
アスパラジー
子どものころ洋食好きだった父親がある時、明治屋のホワイトアスパラガスの缶詰を買って帰った。当時まだ缶詰のラベルは缶に直接印刷されずに、無地の缶の上に紙のラベルが巻かれていてた。記憶をたどると確か紺の地色に白いアスパラ数本が、ピンクリボンで束ねた図柄だったと思う。「アスパラガスって何だろう」初めての経験に興味深々で見ていると、父親が缶切りを持ち出し缶詰を開ける準備をする。「アスパラの缶詰はなあ、缶をひっくり返し下から開けるんだ。そうしないとせっかくの綺麗なアスパラガスの穂先が、缶きりで傷つく」と言いながら缶詰を開いた。すると中から真っ白いアスパラがヌルットすべり出てきた。「わー、すごーい!」美しいその姿にうっとり。
しかし当時、缶詰を開けるのはなかなか苦労した。まず缶の仕様が同じでない。缶詰の蓋の部分に缶きりのガードがないものも多く、今の様な缶切りでは開けることが出来ない。だから缶きりの種類もいろいろで、最近では見ないユニークなものがあった。最初に缶詰の中央に先端の尖ったキリで穴を開け、そこを支点に缶を回しながら上下に切り進むタイプ。これは結構大変なので、半分も開けると後は強引に手でこじ開け流しだす。しかしアスパラガスは柔らかくてデリケート。父親は頑張って最後まで綺麗に缶の蓋を切り取った。でも出てきたアスパラの数は10本弱で家族6人で分けると1,2本である。
アスパラは当時まだ珍しかったマヨネーズをつけて食べた。マヨネーズも今のようにチューブでなく、ビン詰めだったので蓋を開けスプーンでとりだし、皿に置かれた一本のアスパラの横に添える。長いアスパラは箸では切れないのでマヨネーズをつけながらチビチビと噛む・・・。初めて食べた真っ白いアスパラとマヨネーズは生涯記憶に留まることになる。それから暫くのあいだ日本では缶詰の白アスパラだけしか市場に出回ってなかったと思う。ところが20年が経過したある日、春になったイタリアの八百屋の店頭に沢山のグリーンアスパラが並ぶ「アスパラって本当はグリーンなのか?」その時初めてグリーンアスパラの存在を知る。ドレッシングで食べるレストランのグリーンアスパラは実に美味かった。でも帰国して数年経つと北海道で大量に作られるようになり急速に一般化した。
イタリア語でアスパラはアスパラジーと言い春季限定の人気サラダであった。今日本ではアスパラは一年中多く出回っており、別に感動や季節感も無い。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ダンヒル

ダンヒル
病院の職員さんでも今だにタバコを吸う人がいる。自ら率先して禁煙を指導する立場の人が禁煙できないとは情けない。私の工房横には勝田台病院という名の病院があるが、数年前に院内が禁煙になると院外の私の工房脇で、一部職員が隠れるようにタバコを吸っていた。しかしこの場所も喫煙禁止になったようで、ひっそりと灰皿として吊るされていた缶もはずされた。でも休憩時間などに病院から離れた場所で、まだタバコをくわえる人を見かける。酒は飲むがタバコを吸わない私はどうしても喫煙者に注ぐ視線はきびしい。数年後には小さな飲食店でも全面禁煙にする法改正などもあり、喫煙者にとっては肩身が狭くなる一方である。「私は意志が強い!強いので喫煙は絶対に止めない」といった友人がいたが、確かに今だに止めないのは意思が強いのかも?
