肝油

私が小学生の時に給食で飲まされた脱脂粉乳と共に、苦手だったのが肝油である。パパーゼリーとも呼ばれなんとなく聞えはいいが、これが実にうまくない。15ミリほどの半球形の大きさの黄色いジェリー状の塊の外側には、砂糖がまぶしてあるが噛むとなんとも言えずいやな臭いと味がした。鮫の肝臓から作られているというこの肝油は、小学校の給食の時間になると毎日先生が、各自に2個ずつ配る。これを生徒は先生の見ている前で、半強制的に食べさせられるのだ。当時の児童はまだ一般的に食糧難で栄養のバランスが充分でなく、今のサプリメントのように子供の補助食品として摂取が強制されていた。特に夏休みには毎日食べるようにと一缶配られるが、ほとんど食べずにそのまま捨てていた。

それと新学期になり、必ず受ける各種の予防注射は最悪だ!ツベルクリン、ジフテリア、チフス、日本脳炎、種痘、など毎週のように保健室に連れて行かれ注射をうたれる。当時は針も太く今の注射よりも痛い。針も使いまわしで医者は脱脂綿で軽く拭いて消毒するだけ、これで肝炎を移された児童も多いと聞く。また当時は結核が非常に流行っていて、ツベルクリンに陰性だと待っているのが、もっとも怖い注射BCGだ!この注射はとても痛い上に必ず化膿する。私は直るまでに二ヶ月ぐらいかかることもあった。そこでツベルクリンの検査の時には陽性反応に見せるかけるために、注射痕を叩いてわざと赤くしたりしていたが、直ぐに色が消えバレる。医者の目を子供が簡単にごまかせるわけない。

「おかあちゃんー!」と泣きながら教室を飛び出し校庭を駆け抜け、校門へ向かう二人の男の子がいる。「また、ヤッちゃんとタカちゃんか」男の子の中には本当に怖がりな子がいた。注射の日を予告すると欠席するので、注射の日は予告無しで突然に保健室へ連れて行かれる。するとそれを察知した気弱な男の子が突然泣き叫び、校舎を後に自宅へとんで帰る。でも女子にはこんな臆病な子はいなかった。むかしの小学一年生はユニークな子がたくさんいた。まだ幼稚園に通っていた子が少なかったので、いきなりの集団生活に全くついていけない。野山を駈けずり回っていたガキが突然教室で50分もジッとしていられる分けがない。

始業式から一週間ぐらいは朝学校に行くとと、隣のクラスの男子と集団で戦争をする。入り口の戸を閉め篭城する彼らに、廊下の横の吐き出し口を開けバケツの水を教室にぶちまけたりした。もうメチャクチャで慣れるまでに一ヶ月くらいかかった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

煎餅

浅草浅草寺の仲見世裏通りに、一軒の手焼き煎餅屋がある。ここでは常時煎餅を店頭で焼いていて、一枚から販売している。外国人達には珍しさも手伝ってか、煎餅の一枚売りは人気がある。でも買っているのは主に観光客で一枚売りでは手間がかかるだけで、儲けになるかどうかは分からない。最近日本人は煎餅を日常食べる人が減っていて、街中での煎餅屋は殆んどが廃業した。今も残っている多くは、神社仏閣などがある門前町にある。人で賑わう仲見世通りを歩くと、レンタル貸しの和服を着て楽しんで歩く外国人を見うけるが、彼らは高い買い物はしないという。常に観光客で混雑するだけで食べ残しのゴミは捨てるし、掃除も大変だと浅草観光協会の担当者がこぼしていた。

「こりゃなんだ?」日本から持ってきた醤油味の煎餅を、以前イタリア人に日本のクッキーだと言い食べさせてみたことがあった。クッキーは甘いものだと頭から思っているので、食べた時のリアクションが面白い。多くの人は驚いて吐き出したりもする。「これ旨いね」と言って全部食べる人などまずいないなかった。醤油など塩味の菓子は欧米ではあまり見かけない、欧米人は日本人から比べると食域がかなり狭い。だいたい毎日同じものを食べているので、新しい味覚を受け入れる気持ちもなかったが、彼らも最近では和食を取り入れ始めた。我々が子供の頃は日本人も毎日同じ物を食べていた。ご飯、お新香、味噌汁、魚の干物などである。でもこれは食域が狭いというより、食材が殆んどなかったと言うべきである。

