居酒屋

ケーブルテレビの旅チャンネルで放映している、日本居酒屋紀行という番組はよく見ていた。全国の歴史ある居酒屋や個性的な居酒屋を太田和彦さんが訪ね歩く番組だが、酒好きにはたまらない。時間と金があったら自分も是非一度やってみたいと思う。その土地ならではの、地酒と肴を味わい軽くコメントをする。「なんと贅沢な道楽だ!」でもこの居酒屋という呼び名、私の若い頃はほとんど耳にしない言葉であった。当時は単に飲み屋、赤提灯、焼き鳥屋、ビヤホール、小料理屋などと呼び微妙な感覚で分けていた。しかし1980年代に飲み屋の大手チェーン店が居酒屋と称されると、語呂がよいのか?いつのまにかみんな居酒屋と呼ぶようになった。

でも最近、個人経営の居酒屋が減ってきた。バブル崩壊以降に進出し始めた一部の安価な居酒屋チェーンが急速に出店を拡大し、地元の個人経営の居酒屋を駆逐していった。大手のチェーン店の居酒屋は明朗会計で、広い店舗で個室のように隣との仕切りもあり使い勝手は非常によい。昔は鮨屋でも飲み屋でも明細のレシートがないのでお会計はいい加減で「なんでこんな値段なの!」と思うことが度々であるが顔なじみになると、ツケもきいて金がなくても酒が飲める便利さもあった。(今の若い人はツケのきいた時代などは全く知らないであろう?)店側もたまには貸し倒れもあるので、その分上乗せすることもあったようだった。

「釣はいらないよ、家でも買っておくれ!」これは昔、飲み友達であった先輩山ちゃんの口癖である。彼とはお会計は基本割り勘にはしない、必ずはしごするので交互に払う。値段の高低は微妙に調整していき、千円二千円のつり銭はチップで渡す。(とり合えずかっこつけて帰る)一昔前の飲み屋での金銭感覚は通常こんなもんだが、今はではすっかり変わった。去年その山ちゃんと久しぶりに飲んだが、よく行った居酒屋に入り昔話に花が咲き旧交を温めた。しかし会計は割り勘で、お釣りは十円までしっかり受け取って帰った。当然今では店主の世代も変わり、ツケなどきくわけない。

むかし飲み屋にはいると「いつもニコニコ現金払い」という張り紙が良く見える所に張ってあったが最近はこの張り紙、見かけることはない。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

ズッキーニ

いまズッキーニはどこのスーパーの野菜売り場でも普通に見かける。この野菜はイタリア料理が定着した後に、少し遅れて日本の市場に登場したわりと最近の野菜である。パスタのトマトソースをたのむとこのズッキーニが入っていることが多い。ズッキーニはイタリヤの野菜でキュウリに似た外見だが、水分が少なく食感は固めのナスのようだ。油を吸い込むので炒め物や、ズッパ(野菜スープ)に入れると旨い。ズッキーニとは二個以上のときの複数形なので、本当は単数形のズッキーノと言うべきなのに、なぜか日本ではズッキーニという複数形が定着してしまった。今もズッキーノと書いて変換ボタンを押しても変換されず、ズッキーニと入れると変換される。

「ズッキーノ!」とイタリアの子供達はよくこう叫んでいる。これは(カティーボ、ばか!)に近いことばで[バカヤロウ!」という意味の日常よく使う言葉だ。人のイメージとは面白いもので人種、民族を超えて共通しているイメージ言葉もある。日本人でも「ウリ野郎、ドテカボチャ、ボケナス」と言われたら、当然バカにされたと感じる。そのた最近使われるピーマンは頭が空っぽのことで、フィノッキオこれはセロリに似たイタリア野菜でイタリア語では同性愛者ホモの隠語だ。だいたい野菜にたとえる呼び名にはろくなものがない。人に言われて良いイメージの野菜などあるのだろか?と考えてみると大根、ゴボウ、ナス、ニンジン、白菜、キャベツ、ウドと全部だめか?

