青魚
「お魚くわえた野良猫、追いかけて・・・」これはサザエさんの漫画主題歌の歌い出しであるが、今の若い人にはこの情景が思い浮かばない人も、かなりいるのではないかと思う。サザエさんの漫画は長谷川町子が1946年に新聞に連載したのが初めてなので、時代背景は戦後の混乱期にその原点がある。当時私がこの漫画を目にした頃はカツオ君が、私より大分お兄ちゃんに感じたので、この漫画の長い歴史が読み取れる。その頃の一般的な東京近郊の住宅地に建つ殆んどの家は平屋で、二階家はまだ珍しかった。ときどき二階家であった近くの友だちの家へ遊びに行くと、その家の二階からの眺めは、かなり遠くまで見通すことが出来た。でもその家の二階に続く階段は急なので、何度か転げ落ちたことがある。
「こら、こいつめ!何するんだ」母親の大声に驚いた。我々が居間にいて雑談をしているすきに野良猫が侵入し、台所の調理代の上に飛び乗り昼食に食べるはずのサンマを、一尾くわえて逃げ去っていった。「まったく、油断もすきも無い」と母親は苦笑いをしていたが、この程度の事は日常の出来事であった。このようなことが頻発する原因は当時の住宅事情にある。ちょうどサンマの出始める夏場は暑い日々が続く、クーラーや冷蔵庫などは見たこともない時代なので、日中はどの家も窓や戸を開け放し、風を通して生活する。すると今しがた魚屋から買ってきたサンマの臭いは外に洩れ、当然猫の食欲を刺激することになる。当時の猫は今の猫より大胆で素早っしこかった。腹をすかした「ドロボウ猫」と呼ばれた野良猫も多く、生ゴミもほとんど家庭から出ないので、かなり極端な行動にも出た。
「この野郎、猫のくせに生意気だ!」我が家では特に大胆な行動にでる、一匹の野良猫を「かみさん猫」とあだ名し警戒していた。ところがこのオカミサン猫、私と道で遭遇しこちらが睨んでも動じる気配も無い!逆に立ち止まって睨み返されるしまつだ。「ちきしょう、いつか捕まえてこらしめてやる」の思いは増し、どうしたら捕まえられるかイロイロ考えたあげく、時々やって来る犬殺し(市の捕獲員)が仕掛ける罠が思いついた。猫の通り道に針金を輪にして垣根の竹に結び、猫の首に巻きついて締まる罠だ。罠を仕掛けて数日たったある日、庭から急に猫の泣き声がしたので自宅から飛び出た。しかし罠にかかった猫は近所の家の飼い猫であった。残念・・・。
でもこの頃「猫を空中に高く放り投げると身を翻し、必ず足からピタリと着地する」の噂を聞いていたので試してみたいと思っていた。結果は噂どおりでピタリと着地後、「フギャー」と泣いて一目散に消えていった。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
御焼き
御焼き
もう40年位前になるか?当時婦人靴デザイナーであった私は、デザイン契約をしていた銀座かねまつ・プールサイドという婦人靴専門店の依頼で、長野駅ビルへ新規出店する店舗の視察へ行ったことがあった。オープンまで数日の間に、商売繁盛祈願のため、スタッフ数人と市内にある善光寺さんへ詣でることにした。駅から長野鉄道に乗り、すぐの善光寺下で降りて参道に向かう。すると途中の土産物屋などの店頭では「御焼き」と呼ばれる饅頭がやたら目に付く。東京近郊では殆んどお目にかからないので試食のため、一軒の茶店に立ち寄ってみた。見た目は普通のこの焼き饅頭。二つに割ると中身は切ったお新香の高菜などの具材が覗くが、とりたて旨いものではなかった。
「この暗黒の通路、いったい何処まで続くのか!」壁伝いに手で探り、少しずつ前方に進んでいくと、やっと薄明かりが見えてきた。善光寺さんの本堂地下には「お戒壇めぐり」という死と生を擬似体験できるという真っ暗な回廊がある。「良い経験になるから絶対に中に入ったほうが良いよ」との地元スタッフの勧めで、料金を払い階段を下っていく。すると何度か回廊を折れるたびに暗くなる。そして今まで経験したことのない、全くの暗黒の闇に我々を誘っていった。あまりにも暗いのであちこちで笑いさえ聞こえてくる。「仏教で言う(無明)とはこのような世界なのか?」やはり私は阿弥陀仏にすがり(光明)に導かれたいなどと、勝手に解釈しその場を後にした。
