イナゴの佃煮

「なんか、旨そうだよこれ」今日もたくさん取った銀ヤンマの一匹を虫篭から取り出し、シッポをはずし胴体をむしる。すると小さいが薄茶色の綺麗な筋肉があらわれる。それをじっと見ていると口に入れたくなる衝動に!「やばいよ」たじろぎ我に返えった。私は子供のころ虫取りが大好きで、夏になるといつも炎天下麦わら帽子を被り玉網で虫を追いかけていた。特に銀ヤンマは大好きで、あの美しいブルーと銀色のその胴体は見飽きることがなかった。毎日何匹ものギンヤンマを捕まえてくるので、さすがの親父も見かねたのか「銀ヤンマは害虫を食う益虫なので、捕まえても直ぐに逃がしてやりなさい。トンボが化けて出るぞ」とたしなめられた。

ところがこの私の行動!実は日本人のDNAにしっかりと刻み込まれた行動だったのだ!ある文献によると、縄文時代まで一部の昆虫は子供のおやつで、トンボやバッタは重要な蛋白源であったという。だから特に男の子は、今だにトンボなどを見ると衝動的に追いかけたくなるそうだ。「そうか?やっぱりそうだよなあ、おやつを採りに行っていたんだよ、俺は!」と納得するが、今でもニューギニアの山奥の子供達は昆虫を直接捕食しているという。昆虫食はとても体に良いらしい!栄養バランスがよく健康維持には最適だというが、なかなか食べる機会がない。これからの時代昆虫は未来食として注目されていて、食品としての美味い食べ方が研究されているという。

子供の頃、実際に恐る恐る食べた昆虫は蜂の子である!蜂の巣を木から叩き落し、巣の中から蛆虫のような姿の蜂の子をとりだす。「お前食べる勇気ねえだろう」友だちが言うので「ばかやろう」と返して、口の中へ放り込み噛んだ真似をする。友だちはじっと私の口元を見つめる。「旨いか?」「まあまだ、お前も喰ってみろよ」と言い私はそのまま飲み込んだ。なので蜂の子の味は分からないかった。現在昆虫なかで食物として一般的に売られているのは、イナゴの佃煮ぐらいであろうか?戦後暫くは農薬散布がまだ余り行われずに、田んぼにはイナゴがたくさんいた!それを思うとイナゴの佃煮もわざわざ食べたくはない。

蜂蜜を与えられて育つミツバチの幼虫は食べると甘いそうだ。でも昆虫からの最高の送りもはやはり蜂蜜かな。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎。冨岡伸一)

ラッキョウ

むかし街の酒屋の多くは乾物屋も兼ねていた。店頭の正面にはガラスケースの中に乾物が、壁際には酒類を並べて販売していた。また店の一角には粗末なテーブルが置かれ、立ち飲み出来る空間がある。そして夕方になると仕事帰りのサラリーマンや職人が、ここに集まってコップ酒をあおった。酒を原価で飲めるので居酒屋で飲むより安上り、毎日晩酌する独り身には喜ばれた。当時日本酒は小瓶がなく一升瓶や樽酒からの量り売りであった。四角いマスに酒を満たし量ってからコップにあけるとこぼれる事もある。そこでしだいにコップをマスに置きこぼれる酒を受ける、今でも居酒屋にいくとやっている「ヘンテコリン」あの飲み方になっていった。

また酒屋の立ち飲みは安く酔いの下地を作るには都合が良い。私も勤め始めた頃、「今日は俺のおごりで銀座のバーに連れってやる!」と先輩に声をかけられて喜んでついて行くと、まず連れて行かれたのが、新橋のガード下にあった立ち飲み屋だあった。「ここで好きなだけ酒を飲め!その代わりバーに行ったらあまり飲むなよ」とねんをおされた。確かにサラリーマンにはこの飲み方は合理的であると思った。子どものころ夕方酒屋に使いに出ると、よくこの立ち飲みの光景に出くわす!おじさんたちがワイワイガヤガヤ、コップ酒をあおりご機嫌だ!「酒なんか飲んで何が楽しいいんだよ!」遠巻きに眺めていたが、良く見ると俺の嫌いなラッキョウをチビチビかじってる。その酒屋ではコップ酒を頼むとサービスでラッキョウを2,3粒小皿に入れて出していた。