去年アメリカの大リーグで、日本から移籍したダルビッシュ投手が相手チームの選手に目じりを指でつり上げる侮辱行為を受け、問題になったことがある。これは一般的に東洋人は目がつり上がっているので、東洋人を見下す行為である。私はこの行為を一度イタリアでやられた経験がある。むかしミラノの街のバス停でバスの来るのを待っていた。すると5,6歳の女の子がわざわざ私の目の前に進み出て中指で両目じりを吊り上げた。なんだこのバカはと思ったが「ズッキーナ!」(女の子なので語尾がAの女性形)と心で罵倒し目をそむけた。遠くで親がこちらを見ていたが知らんぷりを決め込む。まさか親に支持され、わざわざ近寄ってきたとも思えないが、異人種の中にいればこんなこともたまにはある。

写真はパスタにも使える深めの皿。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

餃子

しばらく食べてないと食べたくなる物の一つに、ラーメンと共に人気のある餃子も入るのではないかと思う。その餃子で浜松と宇都宮が消費量日本一を競っているというニュースを去年テレビで見た。以前焼き餃子のルーツを中国に訪ね歩くというテレビ番組を見たが、どうもそのルーツがはっきりとしない。本場中国では餃子は全て水餃子で、焼き餃子は殆ど存在しないというのだ。焼き餃子は中国では残り物のイメージしかなくまともな扱いをうけないらしい。何年か前に日本の焼き餃子専門店が中国に出店したが、数年で撤退したことがあった。結局その取材でもはっきりとした結論はでずに番組は終了したが、推測によると戦前に満州の何処かで食べられていて終戦後引き上げ者が、日本に持ち込んだらしいということだった。

焼き餃子は我々が子供の頃は中華料理店のメニューにはなかった。私が焼き餃子と初めて対面したのは60年近く前の小学生の高学年の頃、中野のおばさんの家へ遊びに行った時のことである。昼時に従兄弟のお兄さんに、「伸ちゃん、美味いもの食わしてやる!」と連れて行かれたのが、中野駅近くの中華料理屋だった。(当時まだ焼き餃子を出す店は無く、私の記憶ではたぶん中野周辺が焼き餃子の発祥の地ではないかと、勝手に推測するのである)店は混んでいたが初めて食べる餃子の味の美味しさには、びっくりした記憶がある。それから数年たつと急速に焼き餃子の人気が広まり、次第に地元の普通の中華料理店のメニューにも加えられるようになった。

半世紀近くも前、北欧からシベリア経由で帰国する列車の中で知り合ったデンマーク人のマリアンヌという女性と知り合う。彼女は出版会社の特派員のボーイフレンドをわざわざ日本に尋ねるために来日するという。帰国後に鶴見に住む彼ら滞在先を訪ねたり、自宅に呼んで交流していたが夕食の時間になったのでなにが食べたいか?彼女に聞いてみた。するとその答えが意外にも「ニョーザ!」。「え!なに?もう一度いってよ」。「ニョーザ」。「ああギョウザか!」餃子なら安くていいやと駅近の中華店に連れて行った。「なんで餃子なんか知ってるの?」と聞いてみると、彼と川崎の餃子屋には数回行ったそうで餃子が大好きだといっていた。

最近では外国人の皆さんも餃子が人気があり、中国でも流行る可能性があるという。ラーメンの次は焼き餃子のグローバル化もありそうです。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

肝油

私が小学生の時に給食で飲まされた脱脂粉乳と共に、苦手だったのが肝油である。パパーゼリーとも呼ばれなんとなく聞えはいいが、これが実にうまくない。15ミリほどの半球形の大きさの黄色いジェリー状の塊の外側には、砂糖がまぶしてあるが噛むとなんとも言えずいやな臭いと味がした。鮫の肝臓から作られているというこの肝油は、小学校の給食の時間になると毎日先生が、各自に2個ずつ配る。これを生徒は先生の見ている前で、半強制的に食べさせられるのだ。当時の児童はまだ一般的に食糧難で栄養のバランスが充分でなく、今のサプリメントのように子供の補助食品として摂取が強制されていた。特に夏休みには毎日食べるようにと一缶配られるが、ほとんど食べずにそのまま捨てていた。

