カラスミ

コロナワクチンの医療従事者・先行接種も始まり、一年以上悩まされてきた流行病もそろそろ出口が見え始めてきた。4月以降からは一般の高齢者にもワクチン接種を開始する予定だが、先行して接種を始めたアメリカでは接種後の副作用が、結構悩ましいという情報も流れてくるのでなんとなく怖い・・・。特にファイザーのワクチンなど2度注射が必要なタイプのワクチンは、二回目接種後の発熱、倦怠感、痛みなどが激しいらしい。個人的にはワクチン接種に前向きであるが、とりあえず初回注射後に2度目の接種を受けるかどうか判断をしたいと思っている。最近の注射は昔と違って、あまり痛くないので助かる。注射針が極細に改良されたうえ、使い捨てなので注射による肝炎の感染もなくなった。

「日経平均、30年ぶりに高値更新!」などという景気の良いニュースが最近頻繁に流れてくるようになった。まだコロナが収束したわけでもなく、世の中の活気なども全く感じられないのに、株価だけはどんどん上がっていくようだ。昔から「不景気の株高」という言葉があるように、今回もまたコロナでどん底に落ちた景気を下支えするために、各国政府が財政出動し金をばら撒いている。自粛営業で仕事を失い食うや食わずの人もいるが、一部ではもらった金を金利のつかない預金よりも株式投資などにまわしている。そのため低金利の状態が今後も続くと、またあの30年前のバブル時代が再来する可能性が出てきた。

「伸ちゃん。家を買おうと思っているのだけれど、一緒に見に行ってくれないかなあ」と30年以上も前、近くの借家に住む姉夫婦から頼まれたことがあった。地図を便りに車を運転し、指定された住所に向かう。市川市北方の山すそに沿った道をたどると、背の高い家々が連なる地域にたどり着いた。「ここか?三階建て凄いじゃん!」待っていた不動産屋に案内され中に入ると、その家は一階が天井の高い駐車場で二階がキッチンとリビング、三階が洋間と和室という配置になっていた。しかし三階の勝手口を開け外に出ると唖然とした!そこには広々とした畑が連なる。その時に初めてこの家の立地に気づく。なんとその家は崖を背にして建っていたのだ。「冗談でしょう」姉と顔を見合わせ笑い転げた。「3800万円というから見に来たのに勘弁してよ!」とは姉の弁。

当時地価が毎年暴騰し、市川市内では一般人が購入できる住宅はこの程度であった。でもバブル時には私も高収入で、行きつけの近所の寿司屋でカラスミを食べ、食通を気取っていた。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

ナボナ

先日タンスの整理をしていたら、ほとんど忘れてかけていた切手のコレクションブックが何冊か出てきた。パラパラとページをめくると大型の切手「月と雁」が目に留まる。この切手は「見返り美人」と共に小学時代に憧れていた貴重な1枚である。当時は高価で取引されていて、小学生の小遣いではとても買える値段ではなかった。しかし現在値を調べるとたった千円前後の価格でしかない。通常は時が経過すればこれらの価値は高まるが、切手に関しては逆にどんどん値段が下がってきている。切手のコレクションがブームであった当時は、記念切手の価格は毎年上昇していった。1年も経つと価格が2倍になることもあるので、小遣い稼ぎのために子供達もこぞって切手を収集していた。

「もうこんなに人が並んでいるのか!」早朝友達と駆け足で市川郵便局に到着すると、すでに大勢の人達が入り口に押し寄せていた。「売切れてしまうかもしれないね?」と不安を抱きながら長い列の後ろについてみる。記念切手収集がブームのころ、切手発売日の朝はどこの郵便局も人々で賑わっていた。当時は封書の値段が10円であったので、ほとんどの記念切手の値段は10円であった。やっと手に入れた一枚の新しい切手をコレクションブックに、差し込むと嬉しさがこみ上げてきた。友達とはコレクションブックを見せ合い、同じ物を2枚持っていると交換などしていたが、そのご徐々にこの一大ブームも下火になっていった。