「だってラッキョウが転がるんですもん!」ずっと以前テレビのコマーシャルで放映されて、このフレーズが評判になったことがある!何を見てもおかしい女子高生の感情を実に素直に表現していた!ラッキョウを箸で掴んだがスベッテ転がった。それだけでケラケラ笑える年頃がある!我が娘もそうだった。下らない事でよく笑っていたが、働き盛りで頑張る親父はそれを冷ややかな目で見ていた。娘にしてみれば「いつも難しい顔して馬鹿みたい!」と当然そう思っていたに違いない。「若いときのパパはとても怖かった」と最近娘が口にしていたが確かにそうだったかもしれない。立ち飲みのコップ酒もラッキョウもどうでもよいが、なにかこの相性ピッタリはまると思いませんか?

やっと丸くなって来たと思ったらもうこの歳だ!丸くなったというより怒る元気がなくなったという方が正解かも。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

オソバ

本八幡駅を背中に一番街を右手に入った直ぐのところに、かつてユエメイという中華そば屋があった。一番街はあの高級イタリアンレストランチェーン・サイゼリアの一号店があった場所で、昭和30年代の中ごろまでは道路の片側にドブがあり、その店はドブ板の上に建っていた。今でいう屋台のようなカウンター席だけの粗末な店は、戸もなく垂れた暖簾を分けて席に着いた。でもいつも客で混んでいて、この店で出すオソバと呼ばれる中華そばがとてもユニークだった。「ええ、たったこれだけか?」出てきたソバを見てびっくり!ドンブリの中は透明な塩味のスープにソバと少量の刻みネギだけで他に具は何も無い。それでもスープの味が良く繁盛していた。その後一番街のドブに蓋が被せられ歩道になるとその店は、斜め前の店舗に移る。

子供の頃は父親と時々通ったこの店に、高校生になると学校帰りに友達と寄るようになる。当時は学生服を着たまま飲食店や喫茶店などにも入ったが、今のように厳しく注意されることもあまり無かったようだ。「オソバいっちょう、おつごう4ちょう」店はいつも混んでいて景気の良い掛け声が飛び交う。ただメニューはこの具なしソバと、何枚かのユデ豚が乗ったチャーシュウメン、それに餃子の3品だけだった。そしてこの餃子もまたまたユニーク!形が丸く中の具はウドン粉がほとんどで、噛むとモチモチで我々は餃子と言わずに団子と呼んでいた。この団子、焼くというより多めの油で揚げてある感じであった。

「おれ今朝、見ちゃったんだよなあ」学校に登校するとこの一番街を出た駅前のバス通りで、菓子屋を商う子息の友人がいう。「俺が早朝店から外に出ると、ゴミ置き場でユエメイの親父が八百屋の出したゴミをあさり、青いネギだけを抜き取っているのを見た。あれまさか刻んでソバに入れてねえよなあ?」という。そう言えば店のテーブルにはいつも器に入った青い刻みネギが置いてあり、サービスで自由にいれることが出来る。「そうか、だからあのネギはタダなのか」そう答えた私はそれからはタダネギはなるべく入れないようにしていた。この店は昭和の時代と共に20年くらい前に閉店したが、このオソバの味は今でも懐かしくもある。

戦後の昭和は良い時代だった。今日より明日はもっと良くなると思えた時代で、平凡な庶民でも夢と希望があったような気がする。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

 

カボチャ

誰にでも絶対に食べたくない食品は世の中に一つくらいはある。「すいませんお母さん、カボチャだけは勘弁してください!」長女の旦那がまだ彼女のボーイフレンドだった頃、自宅によく遊びに来た。母親が夕食のおかずにカボチャの煮物を作って、義兄に勧めた時のことだった。「戦後食糧難の時代に、カボチャは嫌になるほどたくさん食べたので見るのもやなんです」とはっきりと断った。普通状況を考えればお義理で一つぐらい食べるところを、よほど嫌いなのであろうか「カボチャはもう一生分食べたので、二度と食べないと誓ったんです」と義兄は続けた。彼はそれから今でもカボチャは全く食べないらしい。

