三越

先日コレド日本橋に行ったついでにふと思いついて、日本橋を歩いて渡り三越本店に立ち寄ってみた。中央通りのライオン口から入店すると一階は化粧品売り場に多くの面積をさき昔の面影と大分違う。とりあえずエスカレターに乗り四階に上がってみたが、しかしどこを見回しても呉服売り場が見つからない。その階を一周してみるとやっと南東の片隅に呉服売り場を発見!「あれ、こんなに小さくなっしゃったのか」と驚く。五、六十年前私が三越本店を遊び場としていた頃は、四階は全フロアーが呉服売り場であった。当時と比較するとたったこの面積になってしまったのかと時の移ろいを感じた。

越後屋呉服店が前身の三越をはじめ、老舗の百貨店の多くは呉服屋で創業した。江戸時代から女性に呉服を売ることで発展してきた歴史がある。戦後しばらくしてから呉服が徐々に売れなくなると、洋装の販売に力を入れ売り場を拡張していく。そして海外の高級ブランドの需要が高まるとブランドのインショップを招きいれた。しかし昨今のように安物やネットに押されてブランドや既製服も売れなくなると「さて困った!何を売ればよいのか分からない」でもそのとき爆買いの中国人が大挙押し寄せる「よしこれで行こう」と免税店などを作り、売り場対応するも、あっという間に終息して次のテーマが見つからないでいる・・・。今の若い人たちはアマゾンなどのネットで物を買い、無店舗販売が主流となると店舗さえいらない時代になってきた。

最近百貨店ではスマホなどで商品の写真撮影が禁止になった。理由は写真で欲しい品を撮り、ネットで購入するからだという。百貨店は各メーカーのショールーム化しているのか?いずれにしても百貨店にとっては大変な時代になった。子供の頃から百貨店を見てきて育った私は百貨店には愛着がある。物販がだめなら飲食だけ残してオフィスビルに建て替えるか、テナントビルにしたらどうだろう?でも百貨店は買い物の楽しみや夢を売る商売である。地下と一階を飲食に、その上は温泉などのリゾート施設とスポーツ娯楽、観劇やカジノ、上層階は高級ホテルとかが良いのかも。いずれにしてもなんとか生き残りを模索して欲しい。

「今日は帝劇明日は三越」といわれた時代から百貨店が生活の基盤であった我が家では百貨店の消滅は人事ではない。

(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

写真は自作のファッション人形。直立できないので手すりによりかかるポーズにした。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

 

思い出

「冨さん、この街ではこの曲、歌わないほうがいいわよ」突然のママの言葉に戸惑っていると「ほらさあ・・・、いろいろあるでしょう?」私が歌手伊東ゆかりの「小指の思い出」という曲をカラオケでリクエストした時のことである。まだバブルがはじける以前の話し、神戸の靴メーカーの社長と一緒に夕食の後、神戸三宮にあったアズサという行きつけのクラブに行ったが、この日は四席あるボックスは満席だった。席の空くのを待つあいだカウンターに腰掛けママと雑談中に、カラオケを歌う順番が来たので曲名を伝えた時の返事がこれだった。「無い人がけっこういるのよ」と小指を立てささやいた。そうだここは地元か!

かつてこの曲を店で歌い、その筋の人にいやみを言われた客がいたという。若いときからの伊東ゆかりのファンでこの曲は時々歌っていたが、考えてみるとこの曲は何か歌詞が変だ。「貴方が噛んだ小指がいたい、昨日の夜の小指がいたい」だいたい彼女の小指を噛む男などいるのか?よほど変わった奴だなそいつは!「そっと唇おし当てて、あなたのことを偲んでみるの・・・」まずい!確かにまずい、曲の裏に何かを暗示している。手足の一部などを失った人に聞くと、時々無いはずの部分が痛む時があるという。思い出されても困るので、それからこの曲を歌う時には周囲の状況などを、見回すことにしていた。

私の母親は京橋木挽町の生まれで家業は牛乳屋。子供のころ隣は博徒の親分の家であったと語り始めた。普段その夫婦は普通に生活していて、母親や幼い兄弟達を可愛がってくれていたという。しかしその家ではたびたび賭場を開いていて、母がたまたま隣家に上がりこんでその様子を見ていたときの事、突然何人かの警察官入り口を開け侵入してきたという。すると怒号を背にあわてて一目散に窓から逃げていく男達を見て、びっくりしたことがあったそうだ・・・。先日京成電車に乗ると痩せこけた老人が私の前の席に腰をおろした。白い無精ひげの顔から彼の手に視線を移すと、その左手の小指と薬指の第一関節が消えていた。「そうか、この老人も若い頃は相当ヤンチャであったのだろう?」と推測した。

