浴衣

家業が和服などの柄を意匠する仕事を生業にしていた関係上、私もなんとなく自分が身にまとう衣服にも興味を持っていた。しかし幼児の頃は真夏になると蒸し暑いので、白いランニングシャツとパンツの下着で過ごすことが多かった。そのまま日中麦藁帽子をかぶり虫取りなどにも平気で出かけると、どうせ夕方には泥だらけになるので洗濯の手間も省ける。洗濯機も無い当時は子供が多いと母親も大変だった。大きな木のタライに水を張り、石鹸をぬった下着をゴシゴシと洗濯板にこすり付けて一枚一枚手洗いする。労力の必要な洗濯は、掃除、食事の支度と同様に主婦の重要な家事の一つであった。その頃は大人の男性でも下着で街を闊歩する人もいて、それを見ても何の違和感すら感じなかった。

「お呼びでない、お呼びでない!これまた失礼をいたしました」ともう亡くなった植木等さんが昭和30年代の中頃、シャボン玉ホリデーという番組で、この典型的な下着のおやじスタイルでテレビに登場した。薄いチジミの白いダボシャツにステテコ、それにベージュ色のニットの腹巻をし、パナマ帽を被り、下駄履きに扇子で扇ぐ姿。当時流行っていたロシア民謡を「エイコーラ、エイコーラ、それ漕げエイコーラ・・・」とコーラスが気取って合唱していると「おっ母さんのためなら、エーンヤコラ!」と下着姿の植木がヨイトマケの歌を歌いながら闖入してくる・・・。植木が場違いに気づき「お呼びでない!これまた失礼いたしました」と退場すると、皆さんズッコケテ番組が終了した。

しかしこのスタイル、奥さん方には非常に評判が悪いようであった。そこで徐々に皆さん開襟シャツやズボンなどで身支度するようになる。「洗濯機って、ほんと助かるわ!」このころ洗濯機が急速に一般家庭に普及し、増えた洗濯物を主婦が簡単に処理できるようになったことも、身だしなみに気をつける追い風になったと思う。私の両親は仕事がら普段でも着物を着ていることが多かった。高校生になると父親が私に浴衣を新調すると言い出した。「粋でイナセな江戸っ子の兄ちゃんの浴衣の柄は、やはり菊五郎格子だ」といって歌舞伎役者の三代目尾上菊五郎の「キ九五呂」文字がデザインされた、紺色の格子柄にきめた。しかし当時の私はVANのアイビールックに夢中!せっかく父親の作ってくれた浴衣に袖を通したのも数度であったと思う。

写真は10年前に陶器で製作した和服の女性。(勝田陶人舎・冨岡伸一)

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