戦後しばらくは、我が家の庭でもカボチャを作っていたことがあるという。狭い庭を耕しカボチャの種を巻くと農作業を知らない都会人でも、長く蔓が伸びてひかくてき簡単に収穫できた。でもこの頃のカボチャは和カボチャで、水っぽく非常に不味かった。戦争直後の家庭菜園での人気農産物はトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモそしてこのカボチャであった。どれもみな今の品種ほど美味くはないが腹の足しになっていた。しかし特にカボチャは時代と共に旨くなってきている。どんどん新しいカボチャが品種改良されると、今では天ぷら、煮物、スープと何でもいける。ただ和カボチャは今でも相変わらず水っぽくて旨くない。しかしゴツゴツしたその形は絵に描くとおもしろい。和カボチャを見ると武者小路実篤の墨で描いた野菜の絵を思い出す。

ところでカボチャの語源は何か?カンボジアから渡来したからカボチャというが、その他ナンキン(南瓜)、唐茄子(とうなす)という呼び名もある。中国の南京から渡来したので南瓜、唐の国の茄子だから唐茄子。いずれの名も南蛮渡来ということだ。しかしカボチャの原産国はジャガイモ、トウモロコシやトマトと同じ新大陸で、メキシコあたりが原産だそうだが詳しくは知らない。また栗のようにホクホクして旨い栗カボチャは、非常に硬く包丁で切るのが大変だ。女房には「カボチャ切ってよ」と頼まれたこともあるが、「俺だって切りたくない」と呟くもしぶしぶ受ける。「いっそうの事、ナタで叩き割ったら」ということで別の名を、ナタカボチャとも言う。今ではカボチャは食いたし怪我は怖し。

先日むかし薪割りに使ったナタを古い道具箱の中から捜してみたが、もうとっくに処分したようで見つからなかった。今ナタを知らない若い人も多く、キャンプ場以外では使用することもないのでは。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)

カツ丼

「伸ちゃん、伸ちゃん!ほら見てごらん。永井荷風が歩いてるよ!」突然、一緒に歩いていた母親の声に促された。前方を見ると背の高い男が大またで闊歩して、通りを横切って行く。[永井荷風ってだれだ?」まだ幼児だった私は戸惑ったが、その時の荷風の風体が妙に脳裏に焼きついている。(黒い帽子に丸メガネ、インバネスケープを羽織り、下駄履き、足元からは股引きがチラリと覗いていた)それから学校に通う道で何回か見かけたが、暫くすると彼は自宅の近くから駅近の別の場所に引っ越したと聞いた。今この八幡小学校の前の通りは、荷風通りと名づけられている。

そして小学3年生の頃だったか?学校の校庭に突然たくさんの報道陣の姿が「何があったのだ?」いぶかしげに眺めていると、永井荷風が亡くなったと聞かされた。「なんだ、荷風はあれから八幡小学校の隣に越したのか?」別に興味もなかった。(やんちゃだった私はその後、文学などを読み漁る内向的で本好きの青年になるなどとは、当時は夢にも思わない)この荷風が亡くなった家のすぐ近くの京成八幡駅前に、大黒屋という一軒の割烹料理屋がある。ここに荷風は毎日のようにやってきては、いつも同じ席に座りカツ丼を食べていたと言う。私も何度かこの店に入ってカツ丼を食べてみたが、特に変わった仕立てではなかったようである。

別に荷風にあやかろうとしてる訳ではないが、実は私もカツ丼が大好きだ。蕎麦屋に入ってもザル蕎麦でなく、ついカツ丼を注文したくなる。せっかくカロリー摂取を考え蕎麦屋に入るのに、カツ丼では逆の結果に終わってしまう。じっと我慢するが他の人がカツ丼を食べていると、どうしても視線がそちらに向かってしまう。「だったら、荷風のように毎日カツ丼喰ったら良いじゃん。そんなに長生きしたいのか?」と心の中から私を誘う声がきこえる。「うーん、どうだろう」でもこのあいだ晩年の荷風を見たと思ったら、あっという間に白髪頭に「人生なんてやはり一瞬の幻影だなあ」荷風が通ったこの大黒屋も、つい最近店を閉めた。昭和もどんどんと遠ざかる・・・。

カツ丼は人気メニューのわりには専門店がない。味噌カツドン、ソースカツド丼とイロイロなカツ丼をセレクトできればカツドンを食べる頻度はますのだが。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎・冨岡伸一)