記念切手の収集が忘れ去られた後に、ブームとなったのがテレホンカードの収集である。人気アイドルのテレホンカードが高値で取引されて話題になった。しかし暫くして携帯電話が一般にも普及し始めると、公衆電話も街中から消えて需要がなくなりこのブームも終わった・・・。でも私には今も大切に保管している一枚のテレホンカードがある。それは30年以上も前に、読売巨人軍が日本シリーズに優勝した時のゴールドに輝く、記念テレホンカードである。ゴルフ会員権を買ったおまけでもらった一枚であるが、その後このゴルフ場は潰れて会員権は紙くずに!なんとも高いテレホンカードになっている。このカードは巨人軍の元選手であった国松さんとの縁で、ゴルフ場のオーナーが手に入れ会員に配ったそうだ。

「ナボナはお菓子のホームラン王です」。王選手のコマーシャルで有名になったナボナは国松選手の奥さん実家である。しかしこのナボナも先日シャトレーゼに買収された。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

玉コンニャク

日本人はコンニャクという海外の人から見ると、摩訶不思議な食べ物を口にしている。コンニャクはタイやマレーシアなど熱帯地方が原産国であるため、日本へは中国を経由して奈良時代に仏教と共に入ってきたらしい。実はコンニャクは芋の中に、日本で劇薬指定されているシュウ酸という物質が大量に含まれていて、そのまま食べると死ぬこともあるそうだ。そこで現地ではコンニャクは誰も食べず野生のまま放置されているときく。でも日本人はそのコンニャク芋をすり潰し、消石灰を加えて灰汁抜きすれば毒が中和され食用になる事を発見した。ところがこの作業をする時はゴム手袋をしないと、灰汁で手にかなりのダメージを受ける。

「男がコンニャクを食べると玉玉の砂払いになる」と子供のころ父親に聞いたことがあったが、あれって本当なのか?ふと思い出したので調べてみると、コンニャクに入ってる砂が(本当は砂ではない)消化器官の掃除をするという言い伝えがあり、昔の人はそれを信じていたという。でもコンニャクには食物繊維が豊富に含まれており、食べると便通がよくなるのは事実である。最近私も歳のせいで尿管に石がつかえて時々シクシクと違和感を感じる。数年前には尿道結石の痛みで七転八倒、真夜中に病院に駆け込んだことがある。まさかコンニャクが尿道の石を排出してくれるとは思わないが、いずれにしてもコンニャクは消化器系にはいろいろと効果がありそうだ。

コンニャクも良いけどあの独特の臭い、何とかならないのか?そう思う人は私だけではないと思う。コンニャクの臭いの元はコンニャク芋に含まれる、トリメチルアミンという魚にも含まれる生臭い物質だそうで、化学薬品などの臭いではない・・・。歴史的に見るとコンニャクは江戸時代までは水戸藩の専売品で、勝手に栽培することができなかった。しかし維新後にその専売が外れて北関東に広まったらしい。今ではコンニャクといえば群馬県が有名であり、その生産量の90パーセントを作っている。しかし消費は山形県が日本一で、玉コンニャクとして多く食されている。コンニャクはカロリーが少なくダイエット食品として最近注目されており、世界的にも広まる傾向にある。

コンニャクを畑で連作すると病害虫に弱くなり、沢山の農薬や消毒液が必要という。それを見ているコンニャク畑の近くに住む人は、コンニャクは絶対に食べないという人が多いとか!(勝田陶人舎・冨岡伸一)

釜揚げウドン

昨年コロナ禍ではあったが、本八幡駅の南東に位置するニッケコルトンプラザという、ショッピングセンターに出かけてみた。ここにある東宝シネマズでは時々映画鑑賞をする。映画を見る前、ちょうど昼時であったので併設されているフードコートに行ってみた。するといくつかの飲食店の中に「丸亀製麺所」という名のウドン屋の前に人の列が出来ている。「そんなに旨いのか?」ためしにここを選ぶことにした。通常せっかちな私は列に並ぶことなどしないが、この日は違った。そして順番が来たので釜揚げウドンをたのんでみると、なんと最近ではほとんど見かけない、木桶の器で差し出された。「木の桶か?なんとなくレトロでいいじゃん」。と思いながらテーブルにつき箸を取ると、麺ごしもあり味も悪くなかった。