「冨岡さん、店のマッチのデザインしてよ!」大学生の頃、新しく開店したばかりの「レモン」という名のスナックに通い始めると、この店のマスターから絵を描くのが好きだと知った私に、マッチ箱のデザイン依頼があった。早速レモンの輪切りや外形を並べた下書きを、翌日マスターに見せると「これ良いねえ!ありがとう」と即採用になったが、ギャラは店でのビール2本だけ!でもこれがその後デザイナーになった私の生涯初仕事になった。当時はどこの店でも籠に入ったサービスマッチ箱がカウンターに置いてあり、自由に貰えたのでマッチ収集を趣味にする人もいた。私のこのパッケージ意匠の評判はよく「タバコを吸わない人でも持ち帰る人が多い」とマスターから聞いた。
ところであんなに何処にでも転がっていたマッチが、最近では全く見かけない。喫煙者も少なくなったので需要がなくなったのだと思うが、代わりに登場した百円ライターですら最近では見る機会が少ない。「どうだー、このライター良いだろう!」むかしよくダンヒルなどの高額のライターをこれ見よがしに取り出し、自慢げにタバコに火をつける奴が結構いたもんだ。飲み屋の女性も持っているライターと腕時計のブランドで、客の品定めをすると聞いたこともある。当時浅草の仕事場近くのラーメン屋のマスターと時々飲みに行ったが、厨房で中華鍋を振る彼のゴツイ手に巻かれたロレックスの高額時計と、タバコを吸う時に取り出した細いダンヒルのライターが、太い指とアンバランスでユーモアを感じた。
腕時計は高校入学時に父親から銀座和光で買ってもらったセイコーの一本だけで、その後腕時計はしない。ライターは百円ライターとマッチがお気に入り。とうぜん財布は持たず何時もポケットに現金を忍ばせて通した。でも携帯電話を使うとバックを下げ、パスモを使い始めると財布が必要になった。
(勝田陶人舎・冨岡伸一)
ティーシャツ

ティーシャツ
「レナウーン、レナウン、レナウン、レナウン娘が、お洒落でシックなレナウン娘が、わんさか、わんさか、イェーイ、イェーイ、イェイ、イェーイ・・・」と日頃のウップンを晴らし、むかし爆発的に流行ったこのレナウンのコマーシャルソングに乗って、今日は軽快に行ってみよう!ワンサカ娘というこの歌、登場したのは日本が高度成長を始めた1967年である。作詞は小林亜星さんで当時歌手として人気のあった弘田三枝子が歌を歌った。なにしろ当時この衝撃的な曲と共に発売された、レナウンのイェイ・イェ、ブランドの服は斬新であった。それまで無かった、カラフルで大胆なボーダー柄の色使いのセーターと、流行り始めたスリムなミニスカートやパンタロンの組み合わせは、若い女性の心を捉え爆発的に売り上げを伸ばした。
ファッション産業は未来産業である!このころアパレルなどのファッション産業は自動車、家電業界と共に、これから伸びる産業として非常に注目されていた。私もその言葉に刺激されファッション産業に係わることになる。私が大手婦人靴問屋に入社したのが1971年であったので、確かにそれからバブル崩壊までの20年間は右肩上がりで業界は伸びていった。日本の経済成長と共に裕福になった女性達は競ってオシャレを楽しむようになり、洋服代に金をたくさん使った。オシャレ好きな女性達の中にからは購入者では飽き足らず「ブティク」とよばれた洋品店を自分で開店し、品揃えやコーディネートを競い合う人もいた。あまり繁華でない街中にも個人経営のブティクは進出したが、今では殆んど見かけない。
先月レナウンが倒産というニュースが飛び込んできた。前から経営が厳しいという噂は聞いていたので、別に驚きはしない。ただアパレルの優良会社であったオンワードや三陽商会なども売り上げが年々減少し、何年か先には破綻する可能性もあると聞くと時代の盛衰を感じざるえない。「これからはスマホの時代です」数年前に亡くなった、あのアップルの創業者スティーブ・ジョブスは株式総会でスマホを掲げて誇らしく叫んだ。そのような大舞台でも彼の衣服はティー・シャツにジーンズの上下で一万円前後!「むだな衣類などに金を使わず、これからはもっと通信に金を使うべきですよ」というメッセージに見えた。その他アマゾンのベゾス、フェースブックのザッカーバーグ氏などネット系の大金持ちは皆ラフな、ティー・シャツにジーンズ姿である。
最近口紅などの化粧品の売り上げも減っているという。確かにマスクをしていれば口紅なども付ける必要も無い。着飾ることもなければ、化粧もしない。するとこれからの女性はボディーシェイプとインテリジェンス、中身が勝負になりますか?(勝田陶人舎・冨岡伸一)
オモテナシ

オモテナシ
