減にメロンパンなど卒業しよう。いい年したジジイが可愛いメロンパンなど喰らう姿!見られたモンじゃない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
干し芋
干し芋
昨年のことであるが、このコロナ禍に名古屋駅前のユニクロでパニックが起きた。報道によると人気ファッションデザイナーのジル・サンダーとユニクロがコラボし、新発売した衣料品に客が殺到して、商品を奪い合う混乱状態になったという。その結果マネキンの着ている服まで脱がされ、胴から二つに折られたマネキンが床に転がる。この光景に私は暴動に乗じて店舗を荒らす、海外ニュースを見るようでとても困惑した。同時に最近オシャレを忘れたと思われていた日本人も、価格が安ければ有名デザイナーの衣服を奪い合うメンタルをまだ持ち合わせていることに、複雑な感情も抱いた。「オシャレはしたいけど、ブランド品など高くて手が出ない人たちが、今の日本には大勢いるらしい?」
「ストライク!」とお尻のツギあてに拳骨が飛んでくる。子供の頃はどこの家庭も生活が苦しく、長く履かれたズボンはお尻の部分がすれて穴が開く。するとそこに布アテをするが、その布アテの形状が問題となる。丸くパッチワークすると、その形がキャッチミットに似ているので最悪だった。そんな子供の気持ちを理解せずに母親が勝手に丸くパッチワークすると、そのズボンを履かずに放置した覚えがある。母親には「どうしてこのズボン履かないのよ」と問われると、「友達にからかわれるから」と告げた。すると後日、裏から目立たないようなツギあてに変わっていた。戦後復興も進み庶民の所得が徐々に上がり始めると、ツギアテをしてまで衣料品を着る「モッタイナイ」文化も消えていった。
たぶん日本では我々団塊世代が、一番オシャレを楽しんだ世代ではないだろうか?色気づいた高校時代のアイビールックに始まり、70年代のロンドンポップ、パリのプレタポルテから80年代のデザイナーブランドへと続き、バブルの頃には高価な海外のブランド品を身につけることが流行った。しかしその後の日本は30年間ダラダラと豊かさを失い続ける。反対にますます勢いを増すユニクロのファストファッションは多くのブランドを淘汰していく。先日はあの一世風靡したレナウンも、会社更生法の適応申請もむなしく、新たな引き取り手も無いまま倒産した。もう廉価なユニクロやワークマン以外、ファッションはビジネスとして成り立たない時代になっている。オシャレをして心ウキウキ街に繰り出し、女の子に声をかけるバカで行動的な男の子も減った。
ツギあてズボンの頃、冬場に好きでよく食べていたのが干し芋である。白く粉をふいた干し芋は遠い昔の故郷の香りがする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
カケウドン
カケウドン
カケウドン
「二足三文」という言葉がある。これは江戸時代に宿場町で、ワラジ2足が三文という安価で売られていたことに由来する。昔から履物は衣服に比べると非常に安価だった。なにしろ織物と違い手間がかからず、材料が藁や木では値段のとりようも無い。ところが明治になって欧米から革靴が入ってくると、履物に対する感覚も徐々に変わってくる。特に軍隊では軍靴のニーズが強く、革靴の重要性は増していった。そして戦後アメリカ軍が進駐し、欧米文化が再び流入すると一般女性も下駄やゾウリからパンプスなどの革靴を履くことが流行していく。特に米兵と関係を持った女性達はいち早く洋装に衣替えし、銀座の靴屋で赤いパンプスなどをこぞって購入した。かつて銀座通りの一等地には「ワシントン」を初め靴屋が多かったのはそのためである。
「ココノモン半なんですけど、雑誌に掲載された靴のサイズありますか?」デスクの電話をとると、四国の山村からだという、一本の電話が女性の声でがかかってきた。1971年に婦人靴の百貨店問屋に入社した私は、デザインなどを行なう企画部に席を置いたが、電話交換手が在庫問い合わせ電話を間違って私に回した。「九の文半ていったい何センチなんだ?」子供の頃は靴のサイズなどはまだセンチでなく「文」という単位が使われていた。しかしさすがに小学時代メートルに法改正してからは、徐々に文や尺の単位は使われなくなっていたので正直とまどった。それにせめて9文(きゅうもん)と言ってくれればよいのに(ここのもん)とは余計に分かりにくい。でもここでは在庫確認が出来ないので管理部に電話を回した。
私が靴業界に席をおくと同時に、女性達の間では冬場ブーツを履くことが大ブームとなる。ブーツはたくさんの革を使うので単価が上がる。編み上げブーツから始まった皮革ブーツの流行は、乗馬ブーツのようなジョッキーブーツでピークに達した。なにしろ若い女性のサラリーが4万円位のときに、ブーツの値段は3万円前後していたのだ。そしてこれらのブーツが百貨店では飛ぶように売れていく。おかげで会社のボーナスも3度出て、ファッション産業は未来産業である!とまでいわれていた。ところがそれから20年も経過すると、中国から安い靴が大量に輸入されるようになる。すると靴の価格も昔のように安価になり、元の「二足三文」の時代へと戻っていった。しかし江戸時代の1文は約12円位と言うので、実際には三文で草鞋2足が買えたかどうかは疑わしい。