煎餅やオカキなどの甘くないお菓子がこれほど沢山ある日本は、世界でも珍しいと思う。どこの国でもお菓子は甘いのが一般的で、まして子供のおやつ等ではなおさらだ。日本でも子供がおやつに煎餅を食べなくなってから久しい。その代わりにオカキの種類はずっと増えた。食べやすい大きさのオカキは一個ずつ包装されていて、手に取りやすいのもよい。最近私もビールのつまみにオカキを食べることがある。オカキは砂糖の糖分がなく、ダイエット効果があるのではないかと単純に思うが、体の中でデンプンを糖分に変えたら、結局は同じことなのかもしれない。煎餅は食べなくなったが、オカキとして日本人の味覚にしっかり継承されると良いと思う。

煎餅を入れるなら写真のこの器でしょうか。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

コカ・コーラ

コカコーラという飲み物に、最初に出会ったのは小学5年生の頃だったと思う。当時は熱狂的なジャイアンツ・ファンで時々父親に連れられ後楽園球場に巨人軍の応援に行っていた。特に同じ千葉県出身の長島選手は自宅の近くで一度見たことがあり、近親間を感じていた。スタンドに座って長島選手の動きなどを見ていると「コカコーラいかがですか」という売り子の声があちらこちらで聞こえてくる。「はて、コカコーラっていったいなんだよ」父親に聞いても知らないという。注文があるとボトルの栓を開け、ビンごと手渡していた。今まで見たこともない変わったか形のビンの、茶色い飲み物はどうも炭酸飲料らしいのだが、値段も高いので買わずにいた。

家業の手伝いで良く日本橋の三越に通っていた私は、三越の売り場の事なら熟知していた。納品の母親を待つあいだの2時間ほど三越の店内をぶらつく、特に屋上には木馬などの遊び道具もあり、ここで時間をつぶしていた・・・。しばらくするとその三越の屋上の売店でもコカコーラを新しく売り出したので、試しに買ってみることにした。(それまでのラムネ、サイダー、メロンなどのソーダ類と違って爽やかな色じゃない)注意深くそっと慎重に少し口に含む。すると薬のようなその味は余りにもまずいので、思わず口から吐き出しそうになったが、我慢をして飲み込んだ。「なんだこの味は、正露丸を炭酸で薄めたようだ!」それでもせっかく買ったので三口ほどのんで残りは捨てた。

これがコカコーラと出会った最初の印象である。もう二度と買うまいと思ったが、それからしばらくするとコカコーラが話題になり始め、コーラ売る店が徐々にふえた。それではと再度トライしてみると、今度は味の印象が全く違う。「へー、旨いじゃんこれ!」コカコーラもビールと同じで舌先で少しずつ飲むとまずいが、慣れていっきに喉越しで飲むと旨いのだ。そして日本にコカコーラの一大ブームがやってきて全国に広まっていったが、余り流行ると例のごとく各方面からいろいろ批判する人がでてくる、コカコーラは骨を溶かすなど有毒説や太る原因説まで飛び出し、時代と共に徐々に甘い飲料は飽きられていった。

今では健康志向もあってか、コカコーラの自動販売機でも無糖のお茶などに人気がある。1960年代の若者はアメリカの文化に憧れてポップスを聴きながらゴーゴーを踊り、コーラを飲む事が流行った時代もあったのだ。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

春も本番となりいよいよ筍のシーズンである。竹かんむりに旬と書く筍はまさに旬の料理の代表でもある。毎年この時期になると我が家でも竹の子はよく食べる。しかし去年は不作で竹の子が食卓に一度も上がらなかった。今年は豊作なのか、竹の子の登場が例年より早く、先週もう竹の子料理をたべた。竹の子はなぜか人から頂くことが多い。いつも最初に人から頂く竹の子は大変ありがたいが、だんだんにそのありがたみ軽減していく。4,5回目にもなると湯がくのも大変なので、もらってもその辺に放ったらかしになる。