闇といえば、戦後暫くは私の住む住宅地でも夜は真っ暗だった。そこでこのような夜道を歩くには、まだ提灯もつかわれることもあった。電力不足の戦後は停電も多く、暗くなり各家庭での電力使用が増すとじきに停電する。そこでマッチとロウソクは必需品で、手に取れる場所に常備そなえられていた。このような時に光の消えた砂利道を歩けば足をとられて転倒する。まして当時の狭い道の両端には、恐ろしい蓋のない側溝が口を開けて連なる。ここに足を落とせば汚れるだけではすまない。そこで昭和も30年代になると、庶民の間にも乾電池式の懐中電灯が普及し始めてくる。すると夜、銭湯に向かう時などには、この懐中電灯が役に立つ。これで足元を照らすと転倒も減った。道行く人の多くが懐中電灯を使うので、夜道はユラユラと揺れる光があちこちに点在していた。
最近では防災グッズ以外に懐中電灯の需要も無くなった。数年前トラブルで地域停電になった時に、とりあえずスマホの明かりでもことが足りた。
今後ブログは5、10日に配信します。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
水割り
水割り
高校二年生の夏休みが終わる頃、それまでバンやジュンのアイビールックでお洒落し、銀座をうろついていた私は急にそれら全てが馬鹿らしく思えてきた。「自分はいったい何のために、生まれてきたのだろう?」という漠然とした焦燥感に襲われ始める。最初はなんとなくの自我の目覚めが、徐々にはっきりと現れてきた。するとだんだん一人で考え込むことが多くなり、文学書などにその答えを求めるようになった。そして大学に入る頃からは哲学の本に代わり、「人が生きる価値とは何ぞや?」の観念的意味の追求へと進んでいく。こうなると観念の亡霊が自分に付きまとい、楽しいはずの青春時代が何をしても夢中になれず、他人事のように冷めた目で自分を傍観し続けた。
「自分は何のために生きているのだ?」いつしか完全に思索の迷路に迷い込んでしまって、出口を探っては本を読み漁る日々を過ごしていた。この悶々とした青春時代は四年ほど続いたが、徐々に思索の中には解決策など無いことが分かってきた。そして出口が見つからなければ入り口に戻ることを考えてみた。すると何も考えずに遊んでいた高校時代以前の楽しかった記憶がよみがえる。「やばい!自分は間違っていた、「人生とは観念的には生きる意味などはない。行動しつづけることにより、自分の思いどうりの人生を構築すことにが出来るのだ」。「俺は自由だ、好き勝手に生きるぞ」と心の中で宣言した。人間なにも考えない単純と思える仕事の中にこそ、生きる価値を見つけるべきではないか?よし明日から働くぞ!思い立ったら行動はいつも早い。
夕刊の求人広告欄を眺めていると、銀座のクラブでボーイ募集のバナー広告が目に入った。「いっちょボーイでもやってみるか?」と翌日面接に出かけ即採用となり、客に水割りを運ぶ仕事を選んだ。この時の仕事の条件は、なるたけ単純作業であること。土方でも良かったが54キロの貧相な身体では出来るわけがない。でもわれわれの青春時代は私のように、内省的に人生を考えるユトリがあった。しかし今の若者では人生を観念的に悩む子などあまり聞いたことがない。学校教育でも大量な情報と知識の詰め込みだけで、自然を眺めながら自分の人生を見つめ思索する時間など与えられない。近年知識の詰め込み教育から開放するためにユトリ教育が推進されたがうまくいかず、また詰め込み教育に戻っていった。
今の時代、若い人の青春時代の過ごし方は難しい。時代についていくために立ち止まって自分の人生を熟考する時間などない。常に新しいテクを学び続け疲労困憊している。時代はますます便利になるが「自由と幸福感」からは遠ざかっていく気がする。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
オリーブの実
オリーブの実
以前一年間、滞在していたイタリアの都市ペルージアのあるウンブリアは地方は、なだらかな丘陵地が続く。そのため低い場所の小麦畑の他は、殆んどがブドウ畑である。そしてその山すそには比較的乾燥に強いオリーブ畑も点在していて、典型的なイタリアの風光明媚な田園風景を映し出していた。イタリア半島の中南部ではいたる所にオリーブの木が植わっていて、オリーブの実はたくさんとれる。そのため当然オリーブの実は廉価で、例えばコーヒーやアルコールなどが飲めるバールのカウンターには、塩漬けの種付きオリーブの実が山盛りに入った器がカウンターに置いてあり、ビールのツマミに勝手に少量取ることができた。最近は我が家でもサラミや生ハムの添え物に、皿に乗った種無しオリーブが登場することが多くなった。