それと新学期になり、必ず受ける各種の予防注射は最悪だ!ツベルクリン、ジフテリア、チフス、日本脳炎、種痘、など毎週のように保健室に連れて行かれ注射をうたれる。当時は針も太く今の注射よりも痛い。針も使いまわしで医者は脱脂綿で軽く拭いて消毒するだけ、これで肝炎を移された児童も多いと聞く。また当時は結核が非常に流行っていて、ツベルクリンに陰性だと待っているのが、もっとも怖い注射BCGだ!この注射はとても痛い上に必ず化膿する。私は直るまでに二ヶ月ぐらいかかることもあった。そこでツベルクリンの検査の時には陽性反応に見せるかけるために、注射痕を叩いてわざと赤くしたりしていたが、直ぐに色が消えバレる。医者の目を子供が簡単にごまかせるわけない。

「おかあちゃんー!」と泣きながら教室を飛び出し校庭を駆け抜け、校門へ向かう二人の男の子がいる。「また、ヤッちゃんとタカちゃんか」男の子の中には本当に怖がりな子がいた。注射の日を予告すると欠席するので、注射の日は予告無しで突然に保健室へ連れて行かれる。するとそれを察知した気弱な男の子が突然泣き叫び、校舎を後に自宅へとんで帰る。でも女子にはこんな臆病な子はいなかった。むかしの小学一年生はユニークな子がたくさんいた。まだ幼稚園に通っていた子が少なかったので、いきなりの集団生活に全くついていけない。野山を駈けずり回っていたガキが突然教室で50分もジッとしていられる分けがない。

始業式から一週間ぐらいは朝学校に行くとと、隣のクラスの男子と集団で戦争をする。入り口の戸を閉め篭城する彼らに、廊下の横の吐き出し口を開けバケツの水を教室にぶちまけたりした。もうメチャクチャで慣れるまでに一ヶ月くらいかかった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

煎餅

浅草浅草寺の仲見世裏通りに、一軒の手焼き煎餅屋がある。ここでは常時煎餅を店頭で焼いていて、一枚から販売している。外国人達には珍しさも手伝ってか、煎餅の一枚売りは人気がある。でも買っているのは主に観光客で一枚売りでは手間がかかるだけで、儲けになるかどうかは分からない。最近日本人は煎餅を日常食べる人が減っていて、街中での煎餅屋は殆んどが廃業した。今も残っている多くは、神社仏閣などがある門前町にある。人で賑わう仲見世通りを歩くと、レンタル貸しの和服を着て楽しんで歩く外国人を見うけるが、彼らは高い買い物はしないという。常に観光客で混雑するだけで食べ残しのゴミは捨てるし、掃除も大変だと浅草観光協会の担当者がこぼしていた。

「こりゃなんだ?」日本から持ってきた醤油味の煎餅を、以前イタリア人に日本のクッキーだと言い食べさせてみたことがあった。クッキーは甘いものだと頭から思っているので、食べた時のリアクションが面白い。多くの人は驚いて吐き出したりもする。「これ旨いね」と言って全部食べる人などまずいないなかった。醤油など塩味の菓子は欧米ではあまり見かけない、欧米人は日本人から比べると食域がかなり狭い。だいたい毎日同じものを食べているので、新しい味覚を受け入れる気持ちもなかったが、彼らも最近では和食を取り入れ始めた。我々が子供の頃は日本人も毎日同じ物を食べていた。ご飯、お新香、味噌汁、魚の干物などである。でもこれは食域が狭いというより、食材が殆んどなかったと言うべきである。

煎餅やオカキなどの甘くないお菓子がこれほど沢山ある日本は、世界でも珍しいと思う。どこの国でもお菓子は甘いのが一般的で、まして子供のおやつ等ではなおさらだ。日本でも子供がおやつに煎餅を食べなくなってから久しい。その代わりにオカキの種類はずっと増えた。食べやすい大きさのオカキは一個ずつ包装されていて、手に取りやすいのもよい。最近私もビールのつまみにオカキを食べることがある。オカキは砂糖の糖分がなく、ダイエット効果があるのではないかと単純に思うが、体の中でデンプンを糖分に変えたら、結局は同じことなのかもしれない。煎餅は食べなくなったが、オカキとして日本人の味覚にしっかり継承されると良いと思う。

煎餅を入れるなら写真のこの器でしょうか。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

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