食事の後、ぼんやりとヒノキ桶を見ていると、昔の映像が脳裏に浮かんだ。プラスチックがまだ普及してない子どもの頃は、様々な木の容器が使われてた。大きい物では家庭の風呂の浴槽、そして銭湯の洗い桶、ご飯のオヒツ、洗濯桶など様々な家庭用品がまだ木製であった。「風が吹くと桶屋が儲かる!」などという言葉もよく使った。この意味は空っ風が強めに吹くと湿った桶が乾燥し、縮んでバラバラになる。その結果壊れた桶を修理する仕事が増え、桶屋が繁盛する。当時はまだ実際に桶屋という商売が存在していた。小学校へ通う道に面したクラスメートの女子の家は桶屋であった。帰宅時に庭先で桶を作るおじさんの姿は、今だに記憶から消えることはない。

あの天才絵師・北斎の浮世絵の一つに、巨大な桶を職人が作る風景を描いた有名な版画がある。何を貯蔵するためにあのような大桶が使われたかは知らないが、現代でも味噌や醤油などの老舗工場では、今だに木の大樽を使っている所もある。木の樽には発酵菌などが棲んでいて、熟成には都合が良いらしい。自宅の風呂桶も昔はヒノキであった。新しいヒノキの浴槽は木の香りがして浸かっていると、とてもリラックス出来た。しかし数年使うと淵の部分から痛んできたり、ヌメリが出たりで不衛生になる。ヒノキ風呂の頃は風呂焚きにはまだ石炭が使われていて、数分おきに火の状態を監視した。そのご石炭がガスに代わると浴槽も丈夫なステンレス製になる。いまでは給湯器の普及でスイッチオンですべてが完了!時代の推移を感じる。

「お風呂が沸きました」などと優しく女性の声で知らせてくれる今の給湯器!未来は体まで洗ってくれる洗濯機のような浴槽の出現もあるかも?

(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

 

昭和30年当時まで自宅近くにあった「石渡」という名の乾物屋にお使いで行くと、ピンク色に染まる鱈のデンブにいつも目が留まる。およそ食品として違和感を感じるその色はどこか怪しげで、私の好奇心を刺激していた。我が家では両親もこのデンブが嫌いで殆んど食卓にあがることはなかったが、興味半分で一度母親に頼んで買ってもらったことがある。でも食べてみるとその味はただ甘いだけで何の感慨も湧かなかった・・・。それから時が経過し中年になると、趣味で通っていた赤坂の料理教室「柳原」では、これとは違う色のデンブの作り方を教わった。その方法はまず茹でた鱈の身をほぐし、布巾に包んで揉みながら水道水で水洗いする。すると身が分かれて細かく糸のような繊維状になった。それを佃煮のように醤油煮すれば完成する。

そういえば最近タラのデンブと共に棒ダラも見ることはまれだ。カチカチに固まった板のような棒ダラを手で裂き軽く火で炙ると、簡単なおやつになる。「これを噛めば顎が丈夫になるよ」と母親から手渡されが、スルメと同様に噛んだりしゃぶったりと、口の中に留まる時間が長くなるので、空腹を満たすにはもってこいの食料でもあった・・・。今の子供達は硬い乾物や豆類などをあまり食べない。そのため顎の発達が弱く、四角い顔の子が減っているように思える。頑張る時には奥歯を強く噛み締めるので、顎が弱いと当然根性の無い子に育つとされた。「お前男だろ。もう一度行ってぶっ飛ばしてこい!」むかしは取っ組み合いの喧嘩などをして泣いて帰ってくると、こうけしかける親もいた。

「男は体を張って国や家族を守るために絶対に負けるな」戦後はまだ今では考えられない教育をしていた。学校でも親が先生に「うちの子、言うことを聞かなかったら、ビシビシなぐってください!」などと平気で進言していたので、当時の男子は先生によく殴られた。平手で殴られ鼓膜が破れることもあったが、それでも親が学校に文句を言うことも少なかった。でもやられたらやり返す!私は中高男子一貫校に進学したので6年間ずっと同じ学校にかよった。するとまだ身体の小さかった中学時代に先生に殴られて恨みを持つ子もいる。そこで「おぼえてろよ!」と高校三年の卒業式に仕返しを夢想する。でも実際に実行する子は少なかったが、先輩の何人かがこれをやった。卒業式のあと自転車で帰る暴力教師を数人で待ち伏せ、後ろから押して「ひと風呂浴びてこい!」と学校横のまだ冷たい早春の小川に突き落としたのだ。

後輩のわれわれもその話を聞いて「ざまあみろ!」と拍手喝采だった。するとその後、この(タコというあだ名)非常勤の音楽教師は卒業式に顔を出すことはなかった。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

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