「次は俺の番だ!」シェーカーを振る姉の手さばきをじっと見ていた。そのころ二十歳を過ぎた長女はサントリーのカクテル教室に通っていたので、家に帰ると練習のためによくシェーカーを自宅で振っていた。「シェーカーは8の字型に振るのよ」と言いながら姉はその手を止めると、シェカーのキャップをゆっくりと開け、カクテルグラスに注ぎいれた。「これがマティーニか?」まだ高校生だった私はアルコールは、父親にたまに進められるビールぐらいしか飲んだことがないので、当然酒の味など分かるわけがなかった。でもその時このマティーニの中には、始めて見るオリーブの実が一個入っていて、緑色のその実の中央が不自然に赤くなっていた。そのときはあまり気にも留めずに口に含んだが、別に印象に残る味でもないと思った。
それから時が経ってオリーブが一般に出回り始めると、オリーブの実のセンターに種を抜いたと思われる穴が開いただけのオリーブの実も、同じビン詰めで見かけるようになった・・・。「するとあの赤い部分は何か別の素材なのか?」疑問に思い調べてみると、赤い部分はパプリカが詰められており、あくまでも飾りらしい。イタリア滞在中にはパプリカの入ったオリーブなど殆んど見かけなかったので、どうもカクテル用の飾りのオリーブではないのかと思う。確かにジンベースのマティーニは殆んど透明なので、カクテルグラスにただ注がれても味気ない。イタリアでは種つきオリーブなどタダ同然。それが種を取ると値が上がり、穴にパプリカを詰め装飾すると高級品に化けるのか?あの小さい実の種を抜き、パプリカの小片を差し込むのは確かに手間がかかりそうだ。
でも実際にはオリーブの値段はその産地やメーカーによるところが大きく、オリーブオイルも含め、その値段はピンきりで分かりにくいことが多い。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ブリの照り焼き
ブリの照り焼き
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村はずれへ、その工事を見物に行った。ただトロッコで土を運搬する、それが面白さで見に行ったのである・・・。(このくだりは文豪芥川龍之介が書いた短編小説トロッコの文頭であるが、通常男子は幼児から小学生位までは、電車から自動車まで動く乗り物ならなんにでも、興味をいだく年頃がある)そしてある夕方、良平は弟と同じ年の隣の子供と土工達の帰った隙に、トロッコを持ち出し遊ぶ。それから後日、土工に声をかけトロッコを押す手伝いをするうちに、遠くの場所まで行ってしまう。気がつくと夕暮れになり土工達と別れ、一人暗い線路を恐怖心を抱き、泣きながら帰宅することになった。このトロッコの小説に近い経験を私はしたことがある。
「お前達、危ないから絶対にトロッコに触るなよ!」の声を残し土工達は夕日を背にその現場から消えていった。遠巻きにその工事を眺めていた我々はその忠告を無視し、車輪にかっていた車止めをはずした。しかし良平のトロッコと違いその線路の長さはわずか50メートル余りしかない。それでも夕暮れの短い時間、押し役と乗り役に分かれ、交互に何度か繰り返し遊んでいた・・・。すると突然「痛え!」の声に驚いた。トロッコを押していた友だちの一人が足をトロッコにひかれた。うずくまる彼のズックを外し足を見ると、足の親指の爪から出血していた。痛さにうめき泣く彼を支え自宅まで送り届けた。でも当時はこの程度の怪我では医者にも行かず、赤チンをつけ包帯を巻いて自宅で直していた。
昭和も三十年代に入ると戦争の傷跡も徐々に癒えて、経済活動が本格的に復興し始めた。それにつれて地方から職を求めて人々が東京に集まってくる。そこで東京都に隣接する市川は彼らの住むベットタウンとして注目されるようになった。京成八幡駅から徒歩10分程の距離の、街外れにあった我が家の周辺でも田んぼを埋めて、宅地造成する工事があちこちで行なわれた。オート三輪車で運ばれてきた近くの丘を切り崩した赤土は、今のようにブルト―ザーがあるわけでなく、造成地の奥には車は入れない。そこで短い線路を引きトロッコに土砂を載せ運んでいたのだ。しかしそれから暫くするとベルトコンベアが登場し、トロッコはそれを最後に姿を消していった。
芥川龍之介の好きな食べ物といえば、ブリの照り焼きである。魚嫌いだった私も油の乗ったブリの照り焼きは大好きで、子供の頃から喜んで食べた記憶が残る。(勝田陶人舎・冨岡伸一)