江戸時代の宝暦の頃(1750年代)カケウドンの値段は6、7文であったという。いま駅蕎麦のカケウドンの値段は300円位なので、1文の価値は50円ぐらいになるのかも?(勝田陶人舎・冨岡伸一)
おのろけ豆
おのろけ豆
今朝いつものように早く起きて居間でくつろぐと、正面のテーブルに置かれた菓子籠には、オノロケ豆と書かれたの袋が一つ混じっていた。袋を手に取り眺めると「これ、オノロケ豆って言うのか?」正直子供の頃からいつも身近にあったこの豆菓子の名称を、始めて知った気がした。そこで今日はノロケについて書いてみたい。オノロケ豆は落花生を原料とする菓子の一種で豆の外側を米粉で包み、焼き上げた一口菓子である。日本橋栄太郎ではこの菓子を江戸時代から作っており、奇妙な名称の由来は製作時に豆と外側の殻とがくっ付きやすいので、男女の仲に例えてこの名をつけたと言う。栄太郎の豆は濃い醤油味が特徴であるが、この袋のオノロケ豆はいろいろな味が楽しめる。
「くっついて離れない」といえば小学生の頃に、理科で使った馬蹄形の磁石を思い出す。この磁石では鉄釘などをくっ付けて遊んだが、とくに記憶に残るのは公園の砂場で集めた砂鉄だ!これを紙の上に撒き下から磁石を当てると、砂鉄が起き上がって磁石を動かす方向に砂鉄が着いて来る。まるでマジックのようで不思議に感じた。それとセルロイドの下敷きが一般的になると、当時流行っていたナイロンジャンパーの脇の下に、下敷きを挟んで強くこすると静電気が起きた。これを前に座る生徒の頭に近づけると、髪の毛がくっついてモワーと逆立った。子供が多い戦後世代は教室の数が足らず、ひとクラス54人で常に鮨詰め状態!当然教室の後方では先生の目が届かない。そのために授業中もイタズラの応酬で、勉強に集中できずに過ごした。
「まったく、ノロけっちゃって、ご馳走さま!」とはむかし若奥さんが亭主の自慢話などを何気にすると、相手から返される言葉である。まだ新婚のうちはノロケ話もたびたび出るが、時が経つとお互いに愚痴の方が多くなるのが世の常でもある。年をとっても夫婦仲が良いのにこしたことはないが、先日若い頃から腕を組んで歩くのが好きだった近所に住む先輩夫婦に久しぶりに出くわした。「今だに腕を組んで歩いているのか?相変わらず仲がよろしですね」と眺めたが、どうも奥さんの歩行がしっかりしないので、腕を貸している様子であった。「俺は池袋三越の店員で一番良い女を選んだ」と自慢していたあのオノロケ先輩も50年経過するとこうなるのか!「光陰矢のごとし」この年になると実感・・・。
その池袋三越は12年前に閉店、地元船橋西部、松戸伊勢丹、柏そごう、千葉三越も相次いで撤退!コロナ騒動とネットショッピングで百貨店の存在が危うい。でも子供の頃からの遊び場であった、日本橋三越だけは消えないで欲しい。
(器の中には様々な宇宙がある。勝田陶人舎・冨岡伸一)
キリタンポ
キリタンポ
毎年正月になると、北国の便りとして届くのが秋田県男鹿半島に残る伝統行事としての「ナマハゲ」である。この風習は昔は小正月に行なわれていたそうで、新年を迎えるにあたり、無病息災を願う民の災いを祓うために、神の使いとして各戸を訪れてお清めをするという。もともとはナマハゲは来訪神であり、鬼ではなかったというが、近年では鬼の面を被り太鼓を打ち鳴らすなど、新たな芸能としての変化もみられる。私は東北の日本海側に突き出た男鹿半島にこの風習が根付いたのは、実際にむかし対岸のロシアから、漂流し流れ着いた赤ら顔の白人系の大男がいたのではないかと思っている。彼らと初めて出会えばどう見ても鬼か神にしか見えない。
「神様がやってきた!」の声に村人達は騒然とする。15世紀にコロンブスが大航海のすえ西インド諸島に上陸すると、住民は始めてみる金髪碧眼のヨーロッパ人に驚き!神様が来たと勝手に思い込んでしまう。そして村をあげて手厚くもてなすが実際には彼らは野蛮な鬼で、そのご行なった彼らの蛮行により、インカなどの新大陸の文明文化はことごとく根絶やしにされてしまう。新大陸の原住民の多くが現在では征服された白人との混血である。そこで「秋田美人」と称され、色白の美女が多い秋田も、ロシア人の血が混ざっているのでは?と勝手に妄想している・・・。話は飛んだが、ウィルスなどの眼に見えない災いは現在でも神仏にすがるしかない部分もある。たった一瞬の気の緩みが命取りになる現在である!ナマハゲを呼んで、お払いでもしてもらいたい。
子供の頃は正月になると各戸に「獅子舞」がやってきた。真っ赤な獅子頭に緑と白の唐草模様の布を被り、家々の玄関先でパクパクくちを開けて舞い、災いを祓って歩く。料金は30円程度でも、たった数十秒のパフォーマンスなので稼ぎは悪くないと思っていた。当時の民家の玄関は殆んどが引き戸で、ガラガラと戸を開け家主に断りも無く勝手に進入してくる。金を渡さないと退散しない半ば押し売りまがいの人もいて、次第に相手にされなくなる。家の立替も進み防犯上簡単に玄関に入れなくなると、いつしか見かけなくなった。呼び鈴を押し「獅子舞です」と名乗れば、施錠を解く人もあまりいないと思う。現代は凄い!ウィルスの存在どころかその変異や抗体まで分かると、見えない災いを神頼みする人も減っていくのか?
あけましておめでとう御座います。本年も宜しくお願いします。厄払いをかねてナマハゲの写真を載せました。オセチに飽きたのでセリをいっぱいの秋田郷土料理キリタンポ鍋でもいただきたい。(勝田陶人舎・冨岡伸一)