私は朝10時開店と同時に百貨店に入店するのは凄く抵抗を感じる。「いらっしゃいませ」と店員さんやテナント販売員さんたちが、深々とお辞儀をし笑顔で出迎えてくれるのは良いのだが、彼らの視線を浴びて目的の売り場まで中央突破するのは二の足を踏む。しかしこの感覚は私の個人的なもので、他の人も同様であるとも思えない?そのため百貨店独特のこのセレモニーを避けるため、入り口付近で時間を潰し10分遅れで入店することもある。そして売り場に到着後も、こちらがまだ品定めをしている最中に「いかがですか?」などと店員さんが近寄ってくると、捜すふりをして立ち去ることもあった。でも百貨店とは元来オモテナシを受けたい人の店なのだから、こんな客は量販店で購入すればよい。
いっぽう接客といえばこの半世紀で激変したのは、交通機関の職員ではないだろうか。とくに国鉄がJRに変わる前の職員の対応などはひどかった。電車に乗せてやるという感覚が強く、鉄道はサービス業という自覚などは全く無かった。乗り換え時間を職員に聞いても、めんどくさそうに対応するので気分を害することもあった・・・。「今度の旅行とても楽しかったわよ、案内の職員さんが面白くてさあ、あんな良い人が国鉄にもいるのね!」当時たまたま国鉄の企画する旅行に参加した母親が、帰宅するなり開口一番言い放ったことがある。国鉄は明治維新後、失職した武士たちの受け皿となっていたため、職員は気位が高く頭を下げることなどしない。これがずっと伝統になっていたので、母親にはかなりの驚きであったようである。
いま百貨店はどこも休業状態だったので直近の決算は大赤字である。インバウンドの中国人客も殆んどゼロで、このままだと倒産しかねない。でも百貨店の売り上げ減少に歯止めをかけるための秘策などあるのか?先日ある百貨店の社長がその解決策として、より高いオモテナシの心とコンサルタントとしての販売員のスキル向上を上げていたが今のネット社会、スマホひとつあればどんな情報でも瞬時に入手できる。これからソーシャルディスタンスが常態化すると、売り場は無人で商品タグにスマホをかざせば、瞬時に商品情報が見られるほうがよいのではないか?対面でのていねいな接客が売りであったデパート、すでに不要に感じる接客に固執するとガラ系に沈んでいく。
この感染症により10年かかるとされた時代の変革が、いま急激に進み始めた。オリンピックを目指し推進してきたオモテナシの接客も近未来には、余分なものとして葬りされかねない。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
お辞儀

お辞儀
(三尺下がって師の影を踏まず)という諺があるが、三尺は約1メートル位である。ではもっと(三歩下がって師の影を踏まず)はどうだろう?これならちょうど2メートルになるのではないか。弟子は師に礼をつくすため少し離れて後ろを歩く。昔から続いてきたこのような習慣は、戦後しばらくはまだ一般的であったと思う。私の両親も外出時に、母はいつも父の少し後ろを歩き、話しながらの夫婦並列歩行など見たことがなかった。当時たまに男女が楽しそうに密着歩行していても人目が気になり、誰かに遭遇するとサッと離れた。ところが私が高校に入学すると、先に卒業し百貨店に就職した近所の先輩が、ニコニコしながら堂々と彼女を連れて腕を組み、自慢げに歩くのに出会った。「アメリカ人の真似ですか!」とこの時は何かカルチャーショックを感じた。
しかしそれから数年もするとこの男女密着歩行はあっという間に、若者達のあいだに浸透していったのだ。日本人は伝統的に人との密な接触を避ける民族であると思う。特に挨拶では他の民族との違いが顕著である。離れてお辞儀をし握手やハグなどは無し。ましてホッペにするチークキスなど言語道断!あんなばつの悪い行為は絶対に嫌う!チークキスは慣れないとそのタイミングがすごく難しい。気後れするとギコチなく絵にならない。それに日本人は会話中にボディータッチなども殆んどしない。むかしイタリアで出会った靴学校の初老先生リナーテ氏はさりげなく女性にタッチをしていたが、あんなこと今の俺がやったら「触り魔のエロジジイ」と罵倒される。
でも人との密着を避けようとする日本人のこの習慣、今やソーシャルディスタンスとして、世界中から注目されトレンドになっている。逆に気の毒なのがボディータッチの好きなイタリア、スペインなどのラテン系の人々である。ベタベタと密着するから多くの人がコロナに感染して死亡している。でも彼らが日本人をまねて距離をおき、お辞儀をするようになったら、これまた不恰好で不自然だ。(ウィズ・コロナ)コロナと共存する生活が長く続くようだと、それぞれの民族で長く培った慣習や風俗も変わっていくのかもしれない・・・。「日本人は日常、なぜマスクなどするんだ」とアメリカ人はいぶかっていた。もしアメリカでマスクして街を歩いたら、強盗に間違えられて射殺されることもあるぞと・・・。
そのアメリカ人でも命は惜しいのか?いま急速にマスクの着用が根付きはじめている。挨拶に距離をとることや、日常のマスク着用、頻繁な手洗いなど几帳面な日本人の習慣が注目されるのも恐ろしい時代だ。(勝田陶人舎・冨岡伸一)