今はその筋では落度があってもお金で解決、小指など落とさないという。

写真は母の思い出の品、三味線の本とバチです。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

「まずい!飛び出してきた二匹の犬に、あっというまに前方をふさがれた」ワンワンと吼える声が聞こえたと思ったら、もう目の前に飛んで来ている。絶体絶命だ!少しずつ身構えながら後ずさりするが、牙をむき出し今にも飛び掛らんばかりだ。ボクサーに似た中型の黒い犬は距離を詰めてくる。「こんな所に入ってくるんじゃなかった」と後悔しても遅い。パニックになりながらも少しずつ後ずさりを続ける・・・。と突然二匹の犬は体をひるがえし、何事もなっかったように元のヨットの方に帰って行った。「ああ良かった」あまりの恐怖に体がへたりそうだ。「なんだ今のは?」我に返りほっと胸をなでおろす。でもまた来るかもしれないと足早にその場から立ち去りビーチに戻った。

大きく深呼吸をし気持ちを整えてリラックスする。ゆっくり歩く南国の晴れた空は陽光が眩しい。眼を細め視界を下げると遠浅の海には白波がたち、サーフィンや波と戯れる人々の歓声が聞こえる。あこがれのあのワイキキビーチか!広い砂浜の手前には椰子の木が伸び、海岸線にそって美しい背の高いホテルやリゾートマンションが立ち並ぶ。しかしどこを見てもハワイは明るく清潔で美しい。まるで絵を見ているようで湘南の海とは桁違いだ。当時アメリカと日本ではかなりの経済格差があり、まだ1ドルが360円の時代でアメリカの物価はかなり高かった。50年以上前、海外旅行がまだ珍しい頃、私は洋上大学に参加し船でアメリカに渡ったことがあった。

途中ハワイに寄港しバスツアーのあとワイキキでの自由時間に、一人景色に見とれビーチを散策していると、はずれにあるヨットハーバーの中に侵入した。日本では見たこともない美しい大型ヨットの数々に、つい見とれていて桟橋の奥の方まで入り込んだのがまずかった。事前に何の情報もなく、まさか船の中に番犬がいるなどと思ってもいなかった。でも今考えてみるとあの犬、そうとう訓練された犬でヨットから一定の距離を離れると、あっという間に普通に戻った。船が盗難にあうからか?番犬を乗せている船もあったのだ。幼児のころにいきなり犬に噛まれ、保健所で太い注射をうたれていらい、犬の思いにはろくなものがない。

そのご我が家でもビーグル犬を飼ってイヤイヤ毎朝散歩に連れて行ったが、この犬が私になつくことは無かった。(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

雪見障子

昨日から降り続いた雪も未明には止んだが、今朝雨戸を開け庭を見ると10センチ程の積雪があった。子供の頃は雪が降ると大はしゃぎして、積雪の中を転げまわって冷たさを肌で感じたこともあるが、歳を取るにつれてありがたくない存在に変わっていった。むかし小学校の教科書に掲載されていた、雪国の子供達の暮らしぶりの写真を見たことがあった。カマクラの中にミカンや菓子などを持ち寄り、コタツを囲んでカルタなどをしている様子などを見ると、真に雪国の子供達が羨ましく感じたものだ。そのためかカマクラをいつか作ってみたいという強い願望もあって、雪が降ると沢山積もるよう願いながらガラスごしに外を眺めていた。

ところで最近建てる家は様式住宅なので、雪見障子を作ることはまずないと思う。昔の家は寒い冬の季節、部屋にいながらにして外の様子などを伺うために、障子の一部分にガラスをはめ込んでその部分を障子と二重にし、上下にスライドさせると、必要に応じてブラインドやカーテンのように、目隠しできる障子があった。雪の降る光景を眺められたので雪見障子の名が付けられた。コタツに入って花札カルタをすると、桜の花とサカズキで花見で一杯と、お月様とサカズキで月見で一杯という役がある。しかし雪見で一杯という役がないのが残念だ。私はチラチラ舞う雪を見ながら一杯飲むのがすきである。雪見障子はそのためにあると思う。

私は雪深い裏日本や東北で暮らしたことが無い。そのため日々の生活の中で雪下ろしや除雪の困難を体験していない。千葉県のように降雪も稀だから良い。実際に毎日降り続く雪を見ていて、風流心の一つも湧いてくるのか疑問である。そのため雪国家屋で雪見障子が存在するか否かを私は知らない。多分ないのではないかと思う。毎日のように降り続いたら、雪を楽しみに眺めて一杯飲むという発想はなど湧いてこないのではないか。逆に視界を遮断して降雪を忘れたくなるはずだ。もし雪国の家に、この機能の障子があっても雪見障子とは名づけないかもしれない。冬の間は閉ざしておき「雪隠し」と名付けるかも?

写真は昨日の積雪を自宅の雪見障子を通して撮影したもの。全開と半開に上下にスライドさせてみた。雪国育ちの皆さんいもかがですか?(千葉県八千代市勝田台、勝田陶人舎)

© 2024 冨岡陶芸工房 勝田陶人舎