以前、浅草寺裏の小料理屋の前を通ると、店先で皮付きの竹の子を丸ごと七輪で焼いている。「あれ、竹の子って焼いて食べるの?」始めて見た光景だった。その匂いにつられて「珍しいから、試してみるか」と友人が言うので、店に入ってみることにした。さっそく竹の子焼きをオーダーしたが、焼いている時の匂いほどは旨くない。「なんだ、この程度か!」結局この店の惣菜は、そのほか何を食べてもあまり旨くなかった。それから後日に何度かこの店の前を通ったが、このシーズンいつも店先で竹の子を夕方焼いている。竹の子焼きは香りで客を釣る道具だったのか?我々のように匂いにつられる単純な奴も、結構世の中にはいるのであろう。

子供の頃、母親が竹の子を買ってくると非常に嬉しかった。竹の子ご飯や料理でなく、竹の子の皮が目当てだ!竹の子の芯に近い柔らかな皮を探し、梅干しを入れて皮で包む。そしてそれを角の隙間から「チュウ、チュウ」吸うと梅干しが少しずつ出てくる。竹の香りもしてこれが結構いけるのだ。最後に梅干しの浸み込んだ竹の皮をかじると、一個の梅でも長く楽しめた。今ではこんな食べ方はほとんど忘れられたが、竹の子を見ると思い出す。むかしの梅干は塩分が多く塩辛かった。そこで弁当には梅干を一個ご飯の真ん中入れると腐りにくく、その塩気でご飯も進んだ。

写真の皿に竹の子の煮物を盛り、山椒の葉をトッピング、グッド?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

 

チャーハン

私が小学校5年生の春、父親がやっと結核で2年間の長い闘病生活のあと自宅に戻ってきた。元気になった父親は体力を回復させるために、より食べ物に執着するようになった。「なにか旨い食べ物はないか」と父親は私を連れ、好きな中華料理屋探訪をすることになる。学校が昼までの短縮授業でお弁当のない日、通常午後母親は納品で自宅にいない。そこで父親が私を自転車の後ろに乗せて二人で外食する。行き先は自転車で行ける範囲の市内の中華料理屋だ。よく行ったのが市川真間駅近くの50番、平田郵便局ななめ前の「万来飯店」(ここは当時、巨人に入団したての王貞治選手のおじさんの店で人気があった)それに本八幡駅近くの一番街にあった夕梅である。

「チャーハンは万来飯店が旨い!」と父親はいう。ここは中国人店主がつくる市内唯一の本格中華料理店だった。この店ではチャーハンには普通のチャーハンと五目チャーハンの二種類があって、具沢山の五目チャーハンにはほぐした缶詰の蟹がはいっていた。私はほのかに蟹の香りがして風味が良いと感じた。すると「違うんだよな?」と父が首をかしげる。「ええ?」と戸惑う私に、[違うんだよ、これじゃない!」。「いまのチャーハンはどの店に行っても、むかし食べたチャーハンと違って、あの独特の香りがない」そして父が「あの香りは麻薬だったのかもしれない」と冗談に続けた・・・。

それからその香りを求めて横浜の中華街にも遠路、家族で時々足を運んだ。しかし当時から有名だった聘珍楼、萬珍楼など、どこの店のチャーハンもあの香りはしないと言っていた。その父親も結局20年以上前になくなったが、中華料理の巨匠である陳健一さんがテレビで、以前「親父の作ってくれたチャーハンは香りがあって旨かった!あのチャーハンの味は今だに忘れない」といっていたが、もしかして?と思ったことがある。たかがチャーハン、されどチャーハンである。でも昔のチャーハンは普通の店でもちゃんと型に取り、グリーンピースが色添えにトッピングされていた。でもあのグリーンピース、どうして今のチャーハンから消えたのであろうか?

チャーハンは好きで今でも時々たべる。でも駅前の日高屋のチャーハンでは安いが、能書きのたれようがない。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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